「それじゃ、頑張るんだよ」
「お行儀よくするのよ」
 もう一度ハグとキスをもらい、フェリシアは手を振って二人と別れた。別れを惜しんでいたらいつの間にか発車時刻ギリギリだったので、フェリシアは大慌てて駆け込むことになってしまった。無事に乗ることができてホッとする。そのまま入口のところで、姿が見えなくなるまでテッド達に手を振り続けた。
 コンパートメントに戻ると、そこにはさっきのくしゃくしゃした黒髪の男の子がいた。フェリシアは笑いかけたが、男の子は少し困ったように眉を下げた。
「あの、ごめん──」
「いいよ、声をかけたのは私だもの。気にしないで。どこもいっぱいだったんでしょう?」
「うん、そうなんだ。君が声をかけてくれて助かったよ 。ありがとう」
「どういたしまして」
 フェリシアが男の子の向かい側に腰を下ろそうとしたとき、今閉めたばかりの戸が開いた。
「ここ空いてる?」
 赤毛にそばかすの男の子が立っていた。鼻の頭が少し汚れている。
「うん、私たちだけ」
「座っていい? 他はどこもいっぱいで……」
 もちろんと頷くと、男の子はホッとしたような顔をした。三人がかりで男の子の重いトランクを引っ張り込む。ようやく腰を落ち着けたとき、フェリシアはまだ二人の名前を聞いていないことに気がついた。もちろん二人だって、フェリシアの名前を知らない。自己紹介をしようと口を開きかけた瞬間、またコンパートメントの戸が開いた。
「おい、ロン──あれっ、フェリシアじゃないか!」
 赤毛の双子が顔を覗かせていて、フェリシアは驚いた。まさか、こんなに早く会えるなんて。しかも──更に驚くことに──なぜかフェリシアの名前を知っている。フェリシアは名乗らなかったし、双子の名前も聞きそびれていたというのに、どうして知っているのだろう? いぶかしむフェリシアとは対照的に、双子はにやりと笑った。
「漏れ鍋で君のママがそう呼んだのを聞いた」
「だから君がフェリシアだってわかったのさ」
「でも、私はあなたたちの名前を知らない」
「そうだったかな──ハリーには自己紹介したっけ? 僕たち、フレッドとジョージ・ウィーズリーだ。こっちは弟のロン」
 これから双子は、リー・ジョーダンという人がいるコンパートメントに行くらしい。リーが持っているタランチュラを見せてもらうのだそうだ。「一緒に来るかい?」と声をかけてくれたが、フェリシアは遠慮した。ハリー、ロンと呼ばれていた二人と話をしてみたかったのだ(漏れ鍋で双子が言っていたロニー坊やとはロンのことなのだろうし)。
「じゃあ、またあとでな!」
 フレッドとジョージが去っていくと、フェリシアは気を取り直して自己紹介することにした。
「ええと……あの二人が言った通り、私はフェリシア。フェリシア・トンクス」
「僕、ロン。ロン・ウィーズリー」
「……僕はハリー・ポッター」
 思わずポカンとしてしまって、フェリシアは慌てて口を閉じた。まさか、この男の子があのハリー・ポッターだなんて!
「君、ほんとにハリー・ポッターなの?」
 ロンが訊き、ハリーと何か話していたが、フェリシアの耳にはほとんど入らなかった。
 フェリシアの本当の父親 シリウス・ブラックは、ハリーの両親を裏切ったと言われている。ハリーはシリウス・ブラックのことを知っているのだろうか。その裏切りのことを、知っているのだろうか──考えるだけでフェリシアは胃がキリキリしてくるのがわかった。もし、シリウスやその裏切りを知っているとしたら、フェリシアのことをどう思うだろう。さっきはトンクスと名乗ったから、フェリシアがシリウス・ブラックの娘だとは気がつかなかったかもしれないが、それがいつまで続くのかは誰にもわからない。本当のことを知ったとき何を言われるのか、想像しただけで胃の辺りがずしりと重くなった。
「ちょっと、フェリシア、大丈夫? 顔色が悪いけど……」
「うん、大丈夫。ちょっと──貧血で」
 体の方には何も問題はないのだが、本当のことを言うわけにもいかない。うっかりシリウス・ブラックのことを話そうものなら、わざわざ名前を偽っている意味がなくなってしまう。ハリーの心配そうな視線に居たたまれなくなって、フェリシアは言った。
「少し眠ろうかな」
「うん、その方がいいよ。真っ青だ」
「じゃあそうする。お昼頃になったら起こしてもらってもいい?」
「もちろん」
 フェリシアはハリーの返事を聞くと、背凭れに寄りかかって目を瞑った。しかし、ざわざわと気持ちが落ち着かないのだ。眠れるはずがない。それでも眠るといったからにはそうするしかなく、フェリシアはずっと目を瞑ったまま二人の話に耳を傾けていた。ハリーがマグルのおじ一家と暮らしていた話や、ロンには双子以外にもたくさんの兄妹がいるなど──何気ない身の上話が続いていたが、ハリーがヴォルデモートの名前を口にした瞬間ロンが息を呑んでぎょっとしたように叫んだので、思わずフェリシアは肩を跳ねさせて目を開けた。
「ああ、ごめん──」ロンがボソボソと言う。「ハリーが例のあの人の名前を言うから」
「うん、私にも聞こえてたよ」
 フェリシアがそう答えると、ロンは申し訳なさそうな表情をさっと引っ込めた。
「なんだ、起きてたのか」
「眠ろうとしたけど眠れなかったんだよ」
「ふーん、そう。でも、今そんなことはどうでもいいよ。重要なのは、ハリーが『例のあの人』の名前を言ったってことさ!」
 ロンが興奮気味に言葉を次ぐたびに、ハリーの表情はどんどん曇っていく。
「やめてよ。僕、名前を口にすることで、勇敢なとこを見せようっていうつもりじゃないんだ。名前を言っちゃいけないなんて知らなかっただけなんだ。わかる? 僕、学ばなくちゃいけないことばっかりなんだ」
「みんなそうだよ、ハリー」
 フェリシアはハリーを励ますように言った。
「私だって、学ばなくちゃいけないことがいっぱいだもの」
「でも、君は名前を言っちゃいけないことは知っていたんだろう?」
「それは……まあ、私の場合は家族がみんな魔法使いだから、物心着いたときにはそうだったってだけで」
「……きっと、僕、クラスでビリだよ」
「そんなことないさ」さすがにロンも申し訳なく思ったのか、ハリーを励ました。「マグル出身の子はたくさんいるし、そういう子でもちゃんとやってるよ」
 三人は黙り込んだ。ホグワーツ特急はどんどん走る。窓の外から見える景色もいつの間にか変わっていた。無言で景色を眺めるうちにさっきまで全くなかったはずの眠気がやって来て、フェリシアはそっと目を瞑った。

150712
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