深緑覆う氷霜のライゼ 04

「森のほうに降りるぞ。依頼人に会う前に、少し様子を見ておきたい」

 ファウストが言い、一行は村の手前の森の中に降り立った。鬱蒼とした森は、生い茂る葉が陽射しを遮るせいか、あるいはこの霜のようなもののせいか、上空よりも空気がひんやりしている。靴底が地面につくと、しゃり、と『霜』が小さく音を立てた。
 北の国の森とは明らかに植生が異なる。本来であれば今は霜が降りるような季節でもないし、どの植物も寒さに強い種ではないのだろう。『霜』に覆われ萎れた草花は、かすかに死の気配を漂わせている。二つの恐怖を天秤にかけた人間たちが苦悩の末に魔法使いを選んだというのも、頷ける有様だ。
 しかしそれ以上に気になるのは、ぼんやりとだが妙な気配が漂っていることだった。混沌というほどではないにしても、肌にまとわりつくような違和感がある。
 ブラッドリーはもちろん、東の年長の二人もその気配に気がついたのだろう。眉を寄せながら注意深く周囲の様子を伺い、いち早くファウストが呪文を唱えた。
 
「《サティルクナート・ムルクリード》」

 淡い光が、きょろきょろしている賢者と年少の魔法使いを柔らかく包む。

「……きみたちに守護の魔法をかけた。だが、周囲には気をつけろ。『霜』には触るなよ」
「そうだな。特に賢者さんは、気をつけたほうがいい。依頼の内容を見ただけでも、人間に害があることは確かみたいだし」

 保護者然として言い聞かせるファウストとネロの声を聞きながら、ベリルはその場に屈み込んだ。
 足元に落ちていた葉を拾い上げ、しげしげと眺めてみる。深緑(しんりょく)を覆う、透き通る白。見た目は霜同然だ。表面を指先でなぞるときんと冷たく、肌に触れた感触も霜と変わりない。それなのに指の腹にくっついたまま、まったく溶ける様子がないから、なんとも奇妙な感じがする。
 これがこんなに冷たくなければ、灰にたとえるのが一番しっくりくるだろう。しかしこれはどう見ても灰の色をしていないし、灰は凍えるほどの冷たさを齎すものではない。

「ベリルがもう触ってる。あれはいいのか?」
「……ベリルは魔力も知識も経験もあるから、いいんじゃないか」
「残念ながら、私の知識と経験は偏ってるよ」
「だったら、もう少し慎重に行動したらどうなんだ?」

 呆れたようなファウストの声を半分聞き流して、ベリルは指先を擦り合わせた。『霜』はいつまでもくっついている。
 ──それでも、これが本当に霜だとすれば。

「《ヴィアオプティムス》」

 突然呪文を唱えたベリルを、東の魔法使いたちはじっと見守っていた。しかし、何も起こらない。
 ベリルはわずかに首を捻って、もう一度呪文を呟いた。ほんの一瞬、指先にろうそくほどの火が灯る。シュッと音を鳴らしたのは『霜』のほうか火のほうか、どちらも瞬く間に消えていった。あとには何も残っていない。霜が溶けたときのように、水滴が指先を濡らすわけでもない。
 この『霜』とよく似たもので、脳裏に浮かんだものが一つあった。ただ、それをすぐさま口にするのは躊躇われる。
 何せ、こんなところにあるはずのないものだ。それに自分の知識と経験は偏っている。自分が知らないだけで、ほかにも似たようなものが存在するのかもしれない。
 無意識にブラッドリーの様子を伺えば、ブラッドリーは木の幹についた『霜』を眺めているところだった。凛々しい眉がわずかにひそめられ、険しい表情を作っている。
 沈黙したベリルをシノが怪訝な顔で見つめる。
 賢者が「そういえば」と口を開いた。

