かの黒いマギには兼ねてから面識があった。私が今よりもずっと若く、未熟で、一人前とは到底呼ぶことの出来なかった頃のこと、幾度か強引に連れ回された覚えがある。ジュダルはいつだって私の都合など思慮の内にいれてはくれない。ただ彼の都合のみで私の腕を引いていく。その度に私はこっそりと苦虫を噛み潰すのだ。
 そしてそれは、どうやら久々の再会となる今回も相変わらずのようだった。

「やっぱバカ殿のとこにいんのかよ! いつからだ? この前はいなかったような気がすんだけど」

 そこまでを言い終える間に、ジュダルは杖の一振りで私をシンドリア船から引っ張りあげた。私とてそれなりに経験を積んだ魔導士であるというのに、意に反して体は浮き上がる。現在の私は暗殺者でもなければ寄る辺の無い身の上とも言えない、謂わばシンドリア王国に近しい者になってしまったわけだから、あの頃のように大人しく連れられて行くわけにもいくまいと思うものの、天下のマギとちっぽけな魔導士のどちらに分があるかは火を見るより明らかであった。

「おい、ナマエさんをどうするつもりだ!」

 船に同乗していたシャルルカンの鋭い声が遥か下から聞こえてくる。嗚呼、これは不味いことになる──いや、もう既になっているのだろう。

「決まってんだろ、連れて帰るんだよ!」
「ちょっと……何を勝手なことを──」
「紅炎が待ってるぜ」

 ──慌てふためく船の上の人々を眼下に、視界が暗転した。

***

「──……何も気絶までさせなくても良かっただろう」
「だって、 コイツに本気で抵抗されたら色々めんどくせーし」
「ほう、マギのお前でもか」
「魔導士らしくない戦い方するだろ、コイツ。まあそこが面白れえんだけど──ったく、おい、さっさと起きろよババア」

 薄ぼんやりと靄がかかったようにはっきりしない頭が聞こえてくる言葉の意味を認識するよりも、突如として全身が痛みを訴える方が早かった。どうやら乱暴に落とされたらしい。

「いった……」

 冷たい床の感触が頬どころか全身を叩いて、漸く愚鈍な頭が思考を始める。暗転する前に起こった出来事が瞬く間に蘇ってくると、私を床に放り出した張本人であろうジュダルに文句を言ってやりたい気持ちが俄に沸き上がってきた。突然現れて拉致された挙げ句、床に投げ落とされババア呼ばわりをされるような筋合いなど無い筈である。
 したたかに打ち付けたらしい肩を庇いながら身を起こす。「いきなりどういうつもりなの、ジュダル」返事はなく、頭上にただ衣擦れの音が聞こえた。ジュダルが何も言ってこないのは珍しい。訝って顔をあげると、そこに立っていたのはジュダルではなかった。見知った顔──とはいえこうして見るのは数年振りの顔が、にやりと口の端をつり上げている。

「久しいな、ナマエ」

 記憶にあるより幾分低く、草臥れたような声。十数年ぶりにシンドバッドの声を聞いた時にも似た感情が沸き上がってくるのを、どこか他人事のようにも感じて不思議な心地になった。

「……紅炎」
「まだ生きていたか」
「……うん、まあ、お陰様で、と言うのも妙だけれど。……まだ、生きているよ」

 そう答えた後、なんと言えば良いのか解らなくなった。元気だったかと問うのは何か違う気がするし、調子はどうかと尋ねるのも妙な気がする。私たちは決して友のような気安い仲などではないからだ。
 床に膝をついたまま次の言葉を探している私とは違い、紅炎はゆったりと椅子に腰を下ろす。「俺は、こうなる気がしていたがな」と、くつくつと喉を鳴らして笑った。泰然たるその態度は宛ら王のようで──嗚呼、そうだ。はたと思い当たる。

