誰も知らない夢の片隅 02

 夜に沈んだ帰路、一人歩くベリルは誰に憚ることもなく舌打ちをした。
 面倒なことになった。あのドン・スノウに目をつけられるなんて。
 出るに任せて溜息もつく。ベリルのわだかまりが、細い裏路地にまで拡がって滞留するようだった。
 この時間、わざわざこんな裏路地を通るような人間はそう多くない。いたとしても、どうせ馬鹿やならず者だ。この近辺にたむろするその手の輩はベリルの顔と生業を知っているから、好き好んで絡んできたりはしない。

 あの会話の後、スノウは本当にカクテル一杯だけでルナピエーナのアジトから出ていったが、最後までベリルに探るような目を向けていた。
 目立った失言はしていないはずだ。それでも念のため、当面は監視や尾行に警戒したほうがいいかもしれない。幸い明日も一日フリーで、明後日からはしばらく花街での仕事だ。ブラッドリーがよく来るクロエがいる賭場には当分行く予定がないし、万が一依頼がきても適当な理由をつけて断れば、ベリルを尾けてきた者がそこでブラッドリーを発見してしまうという最悪の事態は避けられる……はずである。
 ──いや、どうして私がそこまで気を遣わなければならないんだ。
 苛立ちのような困惑のような、曖昧で朧げなわだかまりがいっそう胸の辺りを重くする。
 だから自棄酒、というわけでもないが、スノウが去っていった後シャイロックに無理を言ってアルコール強めのカクテルをたくさん出してもらった。あくまで試飲であることに変わりないから、全部合わせても大した量にはならない。それでも、寝不足気味の体は思いのほか酔いの回りが早く、気づけばカウンターに突っ伏して眠り込んでいた。結構な時間眠っていたようで、日の高いうちにアジトを訪れたはずなのに今はすっかり夜の帷が下りている。見兼ねたシャイロックが揺すり起こしてくれなければ、きっともうしばらく眠っていただろう。
 どうせならあの一眠りで胸がすいてくれたならよかったのに、しかしそう上手くはいかないものだ。棲家に近づけば近づくほどもやもやが募る始末である。
 ドン・スノウに対して必要以上の恐れを感じたことはないが、それでも、この街で生きるならドン・スノウに睨まれないに越したことはない。遜ったり怯えたりすることはせずとも、できればなるべく関わらず、ただ穏便にすれ違うだけでありたい相手だ。目をつけられてしまったからには、少なからず今後の身の振り方を考えねばなるまい。
 もしも自分にシャイロックやムルほどの話術と機転があったなら、もっと上手にのらりくらりと切り抜けられたのだろうか。ベリルはアジトでの己の発言を省みつつ、さりげなく周囲の気配を探った。念には念を入れて遠回りしながら帰ってきたが、特に不審な気配は感じられない。
 やがて何事もなく棲家の前に辿り着き、今度はほっと安堵の溜息をついた。屋内が外から窺えないつくりの棲家は、少しの灯りも外に漏れ出ないようになっている。そのため、ここから見ただけでは中にブラッドリーがいるのか定かではないが、少なくとも棲家の佇まいは今朝ベリルが出たときと何ら変わりないようだった。
 中に入る前に、軒下に積み上げっぱなしになっている空の木箱の中を確認する。案の定(・・・)そこには小包みがひっそりと隠すように置かれていて、ベリルは半ば呆れながらそれを拾い上げた。中身は何か、見るまでもなくわかっていた。食欲をそそる香ばしい匂いがほのかに香ってくる。
 匿名で届くフライドチキン。これのせいで、こうして木箱の中を確認するのが習慣になってしまった。
 隠してあるのは、送り主のせめてもの気遣いなのかもしれないが、鼻のいい本物の野良犬が匂いを嗅ぎつけて集まってきたらどうしてくれよう。……もっとも送り主の顔を知らない以上、ブラッドリーに八つ当たりするしかないのだが──。

「……いや。逆にアリかな、野良犬……」

 はたと思い至って、独り言つ。
 スノウにあれだけ犬の話をしてしまったし、本物の野良犬が集まってきたらそれはそれで好都合ともいえる。検討する価値は十分にある……かもしれない。
 犬の世話なら、レノックスやオーエンが詳しかったはずだ。オーエンは意地が悪いがレノックスは良いやつだし、今度顔を合わせたときに相談してみるのも悪くないか。ベリルは考え込みながら、静かな棲家に入っていった。

