深緑覆う氷霜のライゼ 11

 ──賢者を部屋まで送り届けたあと、賢者があまりに強く引き留めるものだから、ベリルは渋々同じ家の中で夜を明かした。ほかの眠らない魔法使いたちとともに。
 特に会話らしい会話もなかったが、これまで一人で何千回と過ごした長い夜となんら変わりない。手すさびに氷の彫刻を拵えていれば、退屈はしなかった。そのうちネロが遠慮がちにシュガーをたくさん欲しいと言い出したので、大量のシュガー作りに取り組んだりもした。ファウストはもちろんブラッドリーもシュガーを作り始め、そこそこ歳を食った魔法使いたちが揃って黙々とシュガーを作る様子は、はたから見ればなかなか奇妙な光景だったろうと思う。
 そんなふうに夜が明けて、ネロが当然のように用意してくれた朝食を揃ってとり、賢者が昨晩見たものを弾んだ声でみんなに話して聞かせたあとは、また各々の作業に取り掛かった。
 ヒースクリフと一緒に作業部屋にひっこんだベリルは、まず魔道具のダーツの矢のうち二本を彫刻道具にしてヒースクリフに貸し与えた。残りの一本はそのまま手元に残しておき、それから、夜のうちに作った氷像──氷の蝶たちを並べる。ほとんど完成形ではあるが、仕上げはこれからだ。

「わ……!」

 と、ずらりと並んだ氷像に気づいたヒースクリフが目を見張った。

「凄いですね。こんなに、いつの間に……?」
「夜のうちにちょっとね」
「もしかして、氷霜蝶と一緒に飛ばすんですか?」
「そのつもり。北の国まですべての氷霜蝶が辿り着くように、群れに混ざらせてみようかと思って」

 完全に囲い込むには数が足りないだろうが、ないよりはマシだろう。ついでに、氷霜蝶が鳥などの他の生き物と接触しないよう、簡易な結界としての役割も持たせられれば尚いい。
 ベリルのあっさりした説明でも、ヒースクリフはしっかり意図を理解したらしかった。賢い子だ。
 ヒースクリフはベリルの蝶をまじまじと眺め、

「なんだかすみません。俺が呑気に眠っている間に……」
「謝るようなことじゃないでしょう。子どもは寝るのも仕事なんだし」
「……それは、もっと小さい子に言う台詞だと思います……」

 苦笑しても綺麗な顔だった。ベリルが肩をすくめると、ヒースクリフはそっと息を吐くように笑う。けれど手元の彫刻道具を握り込んだときには、こちらが目を見張るほどの真剣な表情に切り替わっていた。

「俺も、頑張りますね」


* * *


 ヒースクリフが作り上げた氷の蝶は、つい瞬きを忘れてしまうほど美しかった。
 ベリルの魔法で動き出せば、それはもう命ある生き物と見分けがつかず、しかしこの世のものとは思えないほど神秘的だ。繊細に彫り込まれた紋様は光の加減で様々な表情を見せ、羽ばたきのどの瞬間も美しさが損なわれることはない。

「これ、このまま自分の部屋に持ち帰りたいな……」
「えっ?」
「冗談、冗談。ヒースクリフが心を込めて作った子だからね、ちゃんと『ボス』になってもらおう」
「……なれるでしょうか?」
「なれるよ」

 はにかむヒースクリフと蝶を連れて賢者たちのいる部屋へ行くと、皆口々に蝶を絶賛した。ヒースクリフはますます照れくさそうにし、なぜかシノのほうが誇らしげに胸を張っている。

「どうだ。ベリルはこんな蝶は作れないだろ」
「シノ……! ベリル様すみません、気にしないでください」
「いや、小せえのの言うとおりだな。ベリルのセンスじゃここまで洒落たもんは彫れねえ」

 なあ、とブラッドリーが笑ってベリルの肩に腕を乗せた。

「まあ、そうだね。ヒースクリフは本当に大したものだよ」
「ふん、偉そうだな。素直に負けを認めればいいのに」
「シノ! やめろよ、勝負なんてしてないんだから……」

「ほんと怖いもの知らずだな、シノは……」とネロが苦笑する。
 すぐそばでブラッドリーも笑っている。肌にかかる吐息がくすぐったかった。

「負けを認める必要なんかねえだろ。ベリルの真骨頂は別にあるってだけだからな」
「本物そっくりに作るのが上手いってやつか」
「そうさ。魔獣なんか作らせたら、てめえら全員本物と見間違えて震え上がるぜ」

