「ベリル様! このあと、賢者様への報告が済んだら、ベリル様のお部屋へ伺ってもよろしいでしょうか?」
──任務に公務にと常に多忙なアーサーが魔法舎にいることは珍しい。ベリルが魔法舎にやって来てから今日までの間、アーサーとじっくり話す機会がまったくと言っていいほどになかったのも、ひとえにアーサーの多忙さゆえだ。
中央の魔法使いが揃って任務に行ったとか、アーサーが夜遅くやって来て朝早く発ったとか、そういう話は何度か耳にしていた。ただベリルが魔法舎の中にいないことも多いので、見事にすれ違ってばかりいるらしい。顔を合わせたのも片手で数えられる程度、それだって軽い立ち話をしたくらいで大した時間ではない。
アーサーが名残惜しさを隠しきれない顔で立ち去るたび、ベリルはアーサーが谷底の町に遊びに来ていた頃のことを思い出した。あの頃から背丈が随分伸び、顔つきも振る舞いも大人びたというのに、オズに「帰るぞ」と告げられてしょんぼりしていた幼いアーサーを垣間見たような気分になる。アーサーは聞き分けのいい子どもだったから、「もう少し遊びたい」と駄々をこねることこそなかったが、顔にははっきりそう書いてあったし、それは十七歳になった今でも変わらないように思えた。暇乞いをする顔にはいつも、「本当はもう少し話をしていたい」と書いてある。……自惚れなどではなく。
何にせよ、珍しく魔法舎に戻っているアーサーが挨拶もそこそこに「お部屋へ伺ってもよろしいでしょうか」などと言うのだ。十代の少年らしい、弾む声で。
「いいよ。部屋で待っているから、ゆっくりおいで」
北の魔法使いらしからぬ返事が自分の口から飛び出したことに、今更驚きはしなかった。アーサーを前にすればあのオズでさえ『らしくない』ことを言うのだから、ベリルがそうであったところでさしたる問題でもない。きっと可愛がっている子どもを多少甘やかすくらいのことは、東西南北中央どこのどんな魔法使いでもするものなのだ。
──それに、しなければならない話もあることだし。
* * *
ベリルが居候している部屋は魔法舎の五階、ブラッドリーの部屋の隣にある。五階にはほかにオズや双子、オーエンの部屋があるが、今気配を感じるのはオズだけだ。残りは出かけているらしい。昼を過ぎたとはいえ日暮れはまだ先という時間帯だし、そう珍しいことではない。
他者の気配が少ないのは、いいことだ。いくらか落ち着いてアーサーと話ができる。
ただでさえこの部屋は、心から落ち着ける場所とは言い難い。オズや双子、オーエンの気配が近いというだけでなく、見知らぬ誰かの荷物をそのままにしているのが良くないのだろう。ベリルの荷物よりも前の住人の荷物のほうが多いから、空間がどうしても自分に馴染まない。晩酌に呼ばれて訪問する隣の部屋のほうが、よほど気楽に感じるくらいだ。
どうせ長く住むわけでもない、落ち着かないなら外にいればいいと、部屋を自分好みに整えることをせずに今日まできたが、そろそろ考え直さなければいけないかもしれないとぼんやり思う。体調を崩してフィガロの世話になったことは、まだ記憶に新しい。もちろん、散々小言を言われたこともだ。
しかしベッドはいまだに用意していない。アミュレットも取りに行っていない。
それでもアミュレットは、ひとまず簡易な代用品を作った。問題はベッドだ。魔法でスツールをベッドに変えてしまえば、なくても困らない。ただ心身の回復という観点で考えるなら、眠っている間に使われる魔力は少ないに越したことがないのも事実。ベッドのない部屋にフィガロが呆れたのも、それを踏まえてのことだろう。
前の住人が遺した荷物を押し込んだ棚を見上げてベリルが思案していると、品のいい足音が聞こえてきた。思ったよりも早かったなと思いながら、ノックに応じてドアを開ける。礼儀正しく入ってきたアーサーは、部屋の様子を見るなり目を丸くした。
「フィガロ様が仰ったとおりだ……」
「悪いね、生活感がなくて。そういえば、来客用の椅子もない……」