 スープが出来上がる頃、ブラッドリーがやってきた。夜中や明け方に忍び込んでくることも多いブラッドリーにしては、早い戻りである。眠っているときに来られるとどうしても目が覚めてしまうので、いつもこのくらいの時間帯ならいいのになと思ったところで、ベリルは(かぶり)を振った。我ながら、ブラッドリーのいる暮らしに馴染みすぎだ。いいのにな、ではない。
 勝手知ったる顔で上がり込んできたブラッドリーは、ベリルの葛藤など気づかなかったように、テーブルに置いていたフライドチキンを見つけて嬉しそうな声を上げた。

「おっ! 今日もあるな」
「今スープよそうから少し待──って、もう食べてる……」
「そりゃ、あったら食うだろ。文句あるかよ」
「いーえ。知ってたし。あんたが『待て』ができないことは」
「なんだよ、人を犬みたいに言いやがって」
「犬だよ。あんたは今日から『躾がなってない野良犬』」
「……怒ってんのか?」
「どちらかというと呆れてる」

 シャイロックが持たせてくれたバゲットとココットに、熱々のスープと、冷めても美味しいフライドチキン。サラダもあるが、取り分けてはやらない。ブラッドリーはどうせ食べないだろうから。
 同居しているわけではないし、招いているわけでもない。そんな相手と、一緒に食事をする義理もない。そう思いながら顔を突き合わせて摂る食事は、もう何度目になるのだろうか。いつの間にか朝も夜も、いちいち数えていられないくらいには共に過ごしてしまった。当たり障りのない話しかしないこの時間は案外悪くなくて、そんな自分にこそ呆れてしまう。
 ブラッドリーがどういうつもりでここに来ているのか、ベリルは一度も訊ねたことがなかった。聞いてしまえば、引き返せなくなるような気がした。そもそも、ブラッドリーが徹底的にベリルを共犯に仕立て上げるつもりなら、あちらから話すに違いない。今日に至るまでブラッドリーが何も言わずにいるのであれば、そこに引かれた線をベリルが踏み越えていくのは野暮じゃないかとも思う。
 しかし、いつまでも知らんぷりはしていられない。いつもの賭場で今日も大勝ちしてきたというブラッドリーの話に相槌を打つ間も、脳裏にはスノウの顔がちらついている。少なくとも今日のことは話しておかなければ、最悪共倒れだ。ブラッドリーとは決して特別な間柄ではないが、今日のことがきっかけでブラッドリーの身に何かあろうものなら、どうしたって寝覚めが悪くなる。
 とはいえ、美味しそうに食べているときに切り出すのは、なんとなく気が引けた。食事を終えて、食器を片づけたらにしよう。
 ──そんなベリルの思考を見抜いていたのかどうか、ブラッドリーは、ベリルが洗い終えた食器を片づけているときに寄って来た。
 近づいてくる気配に気がついても、ベリルはそれくらいのことで振り向きはしなかった。生活に溶け込んだ気配には、どうにも無防備になりがちだ。意識のふちに引っかかったところで、ついそのまま見逃してしまう。
 すっかり耳慣れてしまった足音を、水でも飲みにきたのかとぼんやり聞き流していれば、それはベリルの真後ろで止まった。
 おやと思う間もなく、背後から肩口の辺りに顔を寄せられる。耳に吐息がかかり、背中に人の熱を感じる。近さを肌に感じて初めて、ベリルはぎょっとした。

「近……」
「昼間から飲んできたのか? てめえにしちゃ珍しいな」
「嘘、そんなに匂う?」
「近づけばわかる程度だがな」

 すんと鼻を鳴らすのが耳元で聞こえ、ブラッドリーが話すたびこそばゆくなる。
 ベリルは腰に回ってきた腕をはたき落とすと、反対の手で肩口にある頭を押しやった。

「近い。嗅ぐな」
「男の匂いもするぜ。楽しんできたみたいだな?」
「本当に犬みたいな……」
「いや、否定しろよ」
「やましいことはなかったから」

 仮にやましいことがあったとして、否定や弁解が必要な間柄でもないのだが。
 なかなか離れていかない体に、八つ当たりを兼ねて凭れかかる。急に体重をかけてもちっともふらつかないのが、少し憎たらしかった。

