深緑覆う氷霜のライゼ 13

「何をモタモタしてんだよ」

 ブラッドリーがベリルたちと同じ高さまで上がってきていた。ブラッドリーはミスラと同じように箒に立ち、肩には魔道具の長銃を担いでいる。

「よお、ミスラ。随分遅かったな」

 そう言ってミスラへ片手を上げる仕草は気安いが、後に続いた言葉はわかりやすく挑発的だった。

「あんまり遅えから、任務が怖くて逃げ出したのかと思ったぜ」
「はあ? 俺に、怖いものなんてありません。逃げてもいませんし」
「口ではなんとでも言えるな。逃げてねえなら、どうしてこんなに遅かった?」
「俺が遅いんじゃなくて、あなたたちが遅いんでしょ。あなたたちがさっさと依頼を解決しないから、俺までこんなところに連れてこられたんです。いい迷惑ですよ、まったく……」

 ミスラは苛立ったように眉を寄せた。普段表情の変化に乏しいミスラだが、こういうときにはいくらかわかりやすい。

「腹が立ってきたな」

 と続いた声は低く静かで、しかし紛れもなく空気をひりつかせた。ここにいるすべての魔法使いが、ミスラが齎す一撃の苛烈さを知っているからだ。
 とはいえ今この空には、それなりに歳を食った北の魔法使いばかりが集っている。当然、不機嫌なミスラに怖気づくような者は一人もいない。やれやれと肩を竦めた双子の眼差しも、ぐずる子を諌める大人というよりむしろ、喧嘩を茶化す悪ガキのそれに近かった。

「こらこら、こんなところで喧嘩はいかん」
「ブラッドリーも徒にミスラを焚きつけるでない」
「理由がありゃいいのかよ」

 とりあえず、といったふうに双子が制止の声をあげ、ブラッドリーはあっさり笑い飛ばした。双子とて、ブラッドリーが素直に頷くとは端から期待していなかっただろう。

「そうは言っとらん」
「理由にもよるかのう」

 双子は肩を竦め、怒るでもなく軽い調子で言うだけだ。
 鼻で笑ったブラッドリーは長銃を担ぎなおすと、ほんの一瞬ベリルに視線を寄越した。余裕をたたえたワインレッドと不敵な笑み。それらはベリルの反応を確かめることなく、ミスラへ向けられる。

「ミスラ。ムカついてんなら憂さ晴らしといこうや。俺様もこんな退屈な任務に付き合わされて、鬱憤が溜まってたところなんだよ」
「はあ……。まあ、それなら、付き合ってあげてもいいですよ」

 かつてチレッタのものだった髑髏水晶がミスラの手元で冷たく光った。
 ベリルはじっと二人の動向を窺っていた。もちろん魔道具はそのまま、氷霜蝶も十分に惹きつけられている。しかるべきタイミングで、いつでも動き出せる。
 しかし“憂さ晴らし”の手始めに、ミスラがこの辺りを更地にしようとする可能性もないわけではない。どう転んでもブラッドリーは上手くやるだろうから、あとは自分が合わせられるかどうかだ──

「これ、悪ガキども。喧嘩はいかんと言ったばかりじゃろ」
「それとも、二人揃ってお仕置きされたいのかのう」

 鈴の鳴るような声で双子が言う。
 ミスラは双子には目もくれず、やや鬱陶しそうにベリルを見やった。それから地上にいる賢者を一瞥し、短く呪文を口にする。その声や表情には先ほど見せた苛立ちが静かに燻っているものの、どちらかといえば、いじける子どもを連想させた。
 直後、ミスラの背後に扉がひとつ開いた。
 四角く切り抜かれた風景のその向こうに、灰色の雲に覆われた空と白い大地がある。聳え立つ山の輪郭は曖昧で、空との境界線なんぞわかりやしない。そこから雪の混じった風が、びゅうびゅうと吹き込んでくる。
 そのときベリルは、頬に感じるその刺すような冷たさに反して気分が高揚するのを自覚した。鋭くも肌に馴染む風が、容赦のない気配が、全身に血を駆け巡らせている。
 北の国のどのあたりに繋がっているかまでは見当がつかない。ただ、ちょうど見切れる位置に木立があることが窺える。範囲は不明、植生も定かではない──とはいえ、現時点では文句のつけようがないほど好都合だ。
 ベリルはそっと指先を振った。目だけを動かして氷霜蝶の様子を確認し、ついでに視界の端に、箒に跨る東の魔法使いたちの姿を捉える。

「気が利くじゃねえか」
「うるさいのがいないところがいいなと思って」
「はは、違いねえ」

 ミスラが白衣を翻しながら空間の境目を跨ぎ越した。ベリルの魔道具のうち二本の矢がその後を追うように飛び、さらにその後ろを蝶の群れが飛んでいく。箒を寄せてきたブラッドリーが、さりげなくベリルの肩を叩いてから後に続いた。
 