「ああ、いえ、そういうつもりでは。お構いなく」
「部屋まで来て立ち話じゃ、素っ気ないでしょう。《ヴィアオプティムス》」
ベリルは魔道具のダーツの矢を一本だけ椅子に変え、アーサーに座るよう促した。ついでにもう一本をティーテーブルに変え──三つで一つの魔道具ではあるがこういう使い方もできるから便利だ──、作り置きの食事や保存食などを入れているバスケットからエルダーフラワーソーダとクッキーを取り出し、そこに並べる。本当は紅茶を出したいところだけれど、あいにくティーセットがない。
礼を言って急拵えの椅子に腰かけるアーサーは、どこかそわそわした様子だった。
「こうして話をするのは、再会してから初めてだね。忙しくしているようだけど、体は平気?」
「はい、お心遣いありがとうございます。私は大丈夫ですが、ベリル様こそ、体調を崩されていたとオズ様からお聞きしました。その後、お加減はいかがですか?」
まさかオズがそんな話をしているとは思わず、ベリルは戸惑った。その戸惑いをアーサーは、まだ体調が優れないのだと思ったらしい。心配そうに眉を下げて、
「すみません。ご無理はなさらないでください。ベリル様とお話する時間を作れそうなことが嬉しくて、ついお声がけしてしまいましたが、今日のところは早めに失礼──」
「いい、いい。気にしないで。元気だから」
「……本当に?」
「本当。体調が悪いなら、声をかけられたときにそう言って断るよ」
「そう、ですか? ……お元気になられたなら、よかったです」
アーサーは微笑んでいたが、ベリルに気を遣われたと思ったのかもしれない。その証拠に、眉がわずかに下がったままだ。
「こちらでの暮らしには、もう慣れましたか?」
「それなりに慣れたよ。風が暖かいのは、まだ変な感じがするけど」
「無理もありません。私でさえ、中央の国に戻ったばかりの頃は、雪のない景色に違和感を覚えましたから」
「ああ、それ、わかるな。朝の見え方からして違う」
「わかっていただけますか? 嬉しいな」
「嬉しい?」とベリルは訊き返した。アーサーの笑顔は先ほどよりずっと明るく、本当に嬉しそうに見える。
「たとえばよく晴れた朝の眩しさも、暗雲が垂れ込める朝の薄暗さも、この国と北の国とでは違って見えます。でも、こういう話は誰とでもできるわけではありません」
それはそうだろう。ベリルは何も言わず頷いた。中央の王子であるアーサーを取り巻く環境が、北の国の話を──オズの城にいた頃の話を、気軽に口にできるようなものだったとは思わない。そうでなくとも、北の国と中央の国を行き来できる者は限られているから、共感を得られる相手を見つけるのは難しかろう。
「ほかでもないベリル様とこういうお話をできて、とても嬉しいです。もちろん、ただベリル様とお話しできるだけで嬉しいのですが」
「……そう。私も、アーサーの話を聞くのは楽しいよ」
とりわけアーサーと出会った頃は、真新しいことも心が弾むことも起こらない、張り合いもない日々が続くばかりで、そんな中に現れたアーサーはさながら一番星だった。
幼い青い目に映るものはすべてが真新しく、心を弾ませる素敵なもの。そのときめきを一生懸命に伝えようとする舌足らずな声の、薔薇色に色づく丸い頬の、なんと微笑ましかったことか。
はにかむ目の前のアーサーに、あの頃のアーサーの面影が重なる。
「いつでも話をしにおいで。私は結構、いつでも暇してるから」
「あはは。では、お言葉に甘えてしまうかもしれません」
「まだ十七歳なんだから、好きなだけ甘えておきなさい。次回までに、ティーセットを用意しておくよ」
「椅子は?」と悪戯っぽくアーサーが笑うので、「そうだった。椅子も必要だ」とベリルも笑った。
「……ベリル様は、魔法舎に私物を増やしたくないわけではないのですね。良かったです」
「良かった? どうして」
「実は……今日は、ベリル様にお贈りしたいものがあって」
「えっ……あ、椅子?」
「あっ、いえ、椅子ではなくて。ベッドです」
