深緑覆う氷霜のライゼ 03

 既に村人たちの体に悪影響が現れていることから、自然と「出発は少しでも早いほうがいい」ということになった。
 常から統制が取れているらしい東の魔法使いたちの話し合いは、とんとん拍子に進む。北の魔法使いなら絶対にこうはいかない。二倍……いや、五倍の時間がかかるだろう。ベリルが呆気に取られている間に話はまとまり、出発は翌朝と決まった。
 エレベーターを使って東の国の塔へ、そこから先は箒に乗って。
 予定通りの時間に集合した一行は、早速木陰の村へ向けて出発した。穏やかな風の吹く晴れ空、視界は良好で気温もちょうどいい。箒の上で居眠りができそうな旅路である。
 一行を先導するのはファウストで、その後をシノとヒースクリフが並んで飛び、さらにその後にネロが続く。飛べない賢者は、ヒースクリフが自分の後ろに乗せた。東の魔法使いたちは特に相談するでもなく自然とそういうふうに動いたから、ベリルはいよいよ感心してしまった。本当によく統制が取れている。
 そんなベリルはといえば、子どもたちとネロの間を飛んでいた。
 本当はもう少し離れて飛びたいところだが、これ以上距離を取ると目敏いシノに気づかれる。シノが「おい、どこに行くんだ」と声を上げれば、それを合図に先頭のファウストも振り返るのだ。彼らの小言は恐ろしくなくとも、それなりに煩わしい。
 発端は出発前のファウストの言葉だ。きみは東の国には土地勘がないだろう。くれぐれもはぐれないよう、一番後ろのネロがすぐに気づける位置にいるように。云々。
 まさか本当に、はぐれることを心配しているとは思えない。大方、ベリルが土地勘のなさを言い訳にして行方をくらますことを懸念しているのだろう。少なくともシノのほうは、態度にそれが現れている。ファウストのほうはよくわからないが、ひょっとすると出立前にスノウに何か言い含められたのかもしれない。
 ……余計な世話だ。
 ベリルは溜息をついて、箒に跨ったまま地上を見下ろした。この辺りには人間が住んでいないのか、眼下にはしばらく前から緑の森が広がっている。時折烏が群れて飛んでいくのを見かけたくらいで、あまり変わり映えしない風景だ。
 それでも最初のうちは、白銀の大地ばかり見てきたベリルには新鮮味があったのだが、こうも森続きだとさすがに慣れてくる。真新しさが薄れてしまえば、どうしても暗い印象が拭えない。雪はささやかな光さえ跳ね返すが、この森は月の光までも吸い込んでしまいそうに見えた。昼間でこれなら、夜にはよほど暗かろう。もっとも、それで困る者もこの辺りにはいないのだろうが。
 ぐるりと視線を巡らせる。やはり近くに町はなさそうだった。ずっと遠くのほうにやっと、ぽつりぽつりとそれらしきものが見える。

「何か面白いもんでもあったかよ」

 隣から聞こえた茶化すような声に、

「全部、興味深くはあるよ」

 ベリルは答えて、箒の上で体の向きを変えた。箒に跨るのをやめて横向きに腰掛けると、気怠げな格好で箒に乗るブラッドリーがよく見える。
 昨晩遅くに魔法舎へ帰ってきたブラッドリーは、部屋へ戻ろうとしたところを双子に見つかり、こうして今朝から東の魔法使いたちと共に木陰の村へ向かわされている。その経緯のわりにさほど不機嫌そうではないのは、双子と何か取引でもしたからなのだろうか。
 ベリルの返事を聞いたブラッドリーは、鼻で笑って「そりゃ良かったな」と大あくびをした。機嫌の良し悪しは別にしても、やはり退屈ではあるらしい。

「ブラッドリーはどうして素直について来たの。あんた好みの依頼じゃないでしょうに」
「あ? そりゃあ……」

 ブラッドリーは少しだけ不思議そうな顔をして、ベリルの顔を眺めた。

「わかんだろ」
「恩赦?」
「おう。ミスラとオーエンが揉めてるおかげで、うるせえ双子もいねえし。帰ったら恩赦にマナ石がついて、夕飯にフライドチキンが山ほど食える」

「マジか」とネロが零す声が聞こえてくる。

「何も聞いてねえけど、作るのたぶん俺だよな……」
「お気の毒」

 ベリルが呟けばブラッドリーは揶揄うように、

「言ってる場合か? てめえだって、ミスラの機嫌取りのための消し炭作らされるんだぜ」
「は?」
「今頃双子が『ベリルの消し炭』をダシに、ミスラを口説いてるとこだろうな」
「冗談でしょ……」

 普通、取り引き材料といえばマナ石だろう。いくらミスラがぼんやりした男だとしても、消し炭程度で易々釣られるものか。ベリルは思わず眉をひそめたが、しかし口巧者な双子にかかれば、存外簡単なことのような気もしてくる。そもそも、ちらつかせる餌はなんだって構わないのかもしれなかった。あの二人なら、どうせ最後には実力行使で従わせる。
 それでも、ベリルが面倒を被るのには変わりない。ミスラを納得させるためには相当な量の消し炭が必要になるし、いい加減な焼き方をすればミスラの文句が飛んでくる。
 面倒臭い。ベリルが口を尖らせると、ブラッドリーは声を上げて笑った。

「どの口で言ってんだ。どう考えても、こんな退屈な任務に付き合って東の国まで来るほうがよっぽど面倒臭えだろうが」
「それはそれ、これはこれ」
「ったく……。自分から面倒事に首突っ込みやがって。馬鹿だろ。これからずっと引っ張り回されるぜ?」

