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 その様にやや、辟易としているなまえは、早くこの話題を終わらせたいらしく(頭も重いし)、か細く声を出した。

「……それ……」

 彼は、振り絞るように、声を発した彼女を見つめ、どう弁明するか、(内心、どう揚げ足をとって、詰ってやろうか楽しみにしながら)続く言葉を待った。

「……私じゃないと思う。」

 予想外の答えが返ってきた。
 彼は目尻をひくつかせた。
 これは、何かの聞き違いだろうか?彼にはなまえの放った言葉の意味がよく分からなかった。しかし、ここは冷静に

「……つまり、君が、言いたいのは、殴ったのは自分ではない。……と、言いたい。という解釈で、間違いは無いかい?」

なまえは、頷くと、

「だって……そんな事、してない。」

恐らく、彼女は心の底からそう思っているのだろう。只々、本当に不思議そうな顔で彼の事を見ている。
 案外長い付き合いのこの二人。どこぞの電子機器のフローチャートよりも複雑ななまえの思考回路を或る程度熟知している。
 しばらくの沈黙のあと、巡らした考えの結果を彼は口にした。

「……要は、君は自分のした事を、全く、これっぽちも覚えていない。よって、自分の記憶に無い事は、『何も起こっていない』という風に認識している。と?」

「…だって、殴ったり、してない。」

「いや、実際に殴ったよ。君が覚えてないだけだろう?私は現に、被害にあってる。鏡はまだ見てないが、青あざが出来てるんじゃないか?」

「……私じゃ無い。」

また、その言葉だ。彼は、なかば呆れ、諦め、大きくため息を吐くと

「じゃあ、もうこの件は良いとしよう。このままじゃ、水掛け論だ。だが、私のなかでのわだかまりは消えないぞ!そうしたら、君が覚えているであろう、ケーキの件の話しをしよう。なんで、全部食べた?」

そう言われ、なまえはさっきよりも、きょとんとした顔で

「…問題解けたら、食べて良いって言ったから。」

それが一体何の問題が?と言いたげに首を傾げてみせた。彼は、今すぐ極寒の屋外に彼女を投げ出したい衝動を抑えながら、静かに言う。

「あぁ、確かに……言ったね。それは、間違い無い……」

自分の発言は覚えている。確かに彼女にはそう言った。が、しかし。



「そもそも、あの量が一人分だなんて思うかい?君の小さそうな胃に全部収まるとでも?あぁ、現に収まっているか。しかしな、あれは、紅茶と一緒に食べようと思っていたんだよ。君も数式を解くのに勤しんでいると思ってね。休憩がてら雑談でもしながら、というか、君は『雑談』なんて高度な会話術ができるのか?とにかく、一緒に食べようと思っていたんだ。それなのに、だ!」

 やっぱり、冷静ではいれなくなってきた。

「帰ってみれば、君は寝ているし、ケーキは消失している。まさか、あんな量を一人で食べるなんて思ってもみなかったよ!また買ってくれば良い。って思っているなら大間違いだ。何故なら、もう、あの店は今日で最後だったんだぞ。つまり、あの店の商品は今後手に入る可能性は限りなくゼロだ。ブランデーの香りが立つ実に美味しそうなケーキだったじゃないか。値段の割には大きくて、味も良い店だっただけに、とても悔いが残るよ、大いに!
 楽しみにしていたケーキを全部食べられ、あげく頬に肘鉄喰らわせられるなんて、何の厄日だい?しかも、君は何一つ反省もしていない!あぁ、もういい!もういい!」

 ついに、オーバーリアクションになって、彼は椅子から立ち上がった。

「これ以上続けるのは、時間の無駄だし、精神衛生上よくもないからな!しばらく顔を見ない方がお互い頭が冷える。ん?頭が沸いてるのは私の方だけか?とにかく、しばらく私の機嫌は悪いぞ!」

 彼は、寝室から出て行くと同時になまえの方を振り向いて「ちなみに、正解率は4割だ!」と、彼女の解いた数式の正解率だけ教えて乱暴にドアを閉めた。

 扉の閉められた音が響くのが止んで、独り取り残されたなまえは呆然としてしまった。まるで吹雪の様な出来事だった。
 鈍く痛む頭で聞いていたせいか、いまいち彼の言う事が理解出来ない。結局一体、何に対して荒げた態度を取っていたのだろうか。
 問題だってちゃんと解いたし、ケーキは食べて良いといったから食べたのだし、肘で彼を殴打した記憶なんてないし。
 彼は自身に起きた出来事を厄日だと、いったがなまえにしてみれば、こちらの方が厄日だと言いたい。
 考えてもまとまらないものは仕方が無い。
 そう思い、彼女は起こしていた身体を、ベッドに潜り込ませた。今はとにかくこの、ぼんやりする頭を何とかしたい。
 それにしてもこの感覚は以前にもした事がある。
 それは以前、彼が入れてくれたリキュール入りの珈琲を飲んだ時だ。
 香り付け程度で数滴入れたものだが、飲んでいる最中から強烈な眠気に襲われた。
 飲み終わる頃には、カップを持って頭をぐわんぐわん、揺らした記憶がある(そこから先は覚えていない。ただ起きてから彼に「なんで、珈琲飲んで眠くなるんだ?」と不思議そうに聞かれた。)。
 今回も同じだ。
 ケーキを食べている途中から、強烈に眠気がやって来た。
 しかし、砂糖の誘惑は強い。頭が振り子みたいになりながら、両手でケーキを口に押し込めて、ヤギの咀嚼みたいにケーキの甘さを堪能して、記憶が切れた。
 そんな事を思い出しながら、痛みが引く事を願ってなまえは眠りについた。




寝室のドアを閉めた彼は、リビングのソファに腰を下ろした。自分でも子供っぽいと思いながら、苛立ちがなかなか引かない。えぇぃ、くそっくそっくそっ!
 今なら誰も居ない訳だから、コートをひっつかみながら床を転げ回るのも有りか?
 実際に行動する寸前に、なんとかこの衝動を抑えた。
 これで何度目だろうか、ため息をつく吐息がリビングにこだまする。
 ソファに座り俯き加減に、どう気晴らししようか考えこんだ。
 紅茶をいれる気にもなれないし、買ったばかりの書籍を読む気にもなれ無い。というか、ここから動くにもなれない。
 しばらく動かずに、ソファで眼を瞑ったり、足を組み替えたりしていたが、なんとなく静かなリビングに居心地の悪さを感じてラヂオを付けた。
 外は雪が降っているらしく、どうも電波が悪い。
 不快な音と混じって、今日と明日の天気を伝えるキャスターの声が聞こえる。
 どうやら今夜はかなり吹雪くらしい。



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