「顔色は良さそうだが……少し老けたか」
「それはお互い様、でしょうね。閣下」

 取って付けたような敬称に、表情は然程動かさなかったけれども、確かにむっとしたらしいのが纏う空気で判った。

「よせ」
「そう仰られましても。昔より位も上がっているでしょう。無礼を働いたなどと首を刎ねられてはかないませんし」
「……ほう?」

 今度は表情が動いた。何か興味深いものを見る時の顔である。ちらりといつかの少年の面影が垣間見えた気がした。

「変わるものだな」
「それも、お互いでしょうね」
「どうやら相変わらず可愛いげはないな。まあそれでも昔と比べれば多少はマシになったか」
「……、その節は、」
「確か……『お前は私の王ではない。お前なんかにかしづく理由はおろか敬う義理も付き従う理由も無い。解ったら私を国へ帰せ赤狐』、だったか?」

 十代の愚かな私が確かにこの男に向けて言った言葉である。この男がまるきり忘れていてくれるだろうなどとお気楽に構えていたわけではなかったけれども、かといってまさか一語一句違わずに繰り返されることになるとも思っていない。忽ち顔が熱くなって、今すぐに消えてしまいたくなる。
 ぐうの音も出せなくなった私とは対照的に、ジュダルは声を上げて笑い始めた。

「なに、お前紅炎にそんなこと言ったの? いつ?」
「確か、迷宮に入る直前だったか」
「……若気の至りとはいえ大変な失礼を、」
「他にも覚えているぞ、『狐なら狐らしく――』」
「閣下にはその寛大な御心をもってどうか早急にお忘れ頂きたく、」
「悪いが記憶力は良い方でな。それに、俺はお前のそういうところも含め気に入っていた」
「当時から風変りな方と思っておりましたが、閣下は相当な物好きでいらっしゃる……」
「風変りなのはお前こそだったと思うが? ……それより、ここにはそう人も来ない。口煩いのもいない。楽にしろ。お前にへりくだられると気味が悪い」
「……失礼な」
「お前が言えた口か」
「……仰る通りで」

 悠々と椅子に腰かける紅炎は怒っている様には見えない。表情に見て取れるのは揶揄いの色だけだ。一語一句正確に覚えているくらいなのだから余程腹に据えかねているのかと思えば、存外にもそうではないらしい。
 視線で促され、私はようやっと腰を上げた。見るにここはどうやら紅炎の私室のようである。書斎といった方が良いかもしれない。書物や巻物などの紙の匂いと久方ぶりに嗅ぐ墨の匂いが鼻をつく。それらに混じって香の匂いも微かに嗅ぎ取れた。

「私は貴方の指示で連れて来られたってことなのかな」
「そうとも言えるしそうでないとも言える」
「……結局どっちなの」
「確かに捜してはいた。が、見つけ次第拉致して来いとまでは言っていない」
「つまり、ジュダルの独断専行ということ?」
「そうだな」

「紅炎が会いたがってたから連れてきてやったのに」とジュダルがむくれて見せる。

「もっとオレに感謝してもいいんじゃねーの」
「手段は選べと言っている」
「この子にそれは難しいんじゃないの」
「おいこらババア、お前にオレの何がわかんだよ」
「再会して早々に、背丈の他は昔とあまり変わっていないらしいことはわかったよ」
「否定できないな」
「お前らほんとむかつく」

 ジュダルが狭い部屋の中にも関わらず苛立ち紛れに魔力弾を撃ち出してくる。部屋の主である紅炎はさして気にしていない風だったけれども、壊れて困るものもあるだろう。仕方なくこちらも辺りに注意を払いながら撃ち返していれば、ジュダルはむきになって魔力弾の数を増やしてくるので、やはり昔のジュダルとそう変わっていないようだという確信が強くなったのだけれども、残念なことに当の本人はそのことに気がついていないらしい。

「そういうところだよ」
「そういうところってどういうところだよ」

 魔力弾自体に大した威力が無いにしても、相手は正真正銘のマギである。このままやり合っていても埒があかないどころか、いずれ私のほうが根負けしてしまうだろうことは言うまでもない。辟易した視線を向ければ漸く紅炎が制止の声を上げた。いかにも渋々といった様子でジュダルが杖を下げる。成程、こういうところは少し変わったのかもしれないと密かに頷いた。