「ちょうどいいや。あんたに話さなきゃと思ってたし」
「あ? 話すって、男の話か? このまま?」
「そっちから仕掛けてきたんじゃん。それより本題。私、あんたのところのボスに目をつけられたみたいだ」
「……マジかよ」
「こんな嘘はつかない。話したくないのかと思って今まで訊かなかったけど、ブラッドリー、もしかして追われてるの」

 一瞬だけ、間があった。
 しかしすぐ、気のせいだったのかと思うほどあっさりとした調子で、ブラッドリーは頷いた。

「おー。裏切ったからな」
「マジか……」

 薄々わかっていたとはいえ、実際に肯定されると頭が痛くなってくる。例の賭場で見かけることが以前にも増して多かったのは、逃亡資金の調達のためということか。
 ベリルはブラッドリーに凭れたまま溜息をついた。あのドン・スノウがいつまでも裏切り者を野放しにしておくとは思えないし、ベリルがブラッドリーに手を貸しているとみなせば、容赦なく部下を差し向けてくることだろう。あるいは、ルナピエーナとの抗争を厭う気持ちがほんの少しでもスノウにあれば、まずは交渉を持ちかけてくるだろうか。
 ルナピエーナファミリーを回しているのは指折りの煮ても焼いても食えない男たちだから、舌戦に持ち込めるならこちらに分があるはずだが──果たして。

「……スノウには、あんたのことを犬扱いして誤魔化した」
「『野良犬』ってそういうことかよ」
「でも、スノウは真に受けてないと思う。当分、私の近くにはいないほうがいいんじゃない。この家にも、もう来ないほうが」

 言いながら、ベリルはまたブラッドリーの腕を叩いた。先程はたき落としたはずの腕が、再び体の正面に回ってきたからだ。
 今度は先程よりも強く叩いたにも関わらず、それでも片腕が凝りずに腹のあたりに巻きついてくる。そうして、ただでさえくっついている体をさらに引き寄せるものだから、ベリルはもう一度だけその腕を叩いた。痛そうもない、間抜けなだけの音が鳴る。

「当てがないわけでもないんでしょう。今までも、ここに来ない日はあったし」
「そりゃそうだが、ここよりいい条件の場所はねえよ」
「条件って……うちは宿じゃないんだけど」
「そうは言ってねえだろ」

 凭れていた体を起こして胡乱な目を向けると、ブラッドリーはやれやれと言わんばかりの表情で肩を竦めた。
 やれやれと言いたいのはむしろ、こちらのほうである。ベリルは呆れて向き直ったが、ベリルが口を開くより先にブラッドリーが「まず、場所がいい」と指を折った。どうやら、ブラッドリーなりの好条件とやらを説明してくれるつもりらしい。

「入り組んだところにあって見つかりにくい。逃走経路も確保できる」
「それはそうだね」
「家のつくりもいい。襲撃に備えて手間をかけてあるな」
「職業柄、逆恨みされやすいから」
「だが一番いいのは、家主だな。度胸がある。腕も立つ。口が固い、義理堅い。ドン・スノウに楯突く気概もある。芯が強い、いい女だ」
「ベタ褒めありがとう」

 何を言い出すのかと思えば、随分と調子がいい。煽てられたところで今以上のことは何もしてやれないというのに、いったい何を期待しているのか。
 ブラッドリーはベリルの顔を覗き込んで、くつくつ笑った。

「白けてんなあ」
「今の流れで調子のいいこと言われて、素直に喜べるわけない」
「煽てたわけじゃない、本心さ。早い段階で面倒事の匂いには気づいてたくせに、何も聞かねえ懐の深さもいいよな」
「ふうん」
「ベリルがいなけりゃ、それだけでどんなにいい隠れ家も見劣りしちまう」
「そんなに口説いたって何にもならないよ」
「なんだ、口説かれてる自覚はちゃんとあるな。安心したぜ」

