深緑覆う氷霜のライゼ 09

 葉の裏、木の幹、壁に屋根。氷霜蝶はこの辺り一帯の実に様々な場所に潜んでいたようで、よくよく探してみるとそこら中に見つかったという。もしも一匹一匹見つけて駆除していくことにしていたら、想定以上の時間と根気が必要な作業になっていだろう──そんなファウストの報告を聞きつつ、食事をとり、話題は次第に今夜の部屋割りの問題へと移っていった。
 この家は村の中では大きいと言えるだろうが、さすがに七人全員が一人ずつ使えるほど部屋はない。寝具の数も全然足りていない。もとは三人家族が暮らしていた家なのだから、当然といえば当然だ。

「私は床でも外でも休めるから、どうぞ残りの六人で使って」

 ベリルはそれだけ言って、一人早々に部屋を出た。賢者が引き止めようとする声は聞こえていたが、振り返らずに手を振った。



 積もり積もった白銀の鱗粉に、木の葉の隙間から蒼白い光が降り注いでいる。昼間なら木漏れ日と呼ぶのだろうが、これは月光である。こういうのは、なんと言えばいいのだろう。薄暗い世界で霜によく似た鱗粉が瞬いている景色は、見慣れた北の国の風景に少しだけ似ていた。
 ベリルは屋根を覆った鱗粉をさっと焼き払うと、そこに腰を下ろした。静かな夜風が頬を撫でていく。東の国の中では北寄りの土地だというが、それでも夜風は、ベリルが慣れ親しんだものよりもずっと優しい。

「ここで寝るつもりか?」
「そのつもりだったんだけど、眠るには少し眩しいかもしれない」
「気になるのはそこだけかよ」

 箒に立ったまま乗って現れたブラッドリーが、やれやれと大袈裟に肩を竦めた。その上にも月の光は降り注いで、色素の薄い髪が銀色に輝いて見える。
 ブラッドリーは軽い身のこなしで屋根の上に降り立つと、当然のようにベリルの隣にやってきて、片膝を立てて座った。

「部屋割りは決まったの?」
「おー、一応な。賢者が一部屋、ガキどもが一部屋、呪い屋と飯屋と俺で一部屋……、まあ呪い屋は一晩起きてるつもりらしいが」
「あんたもそうなんでしょ?」
「まあな。……てめえが寝てる間に屋根から転がり落ちねえように、ここで見張ってやってもいいぜ?」
「余計なお世話。落ちないし」
「どうだか」
「私のことどんな間抜けだと思ってるの……」

 確かに傾斜のついた屋根ではあるが、いくらなんでもそんなヘマはしない。ベリルが溜息をつく傍らで、ブラッドリーはくつくつ笑っている。

「別に、今から戻って部屋で休んだっていい。俺と呪い屋が使わねえ分、飯屋が使ってる部屋に余裕があるだろ」
「冗談じゃないよ」

 ベリルは苦笑した。ブラッドリーが言うからには寝首を掻かれるような心配はしなくていいのだろうが、気が休まらない。
 それに、ベリル以上にネロが嫌がりそうな提案である。
 
「そうか? 一言『部屋を使いたい』って言や、あいつは断れねえよ。賢者と東の兄ちゃんが、出て行ったてめえをめちゃくちゃ気にしてたからな」
「ええ……?」
「賢者はともかく、あの引っ込み思案な兄ちゃんを随分早く手懐けたもんだ」
「別に、手懐けたつもりはない」
「そういやてめえは昔も若造を誑し込んでたっけな」

 ブラッドリーの声色がわずかに変わったような気がした。ただの揶揄いではないらしいことはわかるが、真意を測れず、ベリルは眉をひそめてブラッドリーの顔を見やる。

「身に覚えのない話なんだけど?」
「三百年くらい前か? 若い魔法使いを拾って世話焼いた挙句、求婚されたことがあっただろうが」
「求婚? そんなの……、あー……もしかしてその子、魔道具は首飾り? 身なりに不釣り合いな、大きなオパールがついた」
「盗品だからだろ。つーか覚えてんじゃねえか」
「覚えてるっていうか……。あれはたまたま町の前で死にかけてたから、手当してやっただけだよ。そしたらあっちが勝手に何か勘違いして騒いで……、そういうのは誑し込むとは言わないでしょ」

 自分の縄張りの目の前でまだ肉体の成長も止まっていないような若者に石になられたら、さすがに寝覚めが悪くなる。
 そんな理由で若い魔法使いを拾ったことは一度や二度ではないが、しかしその後に求婚してきた若者はたった一人だ。とすれば、ベリルの振る舞いがどうということではなく、その若者が特別に変わり者だっただけだろう。
 ベリルの言い分に、ブラッドリーはわざとらしく溜息をついてから言った。「そうだな」

