深緑覆う氷霜のライゼ 08

 結論から言えば、ベリルは首を縦に振った。根負けしたわけでも絆されたわけでもなく、ただ率直に、「そうしてもいいかな」と思ったからだ。実直な面差しや澄んだ青い瞳が明るく輝くのを見ると、なおのこと「まあいいか」という気分になる。


 やらねばならないことは、大きく分けて二つある。
 氷霜蝶の鱗粉で苦しむ人々を治すこと。氷霜蝶の群れを村の外へ誘導するための、ボスたり得る氷の蝶を作ること。
 前者については、ネロたちが実際に見てきた住民たちの様子を踏まえ、魔力を直接与える方法ではなくシュガーを食べさせる方法を試みることになった。
 シュガーそのものを振る舞うほうがいいのか、それとも食べ物や飲み物に混ぜ込むほうがいいのか。ファウストの采配でやり方を一任されたネロは首を捻っていたが、賢者の魔法使いとして召喚される前のネロは東の国で料理人をしていたというし、きっと上手くやるだろう。
 ベリルはといえば、割り振られた仕事は言うまでもなく氷の蝶を作ることだった。もちろんヒースクリフも一緒である。蝶の原型はすでにベリルが作ったものを使い、これからその翅に──主にヒースクリフが──紋様を彫り込んでいくことになる。
 作業に入れば手伝えることはほとんどないし、集中して取り組みたいだろうからと、ヒースクリフのそばに残ったのはベリルだけだ。ネロを除くほかの魔法使いたちは、氷霜蝶のいそうな場所に目星をつけるべく外へ出て行った。賢者は家の中に残ってはいるが、ネロのほうを手伝うらしい。

「よろしくお願いします」

 と真面目な顔をした若者たちに頭を下げられたのが、三時間ほど前。
 部屋のひとつに籠って作業を進めているうちに、日はすっかり傾いた。木陰の村を包む光は、まもなく完全に銀光へ変わろうとしている。外に出ている三人もそろそろ戻ってくるだろう。
 薄々わかっていたことだが、今夜はここに泊まることになりそうだった。今夜だけで済むのかどうかも怪しいところだ。
 本音を言えば、気乗りしない。
 ミスラがいれば氷霜蝶の群れを移動させるのも一瞬で済むし──もっともその前に一瞬で焼き払われる可能性が高いだろうが──、来るのも帰るのも一瞬だったのに。そう思うと、にわかにミスラが恋しいような気がしてくる。
 ……ミスラのやつ、早く合流しないかな。双子がミスラをその気にさせるのが早いか、それとも今いる面子だけで依頼を解決するのが早いか……来るも来ないもミスラの機嫌次第だから、予想するのが難しい。
 身動ぎすると、腰掛けている椅子が軋んで耳障りな音を立てた。会話のない部屋ではいやに大きく聞こえたが、ヒースクリフの耳には入らなかったらしい。
 自分が言い出したことだからと、率先して作業に取り掛かったヒースクリフの集中力は凄まじかった。それは、ベリルが部屋に明かりを灯したのにも気がつかないほど。はじめのうちこそ、どんな紋様を入れるべきか悩みに悩んで図案を描く手を何度も止めていたものの、一度こうと決めてからは迷いがない。遠慮がちにベリルに相談してきたのもほんの数回で、あとはずっと手際良く進めている。
 丁寧に、繊細に、それでいて的確にてきぱき動く手と、その手によって少しずつ美しく飾られていく作品を眺めるのは、なかなかに面白いものだ。
 おかげで退屈はしなかったが、かわりに自分も何か彫りたくなってくるのだから困ったものである。残念ながらベリルの魔道具は今、彫刻用の道具となってヒースクリフの手の中にあり、いくらベリルといえど素手では何も彫れない。
 せめてこの家に、鑿のひとつでもあれば。
 そのとき、ふとヒースクリフが詰めていた息を吐き出した。線の込み入ったところが一段落ついたようだった。

「あ……すみません」
「何が?」
「その……退屈、ですよね。俺、氷を彫るって初めてで、時間がかかってしまいますし……魔道具も俺がずっとお借りしたままで」
「あぁいいよ、そんなに退屈してない。氷に魔力を込める効率を考えたら今のやり方が一番いいし、焦らずおやり」
「……はい」

 氷の翅に細工できるような道具が何も見当たらず、ベリルの魔道具を彫刻道具に変えて使わせている。その場凌ぎの案だったものの、これが存外都合が良かった。ヒースクリフが紋様を入れている間も氷にベリルの魔力を込められる上、薄氷でできた翅が作業中に割れてしまわないようにベリルが補助することもできるからだ。

