トイレのドアの前に立つと、かすかにすすり泣きが聞こえた。フェリシアはほんの少し躊躇ったが、ドアを開けて中に入った。すすり泣きが一瞬止まった。
「フェリシアだよ、ハーマイオニー」
「……な、なんで、来たの、どうして」
「パーバティに聞いたの」
「わ、私、一人にしてって……い、言ったのに」
「一人で泣いてるって聞いたら、気になっちゃうでしょう」
 一つだけドアが閉まっている個室の前に立つと、フェリシアはできるだけ優しい声色で尋ねた。
「何があったの?」
 弱々しいすすり泣きが聞こえるだけで、返事はない。
「……ロンに何か言われた?」
 これにも返事はなかったが、すすり泣きがわずかに大きくなったので、フェリシアは確信した。
「ロニーの言うことなんて気にすることないよ、ハーマイオニー」
「で、でも、我慢できないって、悪夢みたいなやつだって、そう、言ってたの」
 フェリシアは絶句した。いくら馬が合わないとはいえ、それはあんまりだ。確かにハーマイオニーは真面目すぎるくらいに真面目で、少しばかり融通が利かないところはあるかもしれないが、決して悪い子ではない。
 ハーマイオニーは、フェリシアの沈黙を、フォローのしようがなかったせいだと思ったらしい。泣き声が急に大きくなって、どもりながら叫んだ。
「や、やっぱり、あなたもそう、思っているのね? お節介で、が、我慢ならない、でしゃばりな子だって!」
「まさか!」
「いいの、もう、わ、わかってるから! 友達がいないことくらい、わかってるわよ!」
「ハーマイオニー!」フェリシアは声を張り上げた。そうしなければ、ハーマイオニーの泣きわめく声でかき消されてしまいそうだった。「ハーマイオニー、それは違うよ」
「何が、ち、違うの」
「一つ、私はハーマイオニーのことをお節介だとかでしゃばりだとか思ってない。二つ、ハーマイオニーには友達がいる」
「う、嘘よ──」
「嘘じゃないってば。私が知っているハーマイオニーは、寝ぼすけの友達を起こしてくれて、友達が減点されないようにいつも気配りしてくれる優しい子だもの。……それとも、私が勝手にそう思っていただけで、私はあなたの友達ではなかったの?」
 ドアの向こう側からは先ほどまでと同じようなすすり泣きが聞こえてくるだけで、返事はなかった。フェリシアは、ハーマイオニーの気持ちが落ち着くまでここで待っているつもりになっていたので、壁側に寄ってしゃがみこんだ。
 本当は、ハーマイオニーが一人になってしまっていると気がついたときに、早く声をかけるべきだったのだ。そうしていれば、ハーマイオニーがこうして一人で泣くことはなかったかもしれない。ここにはいない実の両親のことよりも先に同じ寮の学友のことを考えるべきだったのに。フェリシアは自分でも無意識のうちに、目の前のことを疎かにしてしまっていた。なんだか情けなくなって、唇を噛んだ。
 それから少し経つと、すすり泣く声が小さくなった。代わりに、衣擦れの音が聞こえる。じっとドアを見つめていると、ずっと閉められていたドアがゆっくりと開いた。
「ハーイ、ハーマイオニー」フェリシアはまるで何事もなかったかのように手をひらひらと振った。
「……フェリシア、あの、私……」いつもはっきりとものを言うハーマイオニーが、口ごもっている。「その……ありがとう」
 フェリシアはにっこりと笑った。
「大広間に行こう。急がないとハロウィーンのご馳走が…………待って、これ、なんの匂い?」
 変な匂い──とんでもない悪臭が鼻をついた。そして、低いうなり声と何か重いものを引きずる音。 ハーマイオニーが小さく悲鳴をあげ、フェリシアにしがみつく。匂いのほうを振り返ったフェリシアはまたもや言葉を失った。
 トロールだ。
 本物を見るのは初めてだったが、間違いない。鈍い灰色の肌、ゴツゴツした巨体に小さな頭、やけに長い腕には巨大な棍棒を持っている。背丈は四メートルはありそうだった。そのトロールが、今まさにフェリシアたちのいるトイレへ入って来ようとしている。
 どうしてホグワーツの中にトロールがいるのだろう。フェリシアはわけがわからなかった。しかし、一つだけはっきりしている。トロールなんて、一年生二人でどうこうできる生き物ではないということだ。
「ハーマイオニー、逃げよう……ハーマイオニー!」
 ハーマイオニーはほとんど腰を抜かしていて、フェリシアにしがみついてなんとか立っている状態だった。声さえ出せないほどに怯えている。フェリシアはハーマイオニーを支えながら脳みそをフル回転させた。ここには自分とハーマイオニーしかいないのだ……自分がしっかりしなくては。その間にもトロールは歩いてくる。そして、ついに女子トイレに入ってきてしまった。
 フェリシアはトロールから目をそらさずに尋ねた。
「ハーマイオニー、立てる? 走れそう?」
 ハーマイオニー声もなく首を横に振った。フェリシアは杖を手に握りしめたが、トロールと闘ったことはないし、どんな呪文が効くのかもわからない。それに、下手に攻撃して刺激するのもまずい気がする。ハーマイオニーを抱き抱えるようにして、じりじりと奥へ後ずさった。
 どうしよう。どうすればいい。今日習ったあの呪文で、人も浮かせられるだろうか。たとえばハーマイオニーを浮かせながら走ってトロールの横をすり抜けて逃げるというのはどうだろう……。フェリシアは想像してみたが、あまり良い方法には思えなかった。失敗してハーマイオニーが置き去りになってしまっては大変だし、二人ともあの棍棒で叩きのめされてしまうかもしれない。
 フェリシアは必死に考えをめぐらせた。ハーマイオニーがしがみつく力が強くて、掴まれた腕が痺れてきている。ハーマイオニーに声をかけようとしたとき、ドアの閉まる音と鍵のかかる音がして、フェリシアは耳を疑った。
 慌ててドアに目をやれば、開いていたはずのドアがぴったりと閉まっている。いくら階段が動くホグワーツでも、ただの女子トイレの入り口に、勝手に閉まる魔法がかかっているはずがない。まさかピーブズの仕業だろうか? ……ありそうな話だ。悪態をつきかけたが、そんな場合ではない。フェリシアたちはいよいよ壁際に追い詰められてしまった。
 トロールの手にある棍棒と比べて、自分の杖のなんと小さく頼りないことか。たとえばこの杖でトロールの脛を殴ったところで、きっとトロールは痛くも痒くもないだろう。
 フェリシアが精一杯トロールを睨みつけていると、トロールは不意に棍棒を振り上げ、壁に叩きつけた。壁が割れ洗面台が砕け、辺りに飛び散る。ついにハーマイオニーが甲高い悲鳴をあげた。フェリシアはとっさにハーマイオニーを庇うように抱きしめ、ドーラが教えてくれた呪文の一つを──まだ使いこなせていない呪文を──一か八か、祈るような気持ちで唱えた。
「インペディメンタ!」
 そのとき、飛んできた瓦礫が運悪くフェリシアのこめかみに当たった。脳みそが揺れるような衝撃に、呪文が成功したのかもわからないままフェリシアは倒れた。ハーマイオニーが叫んでいる。意識を手放す間際に、ドアが開いて誰かが入って来たような気がした。

151205
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