「霜なら氷、氷ならベリルさんの得意分野ってスノウが言ってましたよね」

「確かに」とヒースクリフが頷く。

「じゃあ、つまり、知識が偏ってるっていうのは……」
「氷の専門家ってことか?」

 ベリルは肩をすくめた。物は言いようである。

「扱い慣れてるっていうだけ」
「あ、そっか。ベリルさんは雪像や氷像をよく作るって……」

「ただ作るだけじゃねえぞ」とブラッドリーが口を挟む。

「谷底の町には雪像も氷像もそこら中にあるが、ありゃ全部ベリルの目みてえなもんだからな」
「……なるほど、記憶を読み取る魔法か」

 ファウストが顎に手を当てて言った。
「そうだ」と答えたのもまたブラッドリーで、自分のことでもないのになぜか少し得意げにしている。

「雪や氷にも記憶があるんですか?」

 賢者に尋ねられ、ベリルは頷いた。

「命はなくとも、そこに存在している以上は何かを見ている。物と同じようにね。私はそれを読み取る魔法が……まぁ、人より得意で……、だからスノウ様もああ言ったんだと思うけど……」
「なんだ。歯切れが悪いな」
「たとえば自分が手がけた氷像と自然のままの氷塊じゃ、後者は格段に精度が落ちる。私の氷像には、形を調えていく過程で私の魔力がこもるから──」
「その分、記憶も読み取りやすくなるというわけか」
「そう。それから、霜がいくら氷の結晶だといっても、氷塊と比べると少し読み取りにくい」
「……つまり、この『霜』が本当に霜でも、読み取れるものはたかが知れていると」
「その通り。さて、ここまでが前提ね。あとの判断はどうぞ好きにして。私の結論としては、これは霜じゃない。よく似た、まったく別の物質だと思う」

 ファウストのサングラス越しの目がすっと細くなる。眉を寄せたその表情は、ベリルの言い分を疑っているというよりは、真剣に考えこんでいるがゆえのもののようだった。

「根拠は」
「何一つ読み取れなかったから」
「……読み逃した可能性はないんだな?」
「ない。でも、それを信じるかどうかは自分たちで決めてよ」
「勿論そうする。だが、その前にもう一つ訊いておきたい。きみには何か、心当たりがあるんじゃないのか?」
「……あるにはある。でも、まだ話せる段階じゃない」

「何をもったいぶってんだ」とブラッドリーがベリルの肩に腕を乗せた。その重みに眉をひそめる前に、耳に吐息がかかる。

「言えって。安心しな、俺様も同意見だからよ」
「……いい加減なこと言わないでくれる」
「いい加減じゃねえっつの。この白いの全部、アレだろ?」
「そうだと思うけど……」
「なら、どうして濁してんだ」
「不確かな情報は雑音でしょう。……この時代、しかも東の国のこんな森の中で、本当に有り得ると思う?」
「今更何言ってんだ。〈大いなる厄災〉の影響なら、有り得る。谷底の町でもそうだったじゃねえか」
「あれは……あの土地で死んだ〈大喰らい〉が蘇ってあの町に現れるのは、まだ筋が通ってる。でもこれは──」

 ベリルが反論しようとしたところで、咳払いが聞こえた。言葉を切ってファウストに向き直ると、ファウストは腕を組んで眉をひそめている。

「きみたちが今ここで僕たちと意見を共有するつもりがないなら、村へ入って情報を集めたいんだが」
「うん、それでいいよ。情報が増えれば、私も話せることが増えるかもしれない」

