深緑覆う氷霜のライゼ 12

 家の一つひとつ。村全体。それらが見る間に結界に覆われていくさまは、水面に氷が張っていく様子に似ていて少し面白い。この狭い土地の中に複数の魔法使いの気配と魔力が混在しているというのも珍しくて、ついじっくり眺めてしまいそうになる。北の国では滅多に見られるものではないからだ。
 縄張り意識が強い北の魔法使いは、縄張りに踏み入られることはもとより、縄張り内に他者の魔力の痕跡が残ることを嫌う。そんなものは宣戦布告と同義だ。力で以て早急に消し去って、制裁を加えてやりたくなる。師匠からはそう教えられたし、少なくともベリル自身がそうだ。
 もしもここが谷底の町だったなら、ファウストの提案を呑みはしなかっただろう。あの日以来一度も帰っていなくとも、谷底の町はベリルの縄張りであり六百年の集大成だ。今となってはブラッドリーやオズの手が入ってしまったが、これ以上他の魔法使いに介入されたらと考えるだけでぞっとする。
 自分の持ち場の結界を張り終えて空から一帯の様子を眺めていると、なんともいえない気分になった。こんなに小さな村なのに、中央の国の雑踏より更にごちゃごちゃして感じられる。
 そもそも、滅びた生き物が甦ったせいか、到着したときから土地全体に妙な気配が漂っていた。そこへさらに個々の魔力が上塗りされているから、なんだか騒がしい感じがするのだろう。これはこれで面白いといえないこともないが、もっとすっきり整然としているほうがベリル好みだ。
 村の隅から隅まで視線を走らせてみても、出歩いているのは魔法使いだけ、気配がごちゃごちゃしていても人の気配はない。
 ベリルは小さく溜息を吐いた。
 ──微妙、というか、惜しい。
 ベリルのマナエリアは『人の住む町の上空』だ。より具体的にいえば『谷底の町の上空』ということになるのだが、ある程度の人家があって命の気配があれば他の町でも代わりになる。
 人間たちの日々の営み、獣や精霊たちの躍動する気配。そういうものを眼下に見るとき、胸の奥に小さな明かりが灯るような心地がする。灯火は指先まで温め、気づかぬ間に溜まっていた澱のような何かをゆるやかに溶かしていく。すると身体は軽く、思考はクリアになるのだ。
 ……が、どうも木陰の村は、マナエリアの代わりとするには今ひとつだ。多少は心が落ち着くような気はするものの、気休め程度。
 その事実は少しだけ、残念だった。たとえ大仕事の前ではなくても、万全の状態でいられるならそれに越したことはない。ベリルにも北の魔女としてのプライドがあるし、この程度のことで失敗するのは嫌だから。とりわけ今日はどんな些細な失敗もしたくはなかった。
 たぶん──あの子の瞳がちらつくせいで。


* * *


 緊張のせいか強張った表情のヒースクリフから、彼が彫り上げた美しい蝶を受け取って、ベリルは空を見上げた。

「そろそろかな」
「……ベリル様がその蝶を放ったらそよ風を起こして、辺りの氷霜蝶を刺激すればいいんですよね」
「そう、軽くね。刺激を受ければ、止まって翅を休めている氷霜蝶たちも飛び上がる。ブラッドリーの説通りなら、あとは勝手により強い魔力を持った『ボス』のそばに集まるはずだから」

 そうすれば、群れごと誘導するのも随分楽になる。これでブラッドリーの説が大外れだったらとんだ笑い話だが……たぶんその心配は無用だろう。何しろ、ブラッドリーなので。
 事は順調に進んでいる。結界は、村内すべての建物に施した。ベリルが張ったものは勿論ブラッドリーやファウストが張った結界も、一分の隙もなくちょっとやそっとのことでは壊れない。
 ネロと賢者のほうも、村長と協力して上手くやり遂げたらしい。人間たちは今、きちんと戸締りした家の中で、窓からこちらの様子を伺っている。みな顔色は良く、その表情に浮かぶのは怯えや警戒心というより、事の行く末を見守ろうという意思に見えた。
 残る仕事は、氷霜蝶を群れごと移動させ鱗粉を片付けることだ。蝶たちがいなくなったら、残った鱗粉を東の魔法使いたちが魔法で巻き上げる。巻き上げた鱗粉はひとまとめにして、ベリルが引き取る予定になっている。
 氷霜蝶の移動後速やかに巻き上げ作業に入れるよう、東の魔法使いたちは村の四方に散らばった。そして万が一に備えて、臨機応変に動けるブラッドリーは村の中心に。氷霜蝶を動かす役割があるベリルは、全体を見渡せる上空へ。建物の中へ避難してもよかったのにすべてを見届けることを望んだ賢者は、魔法でしっかり防護してファウストの後ろに立っている。
 ベリルが作っておいた小さな氷の蝶たちは、すでに村のあちらこちらへ放っておいた。あとは呪文ひとつで動き出す。
 ヒースクリフは依然固い顔をしている。……なんてもったいない。ベリルは『ボス』となる蝶を手にしたまま箒に腰掛け、口を開いた。

「大丈夫だよ、ヒースクリフ。おまえの蝶はどんな蝶よりも綺麗だもの。すべての氷霜蝶を惹きつけて、どこまでも飛んでいける」
「え……」
「しかも仕上げの魔法をかけるのは私なんだから、失敗する理由がひとつもない。もしそれでも心配なら、不安がるよりも旅の無事を祈っていておやり」

 話しながら箒の高度を上げる。すれ違いざま、ヒースクリフの軽く肩を叩く。浮き上がった箒を追うように、下から「はい」と芯のある声が聞こえた。


 位置についてまず、ベリルは村全体を見渡した。
 氷霜蝶の鱗粉に覆われた白い村。こちらを見上げる魔法使いたちと賢者。穏やかな空。邪魔する風もない。
 使い慣れた魔道具がくるりと円を描く。
 ──よし。