「初めてでそれだけできるなら、立派なものだよ」
「そうでしょうか?」
「技術も手際も申し分なくてセンスもいい、あとは完成させるだけ。何を気後れしてるのか知らないけど、もっと自信持てばいいのに」
「は、はい……。……でもなんだか、ふとした瞬間、本当にこれでいいのかなって思えてしまって……。もっと直すべきところが、たくさんあるような気がしてしまうんです」

 ヒースクリフが視線を下げながら言う。それはまるで叱られた子どものようだったが、むしろ自信のなさの表れなのだろう。

「そういう気持ちは、わからないでもない」

 言いつつ、ベリルは思わず微笑んだ。

「ただ、その紋様に関してはいらない心配だろうね。私の氷だから、納得いかない箇所があるなら何度でもやり直せる。やり直さなくても、私はそのままで好きだよ」
「え……」
「翅を広げると、前翅から後翅にかけて星が降ってるみたいに見えるのがいい」
「あ、ありがとうございます」

 強張っていた表情がじわじわと解けていく。初めてヒースクリフがはにかんで、大人びた美しい顔はあどけない少年のような顔に変わった。

「……でもこれは、俺が一から考えたわけじゃないです。シノが捕まえた氷霜蝶の後翅の紋様をベースにしていて──」

 先程までの歯切れの悪さはどこへやら、すらすらと話し始めたヒースクリフの表情は明るい。
 本物の翅を観察して気づいたこと、アレンジをする上でのこだわり。谷底の町では工芸や芸術に興味のある者は少なかったから、その熱心な語り口には新鮮味がある。頷きながら聴いていれば、ややあってヒースクリフはハッと頬を染めた。

「す、すみません。つい」
「何も謝るようなことはしてないでしょ」
「喋りすぎてしまったので……」
「好きだけ喋ればいいんじゃない。私も興味あるし」
「そうですか? よかった……」
「まあ興味がないときは勝手に聞き流すから、どちらにせよ、気が済むまで喋ればいいと思うけど」
「な、なるほど……?」

 ヒースクリフはまだ頬をほのかに赤らめたまま、目をぱちぱちさせている。
 不意に、ドアの向こうが賑やかになった。外に出ていた三人が戻ってきたのだろう。何か成果はあっただろうか。耳をそばだててみるが、聞き取れたのはシノの「腹が減った」という声だけだ。

「……私、ちょっと行ってくるけど、ヒースクリフはどうする?」
「俺も行きます。あ……これ、一度お返ししたほうがいいですよね」

 壊れ物を扱うような手つきで彫刻道具──もといベリルの魔道具を差し出したヒースクリフは、彫刻道具がベリルの手の中で本来の形に戻るのをまじまじと見つめた。
 これといって特徴のないダーツの矢だというのに、何がそんなに気になるのかと思えば、

「ベリル様は、これで彫刻されていましたよね」

 凄いなぁ、と独り言のように零れ落ちた純粋な賛辞が耳に届く。今度はベリルが瞬きをする番だった。
 長いこと彫刻を趣味としているが、出来栄えを褒められることはあっても、その手際を褒められることはほとんどない。かつて褒めてくれた人々はとうに骨や石に変わり果ててしまったし、生きている者たちは誰も彼もベリルが彫刻するさまに──あるいは彫刻そのものにも──ほとんど興味がない。飽きている、と言い換えてもいい。
 たぶん最後に似たような言葉を聞いたのは、アーサーが幼い頃だ。あの子が、澄んだ青い目をきらきらと輝かせてそう言った。
 しかし、だからといって──まさか自分が、たったこれだけのことに胸をくすぐられるなんて。

「……いつもこの矢で作業されているんですか?」
「いや……時と場合によるかな」

 部屋を出ながらおずおずと話しかけてきたヒースクリフに、ベリルは無意識に声を和らげた。

「小さなものや簡易的なものを手早く作るなら、今日みたいにこれで済ませることも多いけど、ちゃんとしたものを作るならやっぱり相応の道具を使うほうがいい。もしくは併用」
「併用?」
「ダーツの矢って、慣れれば細かいところを彫り込むのにちょうどいいんだよ」
「ああ……確かにこの矢の先端って、かなり細いですもんね。それに、結局は使い慣れた道具が一番使いやすいというか」
「そうそう。だから、慣れない道具で慣れない作業をこなしてるヒースクリフは、本当に腕がいいと思うよ」

 戻ってきた三人がいるだろう部屋へ入ると、ほかの二人も一緒だった。
「ちょうどよかった! 今から呼びに行こうと思っていたんです」と賢者が笑みを見せる。
 ブラッドリーはなぜだか呆れた顔をして、ベリルとヒースクリフを見比べていた。



230122
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