「こらこら、ミスラちゃん! 今来たばっかりなのにどこ行くの!」
「ブラッドリーちゃんも着いていかないの!」

 双子の軽い声に紛れるように、いくつかの呪文が風に乗って耳に届いた。東の魔法使いたちの落ち着いた声だ。
 氷霜蝶の群れに優しい追い風が吹く。儚い蝶たちをくるんだそれは、静かな祈りで、祝福だった。


* * *


「──小娘が『むしろ間に合わないほうが良かった』とかなんとか抜かしておった気がするが、結局、無事に任務を遂行できたのは我らが間に合ったおかげというわけじゃな?」

 顛末を聞いたスノウはそう言って、ベリルを見上げた。愛らしい笑顔を浮かべてはいるが、目はあまり笑っていない。

「……それは結果論でしょう。感じの悪い言い方をしたことは謝りますが、私は率直な気持ちを伝えただけですよ。ミスラがブラッドリーの誘いに乗らなければ、どうなっていたかわかりませんから」
「我らの目の前で勝手な真似はさせぬ。起きてもせいぜい小火止まりじゃ」
「たとえ小火でも、起こしたら駄目なのでは?」
「ああ言えばこう言う。元を正せばミスラが不機嫌になったのも、身の程知らずの小娘に駄目駄目言われたからじゃろうに。今一度口の利き方を教えてやろうかのう、ベリルよ」
「お心遣いには感謝しますがお断りします。ご隠居の手を煩わせるのも忍びないですし、必要性も感じないので」

 そこでスノウが冷ややかな声を上げて笑ったので、ベリルも同じように笑っておいた。黙って聞いていたネロが静かに顔を引き攣らせている。

 氷霜蝶を北の国へ送り出した後、一帯の鱗粉を取り除く作業も無事に成功し、白に包まれていた土地は本来の姿を取り戻した。木漏れ日の美しい、明暗あわせ持つ深い緑の森。そこに息づく、控えめながらも力強い命の気配。こんなにも見違えるものかと、ベリルはしばらくその鮮やかな風景を眺めていた。
 見違えたのは、風景ばかりではない。村人たちの態度もだ。彼らは自ら外に出て、賢者一行に素直に礼を伝えるまでに態度を軟化させた。警戒が完全に解かれることはなくとも、皆それぞれに安堵の表情を浮かべ、纏う雰囲気も和らいでいる。一行が帰路に着くときには、深々と頭を下げる村長のほかにも村人が何人も見送りに出ていたほどで、ベリルは思わず顔も知らない村長の孫を思い浮かべた。
 その子どもがいつか再びこの村に再び足を踏み入れる日が来たとき、この村の人間たちが今日のことを覚えているといい。たとえ魔法使いであることを知られても、悪いようにはされないだろうから。

 行きと同じように箒に乗り、しかし行きとは違って好きなように並んで飛ぶ。顔ぶれも少し違った。
 ホワイトの箒に乗った賢者が双子に今回のあらましを報告している間、ベリルはつかず離れずの位置を飛びながら話し声を聞いていた。時折ファウストが補足するように口を開き、ヒースが蝶の美しさをしみじみと語る。シノが魔物の討伐ではなかったことを残念がれば、ネロが苦笑混じりに宥める。穏やかで、どこかくつろいだ空気が流れている。
 賢者の顔も子どもたちの顔も、望んだ成果を得られた達成感で晴れやかだ。
 彼らの祝福の魔法に送り出された氷霜蝶たちは今頃、故郷とも呼べる北の雪原を優雅にはばたいているだろう。あるいはもう、落ち着いて翅を休めることのできる場所を見つけたかもしれない。
 よかった──と、素直に思う。彼らに同行したおかげで、目新しいものと懐かしいもの、美しいもの、胸を高鳴らせるものを見た。悪くない時間を過ごしたと、そう思える。
 唯一残念なことがあるすれば、今のスノウの機嫌くらいだ。
 尤も、先に失言をしたのは自分のほうに違いない。その自覚はある。が、あの時点での率直な気持ちを伝えただけであることもまた事実であって、ここで下手に出ては負けのような気がする。

「スノウ、ベリルさん。えーと、今回はそのあたりにしておきませんか……?」
「大丈夫じゃよ、賢者ちゃん。北の魔法使い同士の会話にはよくあることっていうか、むしろ今のはかなりマイルドなやつじゃから」

 ホワイトが軽い調子で言うと、賢者は苦笑した。困っているようなほっとしているような、どちらともつかない表情だ。
 そんな賢者にスノウは、「賢者ちゃんは優しいのう」と微笑んだ。それは慈愛に満ちた笑みと形容しても差し支えないようなものだったが、それでいてどこか白々しいと言えば白々しい。双子の本性を一端でも知っている者ならば、きっと誰もがそう感じるはずだ。
 ベリルが白けた目を向けていれば、気づいたスノウはこれまた白々しい溜息をつく。