 ブラッドリーが呆れているらしいことは、表情からも声からもよくわかる。

「あんたの言いたいこともわかるけど──」

 賢者に興味が湧いた。同行してもいいかなという気になった──それはベリルの本心であって、昨日賢者に告げた言葉にも嘘はない。

「引っ張り回されることになったとしても、利はあると思ったんだよ。色々と興味深いものが見られそうだし」

 ベリルが言うと、ブラッドリーはあからさまに怪訝な顔をした。

「割に合わねえかもしれねえぞ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あんたの天秤と私の天秤は違うからね」

 ベリルはブラッドリーと同じくらい生きているが、この世界のことをブラッドリーの半分も知らない。話に聞くばかりで実際には見たことがないものがたくさんあるし、ブラッドリーにとっては見慣れた取るに足らないものも、ベリルにとってはそうではない。眼下の森やあの日の湖がまさにそうだ。
 知らないものが多いことはずっと前から自覚していた。ブラッドリーやチレッタの話を聞きながら己の無知をもどかしく思うことも度々あり、だからこそ、双子の提案に利を見出せたともいえる。
 〈大いなる厄災〉が齎した異変の解決のため、世界各地を奔走しているという賢者一行といれば、色々なものが見られるだろう。それがたとえ美しいものばかりではなく、心踊るものばかりでもなく、時に大きな危険を伴うとしても構わない。
 世界の未だ見ぬ一面を己の目で、耳で、確かめられるなら。
 ……それに、ブラッドリーも一緒なのだから──などと考えたことまでは、明かすつもりはないが。
 
「まあ割に合わなかったとしても、文句は言わないつもりだよ。宿代や食事代のかわりと思えば、妥当なところでしょう」
「飯代ねえ。律儀なこった」

「穀潰しとは呼ばれたくないだけ」とベリルが肩をすくめると、前を飛ぶシノが「働いてない自覚があったんだな」と呟いた。続いて、小さくヒースクリフがたしなめる声も聞こえる。

「なんだよ、ヒース。本当のことだろ。オレたちが任務に行ってる間も、ベリルは何もしてなかった」
「する必要がないだろ。ベリル様は賢者の魔法使いじゃないんだから」

 その言葉に、おや、と思う。

「ヒースクリフは私をそう呼ぶんだね」
「えっ……と、アーサー様に倣ってみたんですが、まずかったでしょうか……?」

 振り返ったヒースクリフはいかにも恐る恐るといった様子で、視界に広がる空と同じ色をした美しい瞳を不安げに泳がせた。

「まずいというか……。ヒースクリフは確か、領主の息子なんでしょう。私相手に畏まって、大丈夫?」
「えっ?」
「立場とか、色々あるでしょ」
「ああ……それは……でも、オズ様や、スノウ様やホワイト様のこともそうですし」
「そりゃ、そのあたりの古い魔法使いたちなら、誰に何を言われても言い訳が立つだろうけど」

 二千年以上生きている彼らと比べればベリルなどまだまだ若いほうだし、彼らのように名を知られているわけでもない。
 ただの北の魔女と、その魔女に丁重に接する青年。その姿はおそらく、余計な勘繰りや的外れな憶測を生む。領主の息子が魔女に対して下手に出るさまは、領民たちの不安を掻き立てる恐れがある。
 それは勿論、アーサーにも言えることだ。 一国の王子という肩書きを持つアーサーがベリルを「ベリル様」と呼び、あまつさえ慕っている様子など、民の目に触れさせるべきではない。傍目には魔女が王子を誑かしているようにも、王子が魔女に心酔しているようにも見えるだろうし、そのせいで妙な噂が広まれば、困るのはアーサーだ。
 次に会うときによくよく言いかせておこうと思いながら、ヒースクリフの青い目を見やる。彼の後ろに乗っている賢者の見守るような視線には、気づかない振りをした。

「……まあいいや。おまえの都合の良いように、好きに呼びなさい。どう呼んでも怒らないから」
「えっと……はい。……お気遣い、ありがとうございます」
「ヒース、礼なんか言う必要ない。あいつ、なんだか偉そうだ」
「シノ……!」

 苦笑いの賢者を横目に、ベリルは再び森を眺め下ろした。
 何度目かのあくびをしたブラッドリーが「おい、呪い屋」と声を張る。

「まだ着かねえのか?」
「……そろそろ見えてくるはずだ」

 さらに飛ぶこと数分、「もしかして、あそこか?」とシノが前方を指差した。
 少し先に、木々のないぽっかり開けたところがあるのが見てとれる。さらに近づくと、わずかながらに立ち並ぶ家の屋根も見えた。どの屋根も真っ白で──村の風習なのだろうか──陽射しを反射してよく目立つ。
 村にも周囲の森にも一見して特に変わったところはないように思えたが、その上空に差し掛かって、それが思い違いであることに気がついた。
 木々の上のほうはここまで見てきた森と同じ深緑でも、下のほうは粉砂糖をまぶしたかのように薄っすら白い。特に下草などは真っ白で、元の色がわからないほどだ。──なるほど、これは確かに霜が降りているように見える。
 白い屋根だと思ったのも、近くで見てみればすべて『霜』だとわかった。地表面と比べると霜の量は少なく、淡く本来の色が透けている。家ごとに違う色だ。
 風習ではなかったらしい、とベリルは少しだけがっかりした。



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