 思わず口を噤んだベリルの頬を、ブラッドリーの指先が滑っていく。
 困ったことに、そうやって耳触りのいい言葉をいくつも並べられ、呆れこそしても不快ではなかった。
 ──ああまったく、これだから──本当に、困る。
 悔しささえ覚えた。ブラッドリーを嫌いだったら、こういう振る舞いを鬱陶しいと心底思えていたら、端からこんなことにはなっていない。それをブラッドリーも見抜いている。もしここに勝敗を決める必要があるとすれば、間違いなくベリルの負けなのだろう。
 固い手を払ってから移動すれば、あとからブラッドリーも着いてきた。決して広いとは言い難い家の中、寛げる場所など限られているから当然のことではある。
 ベリルが日課となっている武器の手入れをするべく道具を並べ始めると、ブラッドリーもすっかり定位置となった部屋の片隅に胡座をかき、膝の上で頬杖をついた。自分の刀の手入れはベリルが出掛けているうちに済ませているらしく、ベリルが武器の手入れをしているときは大抵そうやって眺めている。途中で邪魔をされる日も少なくないが、今日はどうだろうか。

「──それで、さっきの話の続きだけど」
「もっと口説けって?」
「なわけあるか。ここに来ないほうがいいって話」
「あー、まあ、一理あるよな」
「少なくとも、フライドチキンの送り主にはバレてるわけでしょ」
「そいつは大丈夫だ。あいつなら、上手くやる。ベリルに迷惑がかからないようにな」
「そういうことじゃなくて。私がヘマしたら、あんたも危なくなる」
「へえ、俺の心配か」
「……そういうことになる?」
「俺にはそう聞こえた」

 揶揄われたのだと思うには、声が随分優しかった気がした。宥めるみたいに──安心させるみたいに。
 外した槍の穂先を拭う手を止めて、ブラッドリーを見やる。血赤珊瑚のような瞳はゆるやかな弧を描きながら、ベリルを見つめていた。
 ほんの一瞬、視線が交わる。
 はっとしたときには、もういつもの勝気な双眸がそこにあった。ベリルが掴み損ねた生温い感情はすでにその影を潜め、今はただベリルの反応を面白がっているようだ。
 先程感じたものはベリルの思い違いで、結局、揶揄われただけだったのだろう。ベリルはそう結論づけると、溜息とともに視線を外して手入れを再開した。手入れを終えたら、本物の野良犬用の餌でも用意してみるか。そんなことを考えながら、口を開く。

「とにかく、早めに違う女のところに移動したほうがいいんじゃないの」
「女?」
「今まであんたが口説いた、私みたいな女。他にもいっぱいいるでしょ」
「待て待て、俺をなんだと思ってやがる」
「色男」
「お、おう……まあその通りなんだが、急にどうした」
「褒めたわけじゃない。客観的事実を伝えただけ」
「それを褒めてるって言うんだろうが」

 視界の外でブラッドリーが動いている。その物音を聞くともなく聞いていると、ブラッドリーは再びベリルのすぐそばにやって来た。そうして手を掴まれてしまえば、作業は中断せざるを得ない。これまでにも幾度となく覚えのある流れだ。
 簡単に振り解けるような強さではあったが、ベリルは顔を上げてブラッドリーを見つめ返した。
「いいか」、ベリルに言い聞かせるようにブラッドリーが言う。

「さっきも言ったが、俺がここにいる一番の理由はてめえだ、ベリル。ドン・スノウを敵に回す度胸があるやつは、この街に何人もいねえ。その上、本当に睨まれてもなんとかしちまえそうなやつなんざ、尚更いねえだろう。てめえなら、何があっても大丈夫だと思った」
「……随分買ってくれるね」
「この俺様がそれだけ惚れ込むくらい、ベリル・ギルバートがいい女だってことさ」
「……」
「俺は俺がやりたいことを、やりたいようにやる。てめえがスノウに目をつけられた程度じゃ、ここを出ていく理由にはならねえよ。それくらいは想定のうちだしな」
「悪びれもせずに」
「悪いとは思ってる。多少はな。……だから、てめえに無理強いをする気はねえ。てめえも、てめえのやりたいようにやるべきだ」
「……つまり?」

