深緑覆う氷霜のライゼ 10

「あれっ、二人ともいない……!?」

 屋根の下を覗き込んで慌てたように呟いた賢者の背に、ベリルは「落ちないでよ」と声をかけた。万が一転げ落ちたとしても、賢者の体が地面に叩きつけられる前に助けられる自信はあるが、何もないに越したことはない。
「ネロまで連れて行かなくてもいいのにね」と続けると、賢者は振り返った。

「大事な賢者様を北の魔女と二人きりにするなんて、不用心というか」
「それは……ブラッドリーが、ベリルさんのことを信頼してるからだと思います。私も、ベリルさんが何かするとは思いませんし」
「思いなよ、不用心だな……」

 賢者は眉を下げて笑うだけだ。
 実際のところ、賢者に危害を加えるつもりは微塵もない。魔法舎でも幾人かにそう宣言しているが、だからといって鵜呑みにされるのも少し複雑な気分になる。特に賢者とベリルは、まだろくにお喋りもしていない仲だ。ベリルではなくブラッドリーのことを信用しているのだとはっきり言われたほうが、まだ納得がいく。

「……まあいいや。部屋まで送るくらいはしてあげるよ」
「あっ、ありがとうございます……。あの、それなら私を送ってくださるついでに、ベリルさんも屋内で休むというのは……?」
「それはしない」
「……ほかの人がいると、休めないですか?」
「そうだね」

 立ち上がって賢者に近づくベリルを、当の賢者は膝をついたままで見つめている。

「じゃあ……そうだ! ブラッドリーと同じ部屋ならどうでしょうか?」
「ん?」
「もし、私が使わせてもらってる一部屋を二人で──」
「いい、いい。気を遣いすぎ。というかあいつと同じ部屋ならいいとか、そういうのないから」

「でも」と言い募ろうとした賢者の腕を軽く引けば、賢者は大人しく立ち上がった。「……私が、ベリルさんに野宿をさせたくないんです。私の都合です」

「へえ?」
「ベリルさんと仲良くなりたいって言った気持ちに、嘘はありません。仲良くしたい人のことはどうしても気になりますし……、気遣いだって、したくなりますよ」

 これまでで最も近い距離で、賢者の目を見た。その瞳に思わず視線を奪われる。そこには相変わらず偽りの色はなく、打算の影さえもない。

「私と関わることで、痛い目を見るかもとは思わない?」
「思いません。みんなの話を聞いていると、ベリルさんは怖い人ではないんだろうなと思います。……今日もヒースクリフが、ベリルさんと話せたことを嬉しそうに話してくれました」

 この村に来る前、ヒースクリフがベリルを怖がるような素振りを見せていたことは記憶に新しい。賢者もその様子を覚えているのだろう。どこか安堵したように、柔らかく微笑んだ。

「アーサーやルチルが言っていたとおりだったって、安心したみたいです」
「……二人はなんて?」
「優しくて親しみやすい人だと」
「そう……。あの子たちが言いそうなことだけど、残念ながらその認識はあまり正しくない」
「そうでしょうか?」

 ベリルが眉をひそめると賢者は一瞬たじろいだようだったが、それでも口を結ぶことはしなかった。言葉を選びながら、丁寧に、芯を感じさせる声で続ける。

「こうして任務に同行してくれて、協力してくれていることもそうですけど……、ベリルさんが魔法舎に来てからのことを振り返ってみると、良かったことや嬉しかったことがすぐ思い浮かびます。逆に、嫌な思いをしたとか悪い印象があったとか、そういう出来事は思いつかなくて……。それは、ベリルさんの人柄のおかげなんだと思いますよ」

 ──つくづく、この人間は人が良すぎる。
 アーサーやルチルにしてもそうだ。ベリルが優しいのではなく、北の魔女に優しさを見出そうとする彼らこそが優しい。
 居心地の悪さに似た、しかし決して不快とも言えない何かが胸の奥でもぞもぞしている。名前のわからないそれを吐き出すように、ベリルは溜息をついた。

「嫌な思いをしなかったのは、偶々かもしれないでしょう。こんなに短い付き合いでわかることなんて、たかが知れてる。明日から嫌な思いばかりして、印象がひっくり返ることになってもおかしくない」
「それは……。そうですね……もしかしたら、その可能性はゼロじゃないのかもしれません。……でも、人付き合いってきっと、そういうものなんじゃないでしょうか」

 そう答えた賢者の瞳は、昼間見たとき確かに暗い色をしていたはずなのに、この薄暗い夜の世界の中でなお光をたたえていた。賢者があまりに真っ直ぐこちらを見つめるから、ベリルも目を離すことができない。
 やはり賢者は、ベリルの六百年にはいなかったタイプの人間だ。
 怯えない。怪しまない。ひるまない。敬遠するわけでもなければ、おもねるわけでもない。虐げることも疎むこともせずに、それどころか、歩み寄ろうとしてくる。仲良くなりたいのだと。
 仮にすべてが演技なのだとしたら賢者は大した役者だが、今のところそんなふうにも見受けられない。もちろん、今はまだ相手の人柄を断定できないというのはベリルも同じだ。つまり明日と言わず今夜中にでも、印象が覆る可能性はあるということなのだけれど──。
 賢者はさらに続けようとしている。言葉を吟味しているのか、中途半端に開けられた口からはなかなか音が出てこない。
 かわりのように、ベリルはしゃらしゃらという軽く涼やかな音を聞いた。この村では異質に響くその音にベリルは覚えがあった。懐かしい、ベリルの胸を高鳴らせる音だ。それは大きくなったり小さくなったりしながら、こちらへ近づいてくる。
 同じ音が賢者の耳にも届いたのだろう。賢者は開きかけていた一旦口を閉じると、子どものような目を屋根の下に向けた。

