誰も知らない夢の片隅

●2024AFイベ『アルテレーゴの掟』の設定に基づくifストーリーです。
●上記イベスト本編とはあまり関係ありませんが、ネタバレおよび公式Xにて発表された設定等を含みます。
●エイプリルフール仕様なので、当連載本編ともあまり関係ありません。
●細かいことを気にしない方向け。




 ──花街で、賭博場で、あるいはこのフォルモーントタウンの往来で。招かれざる客、度を越した愚か者、話を聞かない荒くれ者、そんな連中を相手取っては打ちのめす。
 それが用心棒として生きるベリルの日常だ。決して平穏とは言い難いが、平穏無事の暮らしなどこの街の誰しも縁遠いもの。荒事の渦中で立ち回るこの物騒な稼業をベリルが始めたときなどは、今よりももっと抗争が盛んであったし、その頃に比べれば最近は落ち着いていると言えよう。
 ベリルは育ちもこの街だ。多少の暴力沙汰は、もはや騒ぎのうちにも入らない。
 だから、近頃のベリルの頭を悩ませているものは、そこらの荒くれでも賭場荒らしでもなかった。先日顔を出したアジトでシャイロックに説明された、『鏡映子』とそれにまつわる様々な事実について──でもない。もちろんこの話には大いに驚いたし、畳み掛けるように今いるシャイロックもオーエンもリケも『鏡映子』なのだと聞かされて、正直目が回りそうだったが、しかしそれはもう、いい。アジトが『キルシュ・ペルシュ』を提供するための酒場として開かれることも、店主となるシャイロックに「あなたの身体が空いている日は、用心棒をお願いできますか?」と微笑まれてしまったことも、よしとする。
 ベリルにとって厄介な問題は、この件にあのベンティスカファミリーが絡んでいること──これに尽きた。


* * *


 その日は雨が降っていた。

 花街での仕事が多いベリルだが、花街お抱えの用心棒というわけではない。しかるべき報酬を用意されれば、どこへでも出向く。
 この日の仕事場は、ルナピエーナのクロエがディーラーとして働いている賭場だった。笑顔で手を振るクロエや会釈をする古株のディーラーに応じつつ、ベリルは定位置につく。この賭場のオーナーは金払いが良く、もう何度も依頼を引き受けている。そのため、ディーラーのみならず常連客にもベリルの顔を覚えている者が多い。
 ちょうどやってきた、ベンティスカファミリーのブラッドリー・ベインもその一人だった。数年前、ベリルがこの賭場で暴れた荒くれ者を取り押さえたとき、一部始終を見ていたらしいブラッドリーから声をかけられた。それ以来、姿を見つければ視線を交わし、たまに言葉を交わしたり飲み食いしたりするという仲が続いている。
 どうやら気に入られているらしく、「ボスには俺から口利いてやる。ベンティスカに来ねえか」などと誘われることもある。それをベリルが断るまでがお決まりのやりとりだった。ブラッドリーと飲み食いしてくだらない話をする分には面白いし、腕を買われて悪い気もしないが、ルナピエーナを抜けるつもりはないのだ。
 ……さておき、この日もブラッドリーは、槍を抱えて壁際に立つベリルを見つけると、にやりと笑って軽く片手をあげた。ベリルが手を振り返したりしなくても、視線が合えば十分らしい。
 賑わってきても、これといって目立った騒ぎは起こらない。ありていに言えば、暇だった。暇をして金をたんまり貰える、なんて楽な仕事だろう。そう割り切らなければ、ただ流れていくだけの時間に嫌気がさしてくる。ブラッドリーが大勝ちしているのを横目に賭場内を巡回し、ほとんどそれだけで仕事を終えた。
 騒ぎが起こらないのはいいことだと理解していても、暇なものは暇だ。明日と明後日もこの賭場で仕事の予定だが、連日こうなら退屈だし体も鈍る。
 レノックスの都合が良いようだったら、鍛錬に付き合ってもらおうか。
 穂を鞘に納めた槍を背負い片手には傘を待って、思案しながら賭場を出たベリルは、すぐに驚いて立ち止まった。軒下に、すでに帰ったはずのブラッドリーの姿を見つけたからだ。
 
「お、来た来た。傘は……持ってるな。入れてくれや」
「は……? どこまで……っていうか、まさかずっと待ってたの? 走って帰ればよかったじゃん」
「ずっとは待ってねえよ。雨が小降りの間に、こいつを買いに行ってたしな」