 乾いた指がすっと動いて、ベリルの指を撫でる。

「俺を追い出したけりゃ、ちゃんと拒絶しろ」

 指を絡めながら言うな──そう思っても、言葉にはならなかった。真面目な顔をしたブラッドリーも、本当はきっと全部わかっていて、わざとこうしているのだろうからたちが悪い。
 ──だって、それでもなお憎からず思ってしまうのに、そんな相手を一体どうやって拒絶すればいいというのだろう。
 朝も夜も、ブラッドリーがいる間は退屈とは程遠かった。何事もなくたって味気なさは感じない。『大人しく寝ていると可愛い』のも、まるっきり出まかせだったわけでもない。ただブラッドリーがいるというだけで、ベリルの日々には心を揺らす音が増え、心に刻む色が増える。匂いだって温もりだって、とうに心に焼きついてしまった。
 それを今更拒絶なんて──できるはずがない。
 いずれブラッドリーは、この街を出ていくつもりだろう。ドン・スノウに見つかるのが先か、逃亡資金が十分に貯まるのが先か。遅かれ早かれブラッドリーはいなくなる。日常にあとどれだけブラッドリーのいる時間があるのかと、つい考えて、考えるほどにこの手の温もりが名残惜しくなる。
 その感情の根本にあるものの正体はまだ掴めないが、拒絶から最も遠い何かであることは間違いない。──やはりどこまでも揺るぎなく、『ベリルの負け』だ。

「……むかつく」
「なんだよ。それが拒絶のつもりか?」
「黙って」
「おい……照れてんのか。……急に?」
「全然照れてない」

 繋がったままの手を振り解こうと思えないことが、にわかに悔しくてたまらなくなった。ブラッドリーも気がついて、可笑しそうに相好を崩す。
 普段よりも幼く見えるその顔から目を離せずにいると、ブラッドリーは握る手に力を込めた。先程までの、やんわりした繋ぎ方とは違う。これでもう容易には振り解けなくなったが──それくらいのことはもう、言い訳にもなれやしないのだ。

「ま、これからもよろしく頼むぜ」
「……ん。私があんたを売りたくならないように、せいぜいお行儀良くしていて」
「聞けねえな」

 不意に腕を引かれバランスを崩した体をブラッドリーが抱き止める。出しっぱなしの手入れ道具や武器が鈍く光って、ベリルを咎めているかのように見えた。

「『躾のなってない野良犬』なんだろ、俺は」
「あー……言葉の綾だよ」

 意外と根に持っているのだろうか。
 見上げた顔に、ついさっきまで浮かんでいた幼さはすでにない。ブラッドリーが何も言わずベリルの前髪を払いのけ、額を掠めたた指先に妙にどきりとした。覗き込んだ瞳には、自分の呆けた顔が映っている。

「……なあ、ベリル。俺の逃亡資金が貯まったら、一緒に来るか?」
「……は?」
「てめえもスノウに目をつけられちまったんだ、この先ずっと窮屈だろ。俺がいなくなったって、自由になれるわけじゃねえ」
「ちょっと待って」
「てめえの腕と度胸があれば、どこでもやっていける──」
「待ってってば。考えさせて」

 想像だにしなかった提案に心臓がどくどくと騒ぐのを、どこか他人事のように感じた。驚きと困惑にほんの少しの期待と気がかりが入り混じって、この胸中を言い表す言葉が思いつかない。
 脳裏にはルナピエーナの仲間たちの顔が浮かんでは消えていく。この街そのものへの未練はさしてないが、だからといって一切に執着がないわけでもない。戸惑いながらブラッドリーの言葉を反芻し、「待って」と言うばかりのベリルを、ブラッドリーは目を細めて笑った。

「『待て』ができねえのは、知ってるんじゃなかったのか?」
「う……やっぱり、根に持ってる?」
「はは、冗談さ。まだ資金も十分じゃねえし、急かしやしねえよ。この件についてはな」

 含みのある言い方に引っ掛かりを覚えたのも束の間、ブラッドリーの指先がベリルの頬から顎をなぞった。その手はそのまま後頭部へ回り、もう一方の手はいつの間にかベリルの腰を抱いている。
 これは、よくない流れだ。今までも何度、こうして手入れの時間に茶々を入れられてきたか。取っ組み合いも言い合いも、それ以外も、今日はまったく勝てる気がしない。
 とにかくまずは少し、冷静になりたかった。氾濫している頭の中に、咀嚼しきれずにいるブラッドリーの提案、中途半端な状態で投げ出されている武器のことや、今夜しようと考えていた細々としたこと、ドン・スノウのことなどが次々思い浮かんで──そうでなくとも簡単に流されてやるわけにはいかない──、ベリルは咄嗟にブラッドリーの衿を引っ張った。
 ブラッドリーは楽しげに笑っている。このずるい顔で『待て』はできないなどと開き直られようと、何が何でもベリルは『待て』と言わなければなるまい。

 今日の『待て』が成功するかはわからないけれど、きっとそういうお決まりのやりとりを、ブラッドリーも待っているのだ。


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