 シノは「オレは震え上がったりしない」と食ってかかったが、いよいよヒースクリフに止められて大人しくなった。黙っていれば歳のわりに落ち着いた少年のように見えるのに、こういう面を見るとそうでもない。
 そろそろブラッドリーの腕が重くなってきたので無言で払いのけ、ベリルはネロを見やった。

「そっちは順調?」
「え? ああ、まあ……順調かな。シュガーたくさん作ってもらったし。あとは村人たちが、警戒せずに食べてくれるかどうかだけど」
「口をつけないようなら無理にでも食べさせて、記憶を封印してしまえば? それなら私も手伝える」

 この規模の村でこれだけ魔法使いが揃っているのなら、それなりに現実的な案だと思ったが、すかさずファウストがサングラスを押し上げながら言った。

「なるべくそういう手段は取りたくないんだが」
「そう?」
「何かの拍子に綻びが出たら困るだろう」

 紫の目が一瞬子どもたちと賢者に向けられる。なるほど、とベリルは頷いて肩をすくめた。

「じゃあ、私の出る幕はなさそうだ」
「ああ。きみは蝶と鱗粉のほうに集中してくれ」

 氷霜蝶を氷の蝶で惹きつけ、移動させる。それから、辺り一帯に残る鱗粉を魔法で一気に取り除く。その際村に余計な被害が出ることがないように、結界を張るなどの下準備もしておかなければならない。難しい仕事ではないものの、手間はかかる。
 人間のほうは賢者とネロに任せることにしていて、残りの面子で手分けして取り掛からなければならないのだが、これがまた面倒だった。
 考えてみればベリルは、この人数の魔法使いたちと『協力して何かをした』という経験がほぼない。今回のような場合、人手はあるほうがいいということはなんとなく理解できる。しかし同時に、全部を一人でやるほうが煩わしくないのにとも思う。
 それが表情に現れていたのか、ファウストがかすかに眉を寄せた。

「何か不満があるのか」
「……ないけど」
「なら、きみにもしっかり働いてもらうからな」
「具体的には、私に何をしてほしいの」

 氷霜蝶を惹きつけるための蝶は、すでに用意ができている。大部分はヒースクリフの努力の賜物だが、ベリルの魔法が加わって完成といえるそれを用意できた時点で、ベリルの仕事はほとんど終わっているようなものという気もする。
 腕を組んだファウストは、少し考える素振りを見せた。

「結界を張ってほしい。もちろん僕もやるが……できればブラッドリーも」
「俺様にも指図すんのかよ」
「最後に鱗粉を取り除く作業は、東の魔法使いでやろうと思う。だから、きみたち北の魔法使いに結界を張ってもらいたい。それが一番、『事故』の起こる可能性が低いはずだ」
「まあ、てめえら東の魔法使いが北の魔法使いの結界を破るなんて、まぐれじゃ有り得ねえしな」

 ブラッドリーが揶揄うように言ったが、ファウストは表情を変えず頷いた。「そういうことだ」

「そのあとベリルには、氷の蝶の統制をとってもらいたい。すべての氷霜蝶を北の国まで移動させるには、魔法での補助が必要だろうから」
「……やるのは構わないけど、私を当てにしすぎじゃない?」
「言っただろう、働いてもらうと。今日までの宿代と食事代のかわりと考えるなら、まだ足りないくらいだと思うが」

 道中の会話を聞いていたらしいファウストの物言いに、ベリルは押し黙った。それが可笑しかったのか、ブラッドリーが笑う気配がする。思わず脇腹を肘で突いてやったがびくともせず、なんだかかえって腹が立った。口を尖らせれば、大きな手がぽんぽんと背に触れてくる。まさかそれで宥めているつもりなのだろうか。
 そのまま腰を抱いてきた手を引っ剥がそうとしたところで、ファウストが溜息をついた。

「じゃれ合うのは任務が終わってからにしてくれ」
「じゃれてるわけじゃない」

「どう見てもじゃれてただろ」とシノが言い、
「二人は本当に仲が良いですよね」と賢者が微笑ましそうに言う。

「普通でしょ、普通」
「つれねえやつだなあ」
「あんたが気安く触りすぎなの」
「今更だろ」

 触れていた手がようやく離れていく。ベリルはわずかに眉をひそめた。
 体温が遠ざかる感覚というものが、たぶん、苦手だ。いつもどこか寂しさに似ていて、心に妙なさざ波を立てていくから、好きになれない。
 もちろん、この程度で調子を崩すようなやわな心ではない。ブラッドリーがファウストの提案を承諾したのを聞きながら、ふっと息を吐く。さざ波はもう消えている。
 目が合った賢者に小さく笑みを向けて、ベリルも魔道具を取り出した。



230306
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