「この音は……」
「うん、きっと今近くに……いた! ほら、見てごらん」
「えっ、どこですか?」
「あそこ。……見えない?」

 おいでと手招けば、賢者は素直に体を寄せてくる。やはり警戒心が薄すぎやしないかとは思うものの、それも今はどうでもいい。ベリルは賢者の目の上に手を翳すと、素早く呪文を唱えた。

「《ヴィアオプティムス》」

 直後、賢者が息を呑んだ。
 二人がいる屋根よりも低いところ、いくつかの群れになって飛び交う蝶たち──その翅はどれも、冴えた月の光を受けて煌めいている。村全体に降り積もった鱗粉も月光に煌めくから、まるで眼下にも星空が広がっているかのようだ。

「綺麗……」

 賢者の口から感嘆が零れ落ちて、ベリルはわずかに胸を張った。

「そうでしょう?」

 自分が作ったわけでもないのに胸を張る。ブラッドリーがいれば笑われるかもしれないが、お気に入りの風景に心打たれている者が目の前にいて、いったいどうして澄ましていられよう。
 そうでなくとも、氷霜蝶が作り出すあの風景はもう二度と見られないと思っていたのだ──それがまさか、こんなところで、こんなかたちで!

「はい、本当に凄く……、凄く綺麗です……! 翅や鱗粉が、こんなふうに見えるなんて……なんだか、夜の湖の上にいるみたい」
「湖?」
「月の光が反射してきらきら光る水面と、少し似てませんか? あ、でも、北の国で見た星空にも似てるかも……!」
「……ふふ」

 ベリルの声に賢者は、この景色に負けず劣らずきらきらした目をほんの一瞬丸くして、それから同じように笑った。その笑い方は、子どものようにも大人のようにも見えた。

「……この音、村長は『無数の鈴を鳴らしたような音』なんて言ったけど、おまえにはどう聞こえてる?」
「私は……うーん、シャクシャクとか、シャリシャリですかね。かき氷とか……細かい氷をスプーンですくうときの音が近いような……?」
「スプーンですくう? 氷を?」
「えっと、私の世界にそういうデザートがあるんです。細かく砕いた氷に、シロップをかけて食べるんですけど……。氷霜蝶の翅が氷みたいだから、似た音がするんでしょうか……」
「……っふふ、そうかも」
「えっ、笑うところありました!?」
「いや、だって、氷とはいえ食べ物なんでしょ。まさか食べ物にたとえると思わなくて……ふふ」

 見かけによらず食欲旺盛なのだろうか。妙に可笑しくなって声を上げて笑えば、賢者も照れくさそうに笑う。二人分の笑い声は氷霜蝶の翅が立てる軽やかな音に重なって、柔らかな夜風に流れていく。
 酒を飲んだわけでもないのに、不思議と浮かれた心地だった。懐かしく思えるこの景色がそうさせるのだろうか。
 そのまま氷霜蝶を眺めていると、賢者が笑いの余韻を残したまま口を開いた。

「ベリルさんには、どう聞こえるんですか?」
「……しゃらしゃら」
「鈴のような?」
「いや……正体を知ってるから、氷霜蝶の音としか思えないんだよね。氷霜蝶が群れてる音だなって」
「たしかに、何の音かわからないからこそ、知っている他の音にたとえようとするわけですもんね」

 頷く視界の端には、氷霜蝶が村を取り囲む森のほうへ移動していくのが見える。後々の手間を考えるなら、今この場であの蝶を捕らえられるだけ捕らえてしまうほうがいいのだろう。そう思いながらも、ベリルは動かなかった。
「綺麗ですね……」と、あらためて賢者が呟く。「私、この景色を見られてよかったです。ありがとうございます、ベリルさん」

 噛み締めるようにそう言った賢者は、まだ微笑みを浮かべていた。
 なんと返したものか迷い、ベリルは「うん」と言葉少なに頷いた。そろそろ会話を切り上げて、この素直な人間を送り届けてやらなければならない頃合いだろう。今頃、真面目な東の魔法使いが苛立っているかもしれない。
 しかし、賢者は何かまだ言いたそうな顔をしている。

「それで私、やっぱり思うんですけど……」

 目線だけで促せば、存外しっかりした声が続いた。

「きっとどんな人との間にも、良いことばかりじゃなくて……わざとじゃなくても、悲しいこと、傷つくことや傷つけてしまうようなことは起こるかもしれないんです。……ベリルさんが言ったように、明日には嫌な思いをするのかもしれません」
「うん」
「だけど、それでも……ベリルさんといる今この時間が私は楽しいですし、明日嫌な思いをしたとしても、その先にまた楽しい時間があると信じたいです」
「……うん」
「それに、痛い目を見るかもって怖がっていたら、相手を深く知ることはできなくて、親しくなることも難しいと思うので……だから……その……、私は怖がらず、これからもベリルさんのことを知っていきたいです!」
「……決意表明?」
「そ……そのようなものです!」

 賢者は大きく頷いて胸の前で拳を握りしめる。その仕草に思わず笑い声が漏れたのは、たぶん、気分が良いからだ。

「……わかった。そうまで言うなら、私も、あんたを友人と呼べる日を楽しみにしていよう」

 今は──今だけは、案外、この人間と友人になることは難しくないのかもしれないと思わなくもない。どうやら賢者はベリルが美しいと思うものを見て、同じように感動できる人間のようだから。



230219
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