「何だかんだ理由を付けても、結局はお前がナマエと話をしたかったんだろう、ジュダル」
「はあ!? 違えよ!」
「元はといえば、お前が連れて来たのがきっかけだったしな」
「あれは親父たちの指示だったっつーの!」
「だとしても、ナマエにべったりだっただろう?」
「んなことねーよ!」

 八つ当たりなのか照れ隠しなのか、どちらともつかぬジュダルの蹴りがとんできて私は慌てて跳び退った。私の腰の高さまでしかなかった幼い頃であるならいざ知らず、私の背丈などとうに追い抜いて体格も良くなった今、まともに受けてしまっては怪我の一つや二つしかねない。幸いにもそれきりジュダルの手足が飛んでくることはなかったけれども、すっかり不貞腐れている。先程の魔力弾のことといい、すっかり気疲れしてしまった。溜息が零れたのも無意識だった。

「今はシンドバッドとの間で事を荒立てるつもりはない。頃合いを見てシンドリアまで送らせよう」
「私が拉致されたくらいでは大した騒ぎにはならないと思う、とは残念ながら断言しかねるからそうしてくれると助かるけれど、ジュダルに送られるのは……」
「不服か」
「少し」
「なら自力で帰るか、このまま煌にいるかだな」
「後者だけは無いかな」
「そうか、それは残念だ」
「……また、思ってもいないことを言う」
「お前に振られるのは想定内だからな」
「紅炎にそういう言い方をされると気味が悪い」
「……失礼な奴だ」

 言葉とは裏腹に、機嫌良さそうに紅炎は口の端をつり上げる。

「お前の返答次第では、俺はお前が生きる場所も死ぬ場所も捻り出せるんだが。今なら本当に、いくらでもな」

 それはひどく懐かしい提案を思い起こさせた。それでいて、彼もまたあの頃とは違うのだなと思い知る。私を含めて誰も彼もが、ずっと、いつまでも同じままではいられない。

「いいよ、それはもう、大丈夫だから」

 昔の私がなんと答えたかをきっと紅炎は覚えているのだろう。単なる自惚れかもしれないけれども、彼は私の憎まれ口とともに一語一句を覚えていそうな気がしてしまう。
 ふと緩んだ口元を見て、感慨深さを覚える確かな理由は私自身にも解らない。ただ、それになんとなくつられてしまったことも、今の私でなければこういう気持ちにはならなかったに違いないということも解っていて、おそらく紅炎も似たようなことを考えているのではないかと思った。

「そうか。気が向いたらいつでも言え、とはもう言ってやれそうにないんだが」
「いいって。……ありがとう」
「……礼を言われる心当たりがないな」
「それならそれで、忘れてちょうだい」
「記憶力は良いほうだと言ったろう」
「ああ、そうだった」

 継ぐ言葉を探していれば、部屋の入口に気配を感じた。「失礼します、入りますよ」

「こんな時間から私に酒を持って来いなんてどういう風の吹き回しで……」

 入ってきた彼が私の姿を認めて目を丸くする。
 どうやらまだまだ元いた場所には戻れそうにもなく、戻ってからも多かれ少なかれ面倒なことになるだろうことは想像に難くない。しかし、まあ。今くらいは。
 もしも過去の自分が今のこの状況を見たならばおそらく目を剥くことだろう。そう思いながら、部屋の入口で言葉を失っている彼にかける言葉を探して口を開いた。


玉響を刻む‐180224
すみません、ついずっと考えてあった裏設定(夢主にも尖っていた時期がある・不本意ながら紅炎と迷宮攻略した云々)を前提にお話を書いてしまったので、イメージされていたものと違ってしまっているかもしれません。何より書きなれない面々があまりにも似非で……しかしながらとってもおいしいリクエストだ! と小躍りして大変楽しく書かせて頂きました。温かい言葉とともに素敵なリクエストをくださり、ありがとうございました!
- ナノ -