「ベリルも昔は優しく素直な子じゃった……。それがどうしてこうなってしまったのかのう。嘆かわしいことじゃ」
「我が思うに、恋人の影響というやつは計り知れぬ。ブラッドリーと付き合い出してから、ベリルは変わってしもうた……」

 ホワイトの言葉に、今度はベリルが大きな溜息をついた。

「あいつは恋人ではありませんが」
「はて、いつの間に別れたのやら」
「別れる以前の問題です。私たちは昔も今もただの腐れ縁で、恋人じゃない。私、もう何度もそう言いましたよね」

 遡れば百年以上前、ブラッドリーが捕らえられたときから何度も「恋人ではない」と主張している。にも関わらず双子は──そしてフィガロも──しつこくベリルとブラッドリーを恋人ということにしたがって、度々そういうふうに扱った。煩わしいことこの上ない。
「ブラッドリーだって同じことを言ったでしょう?」と言い募ると、双子は互いに顔を見合わせてこてんと首傾げた。

「言ってたかな?」
「言ってなくない?」
「は?」
「捕らえられてからのブラッドリーは確かに否定しておったが……まあ、大事な恋人であれば、そうやって庇ったとしても不思議はない。よって、これは除外するとして──」
「しないでください」
「それ以前のブラッドリーは、囲っている女がいるという噂も、それがベリルではないかという憶測も、ただ笑うばかりだったような──」
「それ、見当違いも甚だしいからだと思いますよ」
「え〜?」
「そんなこともないと思うんじゃが」
「じゃあ、当時のブラッドリーが見栄を張りたい年頃だったんでしょう」

「可愛げのないことばかり言いおる」とスノウが頬を膨らませると、「反抗期じゃない?」とホワイトが口にした。
「そうかも」とスノウが頷く。「つまんないの」
 ベリルは口を開くのも億劫になり、黙って視線を外した。広大な緑の森、果てしない青い空。そのちょうど境界線のあたりを白い鳥が飛んでいる。
 何とはなしに小鳥を目で追ったベリルの名前を、賢者が控えめに呼んだ。

「ベリルさん。訊きたいことがあるんですが、いいですか?」
「……何?」
「氷霜蝶の鱗粉をどうするのか気になって。大量に引き取ってもらっちゃいましたけど、何かに使えるんでしょうか?」
「あぁうん、使える。昔は貯蔵庫の温度調整に使ったり、氷嚢に入れたりしたんだよ。上手く調合すれば薬の材料にもなるし。まあ、人間に使わせるときは、ちゃんと見ててやらないといけないんだけど」
「人間にも使えるんですね!? しかも思ってたより実用的……」

「ミスラに出す肉料理に振りかけても良さそうだしね」と付け加えれば、賢者は笑った。ベリルもつられて微笑み、ポケットの中の鱗粉を思い浮かべる。
 鱗粉と翅では味が異なるのかもしれないけれど、もしミスラが食べたがったら本当に振りかけてやろう。たくさん手に入ったし、これが扉の通行料代わりになるなら安いものだ。
 笑顔の余韻を残して賢者が再び口を開く。ベリルは会話に応じながら、かすかに聞こえる東の魔法使いたちの小声には気づかないふりをした。


「──恋人じゃないって、本当だと思うか?」
「えっ……本当なんじゃないかな。違うって言ってるんだから」
「あんなにベタベタしてたのに? ファウストもネロも、見ただろ」
「まあ……親しげではあったな。でも、本人はああして否定している。他人がとやかく言うことじゃない」
「……先生の言う通りだ。そっとしておけよ、シノ」

 
* * *


 その晩、魔法舎のキッチンにはフライドチキンの食欲をそそる匂いと消し炭の焦げた匂いが立ち込めた。通りすがりの魔法使いたちが何人か、ネロがフライドチキンを焦がしたと勘違いして驚いたのも無理はない。

 フライドチキンが大好きな魔法使いと消し炭が大好きな魔法使いが現れる前に、ベリルはネロに尋ねた。

「ブラッドリーって誰にでもあんな感じなんじゃないの?」

 ぴくりと肩を揺らしたネロは静かに振り返る。

「……それ、俺に訊く?」
「ほかに誰もいないもの」
「はぁ、そう……」

 真正面から見るネロの瞳は、とろりとした金色だ。けれどもそれは、昼間の陽射しよりもむしろ沈みゆく陽の光に似ていた。温かいのに、なぜだか少しうら寂しい。
 その瞳をじっと見つめていれば、どこか観念したようにネロは答えた。

「あんたの言う『あんな感じ』が俺にはよくわからねえけど……それでもたぶん、あんたは『特別』だと思うよ」

 ──特別。
 それは子どもにもわかる単純な言葉だというのに、今ひとつピンとこない。いつまでも舌の上で転がしているベリルから、ネロはそっと苦笑して目を逸らした。


230604
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