 こいつ、とブラッドリーは片手に抱えた袋をガサガサと鳴らした。

「隣の通りの店の、桃饅頭?」
「おう。好きだろ」
「好きだけど……。それを買いに行って、わざわざ戻ってきたの? 小降りだったんなら、その間に帰りなよ」
「つれねえこと言うなよな。それとも、全部言わなきゃわからねえか?」

 ブラッドリーは笑いながら、ベリルの傘をひったくる。そうして我が物顔で傘を開くと、わずかにベリルのほうに傾けた。

「行こうぜ」
「……どこまで」
「あんたの家まで」


* * *


 あのとき、言いたいことはいくつかあったが、後回しにしてしまった。まあいいやと思ったのだ、あのときは。退屈のまま終わりそうだった一日にほんの少し、ブラッドリーと過ごす時間があるのは、悪くないような気がした。決して、桃饅頭に釣られたわけではない。
 けれども、きっと、後回しにしないほうがよかったのだろう。
 あの日何も言わず、何も訊かず棲家に連れ帰ってしまったせいで、以降ブラッドリーが何食わぬ顔で寝泊まりするようになった。あの日だって、なぜかブラッドリーは帰らなかったし、翌日仕事に行ったら賭場に来たし、棲家に帰ったら居た。
 数日後突然いなくなったが、さらに数日後に再びふらりとやって来て居座って、そしていなくなり、またやって来る、その繰り返しだ。ブラッドリーが出入りする時間は朝だったり夜だったり、滞在する日数も長かったり短かったりとまちまちだが、大まかなサイクルは変わらない。そういうことが続くうちに、ベリルの棲家には匿名のフライドチキンが届くようになった。ブラッドリーはそれを警戒もせずに食べている。
 一体何なんだ。詳細不明のまま、何か厄介なことに巻き込まれている気がしてならない。最近は何だかんだこの暮らしに慣れつつあるけれど──慣れてはいけないのではないか。
 思えば同じ頃から、ブラッドリーがベンティスカの連中と一緒にいるところを見かけなくなった。二人で『ベンティスカの狛犬』と呼ばれていたはずの相棒といるところさえ、まったく見ていない。
 ──ということは、おそらく。
 考えるだけで溜息が出た。何か面倒なことが起こったときには全部まとめてぶっ飛ばせばいいとは思っているが、できれば相手は選びたいものである。
 今ベリルがドン・スノウとの間に揉め事を起こせば、ベリル一人の問題では済まない。きっとファミリー全体を巻き込むことになる。シャイロックの酒場の開業準備は着々と進んでいて、プレオープンの日にちも近づいている大事なときだというのに。そんなときに、ドン・スノウに睨まれたら? ベリルのせいで、何もかも台無しだ。
 いっそ確実に全部ぶっ飛ばして主導権を握れるように、鍛錬の時間を増やそうか。とはいえオーエンにも負け越している今の自分に、ベンティスカファミリーを下せるとは思えない。むしろオーエンを上手く丸め込んで、オーエンをドン・スノウにぶつけたほうが、勝率が高い気がする──。

 考え事をしながら歩いているうちに、いつの間にかアジトの前だ。
 酒場の開業準備のために人手が欲しいというから、用心棒稼業が休みの今日はシャイロックの手伝いに充てるつもりだった。ドアに手をかけると、開き切る前に複数人の話し声がする。誰が来ているのか知らなかったが、少し高いリケの声だけはすぐに判別できた。
 カウンターの向こうにいるシャイロックが最初に気づいて、「いらっしゃい」と微笑む。

「ベリルも来たんですね!」
「じゃあ僕は帰る」

 金糸のような髪を揺らして振り向いたリケが幼さの残る声を弾ませ、つまらなそうに銀の毛先をいじっていたオーエンは色違いの目でベリルを一瞥した。
 リケの隣にいるのは知らない人間だった。歳の頃は少なくともリケより上と見て間違いない。高めに見積もっても、クロエとあまり変わらないくらいだろうか。この街には少し不釣り合いな、実直で気の良さそうな人間が、椅子に行儀良く腰掛けている。

「帰ってしまうのですか、オーエン。あなたの意見を、もう少しだけ聞かせていただくことはできませんか?」
「無理。飽きた」

 オーエンは「飲んで感想を言うくらいなら、ベリルでもできるんじゃない」と投げやりに言って立ち上がると、ベリルに「どけよ」と吐き捨てた。相変わらず感じの悪いやつだ。出入り口を塞ぐ格好になっていたことは悪いと思うが、そういう言い方をされると素直にどきたくなくなる。
 反抗心が首をもたげたものの、ここで喧嘩をするわけにもいない。ベリルがわざとらしく肩をすくめて横にずれると、オーエンは鼻を鳴らしてアジトを出て行った。
 オーエンとベリルの馬が合わないのは、ルナピエーナの構成員の間ではよく知れたことである。シャイロックは微笑みを崩さなかったし、ベリルの前までやってきたリケも気にした様子はなく、何事もなかったかのようにきらきら光る丸い目でベリルを見上げた。