 ブラッドリーとファウストが、それぞれ溜息をついた。


* * *


 木陰の村は上空から見るよりも真っ白だった。道も草地もささやかな畑も、すべてが白い。溶けない『霜』が幾層にも重なるせいだろう。ここまで白いと、少し見ただけでは雪が積もっているのと大差がない。
 やわらかな陽の光が降り注ぎ、白銀が控えめにきらめく。見た目には美しいが、その景色を楽しんでいる者は一人もいなかった。町全体が陰鬱として、人の話し声も聞こえてこない。
 家の窓から様子を伺う顔が見え隠れすることに気がついて、ベリルは少しだけ谷底の町を思い出した。あの町の住民たちは、今頃どうしているだろう。
 郷愁にもなりきれない曖昧な気分のまま、ベリルはファウストと賢者の後ろをついて歩いた。向かうは今回の依頼人──この村の長の家である。他の魔法使いたちは、住民への聞き込みや土地の調査をするため別行動だ。
 依頼に書かれてあったとおりの家のドアをノックすると、腰の曲がった老爺が出迎えた。神経質そうな顔に疲れを滲ませながらも、村長は丁寧な態度で三人を家の中へ招き入れお茶の用意に取りかかった。この村の中ではおそらく一番大きな家だが、ほかに人の気配はない。一人暮らしのようだ。
 湯気のたつティーカップを前に自己紹介を手短に済ませ、依頼の内容を確認する。概ね、事前に伝えられていたとおりの内容だった。
 消えない霜。人々を蝕む凍え。不気味な音と、奇妙な影。

「その『不気味な音』や『奇妙な影』というのは、具体的にどのようなものなんだ」

 ファウストが問いかけると、村長は言葉を探す素振りをした。

「なんと言ったものか……無数の鈴を同時に鳴らしたような、甲高いしゃらしゃらという音と言えば、伝わりますかな。その音がするとき、足元にうっすらと影が落ちるのですよ。ところが、不審に思って辺りを見回しても……」
「何もいない?」
「ええ、ええ……その通りです。何も見当たらんのです。やがて影はざわざわ動いて、どこかへ消えていってしまう」
「それは……確かに奇妙というか、なんだか不気味ですね」

 表情を曇らせた賢者が頷く。
「わかっていただけますか」と村長はほっと息をついた。

「立て続けに不気味な出来事が起こって、それだけでも恐ろしいというのに……寒さに苦しむ者も増える一方です。どんなに温めてやっても、寒い、寒いと……。わしにはもう、魔法使いを頼ることしか、思いつきませんでした」

 相当思い悩んだ末の決断だったのだろう。東の国には、魔法使いへの偏見が今でも根強く残っていると聞く。

「反対する者も多かったでしょう」

 ベリルが言うと、村長は苦々しい顔で頷いた。
 村長がどれほど苦悩しようと、その苦しさを周囲が理解してくれるとは限らない。この狭い村で信頼を失えば、彼は身の置き場をなくすことになる。それでもこの村長は、己の保身よりも村民の安全を選ぼうとしたわけだ。

「魔法使いは、恐ろしいばかりの存在ではない……孫が生まれたとき、わしはそう気づけたのですよ。だからこそ、あなた方を頼ろうとも思えた」
「もしかして、お孫さんは魔法使いなんですか?」
「村の中に魔法使いの気配は感じなかったが……」
「昨年、家族で村を出ましてな。まだ幼いあの子にこの村での暮らしはひどく窮屈でしょうし、もしも魔法使いであることが皆に知られれば、きっとつらい目に遭う。そうなる前にと、わしから勧めまして」
「……今この村にその子がいたら、濡れ衣を着せられていたかもね」
「ええ、違いありません。ですから、その点については正直ホッとしとります」

 言葉通り、村長はほんのわずか表情をゆるめた。先ほどよりも優しげな印象になり、すっかり孫を可愛がる好々爺の顔だ。
 しかしその表情は長くは続かず、あっという間に現況を憂う表情へと戻る。

「実は、寒さを訴えている者は、比較的子どもに多いのです。特に背丈の小さな幼い子でして、もしあの子がいたら、あの子も──」
「小さな子どもに多い?」
「ええ、はい……おそらく、好奇心から触れてしまったのだろうと思いますが」
「大人で同じ症状を訴えている人は? 特に、『肺が痛む』と言っている人──小柄な人が多かったりする?」
「そうですが……なぜ、お分かりで?」
「いや……少し思い当たることがあってね」

 ベリルはそれだけ言って、考え込んだ。脳裏をよぎるのは森で思い浮かべたものと同じだ。
 まだ確証を得られたわけではない。
 今頃土地の調査をしているはずのブラッドリーが、決定的な何かを見つけていてくれるといいのだが──。



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