「ベッド」
「それと、寝具もですね。まさかベリル様がベッドなしで過ごされているとは思ってもみず……これまでご不便をおかけして、申し訳ありませんでした。今夜からは、お部屋でゆっくりお休みいただけますよ」
「不便というほど、不便ではなかったんだけど──」
──フィガロだ。あいつがアーサーに教えたのだ。
余計なことを、とベリルは内心舌打ちをした。ここでの暮らしについて、アーサーにこれ以上気を遣わせるつもりはなかったのに。
「居候の分の家具を、なにも一国の王子が用意しなくても……」
「ご安心ください。王子としてではなく、個人的な贈り物ですから!」
それはそれで、妙な噂が立たないか心配になるところだ。
そういえば、うかつに『ベリル様』と呼ばないようにという話をしなければならなかったのに、まだちっともその話に触れられていない。
「ええと、アーサー──」
「ひとまず、この辺りでよろしいでしょうか? 《パルノクタン・ニクスジオ》!」
いつの間にか立ち上がっていたアーサーが意気揚々と呪文を唱えると、立派なベッドが部屋の隅に現れた。ドン、とベッドの脚が床に着地する音が響く。
ベリルは呆気に取られて、口篭った。
「……えー、と………やけに大きくない?」
谷底の町のベリル邸にあるベッドの、倍近く大きなベッドだ。部屋が狭いから大きく見えるのだろうか──いや、それにしたって、一人で寝るには大きすぎる。
「確かにちょっと大きく見えますが、お部屋の広さを考慮して、候補の中でも小さいものを選びました」
「そ、そう……。これで小さいんだ……」
「お気に召しませんでしたか……?」
アーサーが目に見えてしゅんとしたので、ベリルは慌てて首を横に振る。
「いや、ありがとう。嬉しいよ、とても。デザインもいいし。うちで使ってるベッドに、少し似てる」
「それは良かったです。さすがブラッドリーですね」
「は……ブラッドリー?」
なぜ今ブラッドリーの名前が出てきたのか。困惑するベリルに、アーサーは純粋な笑顔を向けている。
「実は、どんなベッドがいいか悩んでいたとき、フィガロ様から『本人に聞くと遠慮されるかもしれないから、ブラッドリーに相談してみたら』と助言をいただいたのです。ブラッドリーに声をかけてみたところ、一緒に選んでくれました。大きさについても、『狭いより広いほうがいい』と」
あの野郎、と口をつきかけた言葉をどうにか飲み込んだ。
本当にフィガロはアーサーに余計なことばかり言う。というかブラッドリーもブラッドリーだ、当然のように自分の好みでベッドを選ぶな。
アーサーはなんとも思っていないようだが、これが他の魔法使いの耳に入れば、またあらぬ誤解が生まれて面倒臭いことになるかもしれない。
ベリルは頭を抱えそうになって、しかしそれも、どうにか堪えた。アーサーの気持ちは嬉しいのだ。贈るならベリルが気に入るものがいいと、アーサーなりに考えてのことだとわかる。だから、二度もアーサーを悄気させるのは避けたい。
「ブラッドリーは、ベリル様のことをよくわかっているのですね。皆が口を揃えて、『あの二人は仲が良い』と言うのも納得です」
「ただ付き合いが長いだけだよ」
「魔法使いの長い人生に、そんなふうに言える相手がいることは、きっととても幸せなことです。ベリル様とブラッドリーのような関係を、私はとても素敵だと思いますよ」
「そう……そうだね。私とあいつのことはともかく、前半は同意」
「本当に、素敵なのに」とアーサーが言い、ベリルは曖昧に笑った。
果たしてそんなに素敵なものだろうか──アーサーの目が素敵だと判じたものを、疑いたくはないけれど。
この話を続けることは、自分にとってあまり得策ではない。「それはさておき」と口を開いたベリルに、アーサーは物分かりのいい微笑みを浮かべて続く言葉を待っている。
「アーサーに言っておきたいことがあって」
「はい。なんでしょう」
「他の子たちにもした話なんだけど──」