「《ヴィアオプティムス》」

 その瞬間、目の覚めるような美しい蝶がベリルの手から飛び立った。真昼の陽射しを浴びながら、優美にはばたいている。
 程なくして、音がした。しゃらしゃらという涼しい音。目を向けるまでもなくわかる、氷霜蝶が飛び交う音だ。
 ゆっくり動くベリルの魔道具を追って、『ボス』も村の中を自由自在に飛び回った。少しずつ大きくなるしゃらしゃらという音も遅れて後をついてくる。蝶の群れが大きくなるのに、そう時間はかからなかった。
 いまやたくさんの翅が眩しいほど陽射しに煌めいている。その中に自分の蝶がきちんと紛れ込んでいるのを確認しつつ、ベリルは目を眇めた。
 氷霜蝶はあらかた集まっただろうか。
 ちょうど、二匹の氷霜蝶が遅れて上がってくる。ファウストの持ち場のほうからだ。他にもまだ地上に残っているものがいるのかもしれなかったが、ずっと待ち続けるわけにもいかない。
 各地点にいる魔法使いたちへ順に目を向ける。その様子を見る限りでは、少なくとも彼らの目の届く範囲に蝶はいないのだろう。
 ベリルが放った蝶もすべて群れに合流しているし──そろそろ。魔道具を構え直したとき、

「《アルシム》」

 突然真上に大きな影が差した。

「なんですか、これ」
「おお、これは懐かしい。氷霜蝶じゃ!」
「何百年振りかのう。まさかまた見ることができるとは」

 馬鹿でかい扉からミスラが顔を覗かせ、その足元から箒に乗った双子が滑るように飛び出してくる。双子はベリルと目が合うと、わざとらしく小首を傾げた。

「遅くなってごめんね! オーエンちゃんがどうしても捕まらなくて」
「なんとか説得できたミスラちゃんと我らだけで合流することにしたのじゃが……今、どういう状況? 我ら間に合ってる?」
「……どちらかと言えば間に合ってますけど、今来るくらいならむしろ間に合わないほうが良かったです」
「マジかー」

 最悪ではないにしても、良くはない。ミスラの機嫌次第では、東の魔法使いたちの願いも準備も虚しくすべて一瞬で焼き払われることになる。
 最後に扉を通り抜けてきたミスラは、気怠げに箒の上に立っていた。氷霜蝶を見下ろす緑の瞳に、ちらちらと小さな光が反射している。

「……とりあえずこれ、燃やせばいいですか?」
「言うと思った。駄目だよ、燃やさないで」
「駄目? あなた、囲まれてるってわかってます?」

 そんなに間抜けでしたっけ、とミスラは首を捻った。言いたいことはいくつかあったが、ひとまず「囲まれてるわけじゃない」と否定の言葉を口にしておく。
 ミスラは「はあ」と気のない返事をした後、蝶の動きを目で追った。寝不足が続いているのか、目の下には今日もくっきりと濃いクマがある。それにしては、懸念していたほどには不機嫌ではない……ように見えるが、油断は禁物だ。ミスラの機嫌は山の天気並に変わりやすいのだ。
 言葉を選びつつ蝶の群れを自分の背後に誘導すれば、ミスラは箒を寄せてきた。ただでさえ長身のミスラに立ったまま見下ろされると、こちらは首が痛くなるほど うんと見上げなければならない。そうでなくとも、空の上に来てまで見下ろされるのは癪だ。ベリルは無言で箒の高度を上げた。

「なんでしたっけ?」
「何が?」
「この、わらわら飛んでるやつですよ。なんか、昔見たことがあるような気がしてきたんですけど」
「さっきスノウ様が言ったでしょ……。氷霜蝶。昔、うちの近くにたくさんいた」
「……ああ。思い出しました。翅を砕いて肉にふりかけると美味しいですよね」
「はっ?」

 砕いて肉にふりかける?
 素っ頓狂な声をあげたベリルに続いて、スノウとホワイトも「嘘でしょ?」「氷霜蝶食べてたの……?」と困惑の声を上げる。
 返事をしないミスラの手が蝶の群れに伸ばされたのを見て、ベリルは咄嗟に間に魔道具を割り込ませた。

「悪いけど、食べるのも駄目だよ」
「なんなんですか、さっきから。あれも駄目、これも駄目。あなたが俺に指図しないでください」
「これは指図っていうか……とにかく、手を引っ込めてくれない? あんたの手が触れたら──」
「簡単に砕けると思いますよ」
「だから引っ込めてって言ってんの。砕こうとしないで」
「また……。俺は、誰の指図も受けません」

 鬱陶しそうにミスラが目を細める。ヘマをしたのは自分のほうかと舌打ちをしたくなった。
 何匹か食べさせれば、満足するだろうか? ミスラの機嫌を損ねて、村ごと焼かれるよりは──。
 そんなふうに考える一方で、でも、と心が異を唱えた。
 ヒースクリフがせっかく頑張ったのに。自分が言い出したことだからと工夫と努力をして、緊張しながらも見守って、きっと、ベリルの言葉通りに蝶の旅路に祈りを捧げていたのに。……おそらくは、賢者だって。
 報われない日も思い通りにならない日も人生にはつきものだが、あの子たちの今日がその一つになろうというのは看過できない。
 蝶の群れを魔道具と自作の蝶で囲い込み、ミスラを見据えた。相変わらず考えの読めない目は、静かにベリルを見つめ返している。数秒、見つめ合うだけの時間があって、それから唐突に、ミスラの視線はベリルを通り越して別のものを捉えた。



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