「ただ、てめえはガキにはすぐ甘い顔しやがるからな。……東の兄ちゃんは馬鹿じゃねえから大丈夫だろうが、ほかのガキにあんま勘違いさせてやんなよ」
「は……?」

 ベリルがさらに眉をひそめれば、ブラッドリーは殊更に大きな溜息をつく。
 
「今日もしてたろ。甘ったるい顔」
「甘ったるい顔って何」
「俺様には見せねえような顔」
「……なんなの? 妬いてる?」
「なんでだよ! 助言だっつの」
「わかってるってば。助言ねぇ……まあ、受け取っておいてあげるけど」

 あまりピンとこないというのが正直なところで、受け取った助言を生かせるかどうかは怪しい。
「上から目線かよ」と呆れたブラッドリーの声色は、もういつも通りだった。
 途切れた会話の代わりのように夜風が吹く。いつもならブラッドリーといるときの沈黙は苦ではないが、さすがに屋根の上で──それもこういう手持ち無沙汰な状況では、少しだけ気まずい。
 夜風に吹かれながらブラッドリーの横顔を見やっていると、下のほうから人の気配がした。

「落ちないように気をつけろよ」
「はい」

 聞こえてきたのは、ネロと賢者の声だ。
 程なくして屋根のへりから賢者が顔を出し、

「ベリルさ……あっ、お、お邪魔しました!」

 勢いよく引っ込んでいった。

「ん?」
「いい、いい。上がって来い」
「でも、お取り込み中だったんじゃ……?」
「別に何もしてねえよ」

 ブラッドリーが立ち上がり、屋根のへりから下に向かって手で何やら合図を送る。すると、小さな「わっ」という声とともに賢者が押し上げられてきた。続けざまに、「悪い、勢いつけすぎたか?」とネロの声がする。

「大丈夫です!」
「降りるときは──」
「ベリルと一緒に降りて来りゃいい」
「え」
「どうせベリルを呼びに来たんだろ?」

 ブラッドリーがそう言うと、屋根に膝をついた賢者は首を縦に振ってベリルに向き直った。緊張しているのか表情はいくらか強張っているものの、それがかえって賢者の実直さを際立たせている。

「実は、ファウストもブラッドリーもネロも今夜は起きてるそうで、一部屋空きが出ることになったんです」
「へえ、ネロも。なんで?」
「……いやあ、先生もブラッドも起きてるっていうし、あんたは外に出ていって、俺だけ一部屋もらって呑気に寝てらんねえっていうか……」

 ネロは相変わらず姿を見せないまま、声だけで応じる。見えなくとも表情はなんとなく想像がついた。
 賢者は困ったように眉を下げている。ネロはもちろんファウストやブラッドリーにもきちんと休んでほしいが、誰にも無理強いはできない──おそらくそんなところだろう。

「それで、ファウストたちとも話して、空いた部屋をベリルさんに使ってもらうのはどうかって。もちろん無理にとは言いません。でも、もしよかったら、ぜひ」

 何をしでかすかわからない北の魔女だから、目の届くところに置きたいのだろうか?
 ──ファウストの考えは、そうかもしれない。しかし少なくとも賢者は、純粋な善心から言っているらしかった。

「北の国ほどではないのかもしれませんが、夜は冷えますし……というか、ベリルさんは助っ人として来てくれたのに、野宿をさせるなんて──」

 そんなふうに言葉を続ける賢者の顔を見ていると、不思議と妙な気分になった。たとえるならいつか、両親にわがままを言ってしまった、あの日ような。
 ベリルが思わずぐっと言葉に詰まったのを見透かしてか、賢者の後ろでブラッドリーがにやにやと笑っている。

「……気にしなくていいよ。私は使わないから、部屋が空くっていうなら、子どもたちに一部屋ずつ使わせてやって」
「えっ」
「相部屋なんでしょ、あの子たち」
「そうですが……でも、ベリルさんが野宿するなら、ヒースが遠慮してしまうかも──」

 そのとき賢者越しに、ブラッドリーが背中を向けるのが見えた。見慣れたコートが翻る。
 声をかける暇もなく、ブラッドリーはひらりと手を振って屋根から飛び降りた。コートのはためく音に賢者が慌てて振り返るが、屋根の下を覗き込む頃にはネロの姿も消えているだろう。
 どうやらブラッドリーは、ベリルが絆されて賢者とともに屋根を降りることになると確信しているらしい。あるいはこういう状況にしてしまえば、ベリルが賢者を下まで送らざるを得ないと踏んだのかもしれない。
 どちらにせよ、飛び降りてから立ち去るまでの行動が速すぎる。ベリルは嘆息した。



230219
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