「ちょうど、みんなであなたの話をしていたところだったんです。晶とベリルは、顔合わせがまだだったでしょう?」
「晶って、その子のことかな。例の新入り?」
「そうです。晶にも紹介しますね。こちらが、例のベリルです」

 晶とベリルの間に立ったリケは、そう言ってベリルを手で示した。ベリルの言い方を真似ただけなのかもしれないが、『例の』などと言われると一体どんな話を新入りに聞かせていたのか妙に気になってくる。
 用心棒として生計を立てているとか実は暗器や投擲武器の扱いも得意だとか、その程度のことならばいい。オーエンに負け越していることや、先日酔ってファウストに絡んだ挙句に、寝落ちするまでダンスに付き合わせたらしいことなんかを暴露されていたら、ベリルの沽券に関わる。
 晶の様子から何か読み取れやしないかと思ったが、わかったことは晶がいかにも純朴そうだということだけだった。
 リケからの紹介を受けた晶は、立ち上がってベリルにお辞儀をする。その仕草も表情も素朴で、一切裏を感じさせない。

「晶といいます。ベリルのことは、前からシャイロックに聞いていました。やっと会えて嬉しいです。まだルナピエーナファミリーの一員になって日は浅いですが、よろしくお願いします」
「……いい子だね。いい子すぎて、ちょっと心配になる。まあ、よろしく」

 一体どこからやって来たのか、つくづくフォルモーントタウンには不釣り合いな人間だ。所作といい身なりといい、一定以上のきちんとした環境で育ってきたのだと感じられる。先日シャイロックから聞いた話では晶の記憶には欠落があるらしかったが、本当に晶がこの街の生まれ育ちでないとすれば、晶の記憶や正体を探り当てるのは困難だろう。
 ベリルがじっと眺めていると、次第に晶はもじもじし始めた。

「あの……なんでしょう? そんなに見つめられると、少し恥ずかしいというか……」
「ん?」
「ベリルの熱視線は、晶には刺激が強いようですよ。お手柔らかに」
「熱視線って」
「狙いすます猫のようでした。晶から目を離せなくなる気持ちはよくわかりますが、そろそろこちらもご覧になって。妬いてしまいそうです」
「……どっちに?」
「ふふ」

 はぐらかされた。
 追及するほどのことでもないので、「さあ、どうぞおかげになって」と促されるまま、ベリルはカウンター前の席に着く。リケと晶も並んで椅子に腰掛けた。

「で? 今は休憩中なの?」
「酒場で提供するドリンクの、試飲をして頂いていたところです。これも立派な開業準備ですよ」
「なるほど」
「僕と晶はノンアルコールしか飲めませんが、ベリルはお酒が飲めましたよね。シャイロックのためにもどんどん飲んで、たくさん意見を言ってあげてください」
「そんなに飲めるかな。まだ昼間だし」
「もちろん、無理はなさらなくて大丈夫ですよ。仕事に差し支えない範囲で構いません」

 シャイロックはそう言ってシェイカーに手を伸ばしたが、切れ長の目はベリルの顔に向けられている。

「……何?」
「いえ、お疲れのようだなと。顔色もあまりよくありませんが、本当にアルコールを入れて平気ですか?」

 向けられる眼差しに声に、気遣いが滲む。
 リケも晶も眉を下げてベリルを見つめた。

「言われてみれば、確かに……」
「気にしないで。別に、体調が悪いわけじゃない。なんていうか……少し寝不足気味なだけで」
「用心棒の仕事が忙しいんですか?」
「いや……仕事はそれほどでもないんだけど」

「けど?」と言葉尻をリケに捉えられて、失言に思い至る。
 ここは素直に、仕事が忙しいということにしておけばよかったか。──いや、駄目だ。仕事場で度々顔を合わせているクロエやレノックスの耳に入れば、すぐに嘘だと気づかれる。
 逡巡ののち、ベリルは苦笑いを浮かべた。