「それは、ベリル様をミスラと同じように扱いなさいというお話ですか?」
「……なんだ、もう聞いてたの」
「ヒースクリフたちから聞きました」
アーサーは微笑んだままだったが、少しだけ寂しそうだった。
「ベリル様がそう望まれるのでしたら、私もその通りにいたしましょう。呼び方ひとつ、言葉ひとつで、私の心は変わりませんから」
「アーサー。……おまえは本当に、聞き分けが良すぎる。好きに甘えなさいと言った同じ口で、我慢させるようなことを言っているのに」
「我慢……それは違います、ベリル様」
一歩進み出たアーサーがベリルの手を握る。谷底の町で手を取られたときは気にしなかったが、すらりと長い指も薄い手のひらも、以前繋いた手とはまったく違っていた。
「ベリル様のお考えは理解しているつもりです。他人を気にして慣れ親しんだ呼び名を変えなければならないことは、確かに寂しくも思いますが……、二人きりのときは例外なのでしょう」
「……ルチルに聞いた?」
「はい。ですから私も、二人きりのときはこれまで通りに。……なんだか二人だけの秘密ができたみたいで、少しワクワクします」
「……ほんと、おまえって子は」
思わず自由なほうの手で頭を撫でると、アーサーはくすぐったそうに笑った。背丈が伸びて大人に近づいても、こうして気軽に撫でられる高さにこの子の頭があって良かった──などと、我ながらおかしなことを思う。
「ですが、もしベリル様が、私に『我慢させた』ように思うなら……ひとつだけ、我儘を言わせてください」
「……どんな我儘?」
「私があなたへの接し方を変えても、どうか、私を遠ざけないでほしいのです」
握られたままの手に力が籠り、青い目が寂しげに揺れた。請うように、縋るように、「この国にいらっしゃる間だけでも」とアーサーは続ける。
「私を慮ってのこととわかっていても、ベリル様に遠ざけられたら、私は寂しく思います。きっと、慣れ親しんだ呼び名を変えることより、ずっと寂しい……」
飾らない素直な言葉は、真心そのものだった。そうやって一生懸命ベリルに言葉を伝えようとするさまは、幼い頃と何ら変わらない。
「……すみません、勝手を言いました」
不意にはっとした表情になって、アーサーは眉を下げた。「忘れてください」と離そうとする手を、今度はベリルが力を篭めて引き留める。
空いている手ではアーサーの頭をもう一撫でして、そうして、自分のそれよりもいくらか高い位置にある肩をそっと抱いた。
「心配いらないよ、アーサー。私の心だって、変わりはしないから」
「ベリル様……」
──遠ざけることなど、考えてもみなかった。
なるほど確かに、ミスラと同じように接しろと言う前に、遠ざければ良かったのだ。あるいはベリルのほうから遠ざかれば、アーサーに変わることを強いる必要はなかった。もっとも、最初にその選択肢を思い浮かべていたとしても、結果は同じだったかもしれないが。
アーサーはただじっとしていた。自分の言ったことが少しずつ恥ずかしくなってきたのか、それともこの状況が照れくさくなってきたのか。アーサーの頬には赤みが差し始めている。
ベリルは思わず笑って、肩をぽんぽんと叩いた。
「さて。ベッドのお礼には少ないけど、クッキーがまだまだあるから、たくさん食べておいき」
「……はい、あの……ソーダのおかわりもありますか?」
「ふふ……うん、あるよ。よく冷えたのが」
髪も肌も透き通るようだから、可愛らしい赤い頬はよく目立つ。
再び椅子に腰掛けたアーサーにおかわりのソーダを出し、花のかたちの氷を浮かべてやりながら、ベリルはいよいよ真剣に部屋をどうにかする必要があると再確認した。
来客用の椅子もティーテーブルも要る。そして何より、『いつでも落ち着いて過ごせる部屋』にしなければならない。きっとこの部屋に誰かを迎えることが増えて、ここで過ごす時間も増えるのだろうから。
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