「最近、棲家に野良犬が入り込んで来るようになってね。それで少し……振り回されているというか、手を焼いているというか」
「ベリルが振り回されるんですか?」

 リケは驚きの声をあげて、「よほどやんちゃな犬なんですね。それとも、凄く大きな犬?」と質問を重ねた。すんなり信じてくれたのは都合がいいが、なんと答えたものか。

「そうだね、やんちゃかな。自由というか」
「噛まれたりはしていませんか?」
「ああ、うん、それは──」

 ドアが開く音がして、ベリルは何気なく振り向いた。オーエンは戻ってこないだろうから、ファウストか来たかレノックスが来たか、そのどちらかだと思ったのだ。
 ところが、そこにいたのは思い浮かべた顔のいずれでもなかった。目を見開いたベリルとは対照的に、シャイロックはたおやかに微笑んで声をかけた。

「おや、これは珍しいお客様ですね。まさかドン・スノウ直々に、開業準備のお手伝いに来てくださったのでしょうか?」
「いや、すまぬ。この近くで用があっての。ついでに少し、立ち寄らせてもらっただけじゃ。長居はせぬよ」
「そうですか、残念です。ちょうど店で出すドリンクの試飲をしていただくところだったので、あなたの意見もお聞きできればと思ったのですが……。あなたほどの方を、おいそれと引き留めるわけにもいかないでしょうね」
「ホワイトちゃんが我の帰りを待っておるからのう」

 作り物のように端正な顔立ちが柔らかく綻ぶ。
 美しい笑みを浮かべたまま、スノウは晶やリケにも順に声をかけ、最後にベリルに目を留めた。

「そなたは、用心棒のベリルじゃな。一度、そなたが大立ち回りしているところを見たことがある。見事な槍捌きじゃった」
「……まさかドン・スノウの御目に留まるとは。お褒めに預かり光栄です。いつのことを仰っているのかは、正直よくわかりませんが」
「ほほほ、日常茶飯事ということか。あれほどの実力があるなら、うちに欲しいくらいじゃが……しかしそうか、そなた、ルナピエーナの者であったか」

 最後はほとんど独り言のように聞こえて、ベリルは何も言わず愛想笑いだけで応じた。
 ここでブラッドリーの名前が出てこないことを、どう解釈すればいいのか。ブラッドリーは散々「口利きしてやる」と言っていたのだ、一度くらいはスノウにベリルの話をしていてもおかしくない。
 ブラッドリーと関わりがあることを知られている可能性がほんの少しでもあるのなら、今はなるべく手短に会話を終わらせたかった。しかし、スノウはまだ立ち去る気配を見せない。それどころか悠然と中に入ってきて、空いていたベリルの隣の椅子に腰掛けた。
 緩くカーブしたカウンターの、ちょうど角に当たる席。ベリルとスノウの間には何もない。椅子一つ分くらいの距離は開いているが、容易に首を狙える油断ならない距離だ。

「長居はできぬが、この機を逃せば二度と飲めぬものがあるかと思うと、心引かれるものがある。一杯だけでも、いただいていこうかの」

「大歓迎ですよ」とシャイロックは頷いた。
 しなやかな長い指が、再びシェイカーに伸びる。

「早速お作りいたしましょう。ベリルは、どうします? ノンアルコールにしておきますか?」
「あー……ううん、とりあえずそのままで。キツくなったら、途中からノンアルコールでお願いするかも」
「かしこまりました。では、そのように」

 左側から注がれる視線に素知らぬふりを決め込んで、ベリルはあくびを噛み殺した。右隣に座っている晶が眉を下げ、遠慮がちに囁く。

「本当に大丈夫ですか? 寝不足のときにお酒を飲むと、悪酔いするって聞きますけど……」
「だから、程々にしておくよ。少しくらいは平気」

 晶の気遣いに合わせて声をひそめてみたところで、左から向けられる視線は外れない。どうせこの会話も、耳に届いているのだろう。

「ああ、そうじゃ、我がそなたらの話の腰を折ってしまったじゃろう。何やら盛り上がっているようじゃったが、何の話をしておったのじゃ?」

 口を開いたスノウの口調は穏やかで気安かったが、どこか白々しくもある。

「ベリルが面倒を見ている野良犬に、手を焼いているという話です」

 リケが率先して答えると、スノウは息を吐くように笑った。

「……ほう、犬を拾ったのかの」

 ──ただの、世間話であるはずだ。
 けれどもベリルには、にわかに空気が張り詰めたように思えた。柔らかく細められた金の目は、こちらの一挙一動を見逃すまいとしている。弧を描く口元にあからさまな敵意はなくとも、そこには確かな威圧感があった。
 何か隠しているのはわかっている、嘘や誤魔化しはしないほうが身のため……とでも言いたいのだろうか。大方、わざとやっている。素知らぬふりで少しずつ情報を引き出すよりも、圧力をかけて情報を吐かせることのほうが得意な人なのだろう。フォルモーントタウンきっての武闘派集団のボスらしく、力をちらつかせれば相手を意のままにできると思っているのかもしれない。
 ベリルは苦笑して、スノウを見ながら「いえ」と小さく首を振った。もしもこの程度で動揺すると思われているなら、大いに心外である。
 
「拾ってはいませんよ。野良犬が棲家の周りをうろついていて、たまに入って来てしまうというだけで。面倒を見ているというほど、世話もしていませんし」

 あくまでも当たり障りない世間話の一つとして淡々と言葉を継げば、スノウはベリルから目を逸らさず形の良い眉を下げた。

「それはどんな犬かのう。実は先日、犬を一匹逃してしまってな。行方を探させておるところなのじゃ」
「はあ、そうなんですか……。残念ですが、あなたの犬ではないと思いますよ」
「なぜそう思う?」
「待てのできない、躾のなっていないやんちゃな子犬ですから。ドン・スノウの犬なら、よく躾けられていそうなものです」

 夜闇と朝靄が混ざり合う少し癖のある毛並み(あたま)を思い出しながら、ベリルは平然と言った。子犬というにはどう考えても育ちすぎているし、本人の耳に入れば憤慨しそうだが、まあいいだろう。この件について、文句は言わせない。
 
「……そうか。確かにそれは、うちの犬ではないようじゃ。我らが探しておるのは、成犬じゃからな」
「成犬ですか。野良の成犬は、覚えがないですね。あんたたちは?」
「私も見かけてません……。もしそれっぽい犬を見つけたら、お声がけしましょうか?」

 晶がそう言うと、リケも勢い込んだ。

「そうですね。僕も見かけていませんが、探すのをお手伝いしますよ。どんな犬ですか?」
「ほほほ、優しい子らじゃな。気持ちだけ受け取っておくとしよう。犬とはいえ身内の問題に、よその童を巻き込むわけにもいくまい」

 スノウは笑ったが、リケは子ども扱いされたことに少しむっとしたようだった。つんと尖った唇から、いったいどんな言葉が飛び出してくるか。身構えた矢先、「お話が盛り上がっているところ、すみません」とシャイロックが口を挟んだ。いつの間にかドリンクの用意ができたらしい。
 金から赤へと向かうグラデーションが目を惹くカクテルに口をつける。爽やかな甘酸っぱさが飲みやすく、ベリルの好みだ。

「いかがですか? 率直な意見をお聞かせください」

 尋ねたシャイロックに、スノウが微笑みながら感想を伝えている。ベリルは耳を傾けながら、このまま話が終わるように願った。シャイロックが割り込んでくれたおかげで、流れは変わりつつある。スノウに続いて話し出したリケと晶の声は、ひりついていた空気をどこかへ押し流していく。
 スノウははじめに長居はしないと言っていたし、この一杯を飲み終えたら帰るはずだ。というか、さっさと帰ってほしい。
 ベリルがそう念じながらカクテルの二口目を含んだとき、スノウは「それにしても」と言った。
 
「やんちゃな子犬、な。それは可愛かろう」

 ああクソ、まだその話を続ける気なのか──ベリルは内心悪態をついたが、もちろん態度にはおくびも出さない。

「まあ……可愛いといえば可愛いですね。大人しく寝ているときなんかは」
「そうかそうか。うちの犬ではなくとも、一度会わせてもらいたいものじゃ。うちのホワイトちゃんの遊び相手にどうじゃろうな」
「やめておいたほうがいいです。言ったでしょう、躾がなっていないって」

 突き刺すような鋭い金色を見つめ返しながら、なんでもない顔で言葉を選ぶ。真実、恐れや緊張の類いは露ほどもなかった。

「あれは必ず噛みつきますよ、ドン・スノウ。ホワイト坊ちゃんが怪我をしては大変です」
「ふむ……それはそうじゃな。……しかしベリルよ、そなたも手を焼いているのじゃろう。これも何かの縁、我が引き取って厳しく躾けてやっても構わぬが」
「っはは、随分気になさいますね。さては、相当な犬好きでいらっしゃる?」

「意外です」と笑ったベリルにスノウは答えなかったが、ベリルは構わず続けた。

「申し訳ないですが、あれは私が世話をしているわけではないので、なんとも。今夜にもねぐらを移すかもしれませんし、他の誰かが見兼ねて拾うかもしれません」
「ならば、その犬が再びそなたの元へ現れたときは、我を思い出して頼るがよい。いつでも、どのような状態でも、ベンティスカファミリーが引き取ってやろうぞ」
「それは……頼もしいですね。ありがたく覚えておくとしましょう」


- ナノ -