温もりに触れる

 魔法舎のそばには森がある。訓練や鍛錬のために訪れる者もいれば散歩やティータイムを楽しむ者もおり、何かと人の出入りは多いが、だからといって騒がしいというわけでもない。青葉が風にそよぐ音が心地良く響くような、静かな森だ。生えている植物も棲みついている生き物も無害なものが多いから、森に漂う空気や精霊の気配も気が抜けるほど穏やかなものである。
 北の国では──谷底の町の近隣ではお目にかかれないような森に、はじめの頃はかえってそわそわと落ち着かない気分になったベリルも、今では木にもたれてじっとしているだけで、うつらうつらしてしまう。温かな木漏れ日の下、柔らかい風が優しく頬を撫でるだけのことが、魔法のように眠気を誘うのだと数百年ぶりに実感する日々だ。
 タイミングさえ見誤らなければ、静かで人気がないのも良い。いつも他の魔法使いの気配がする魔法舎とはえらい違いである。
 ベリルは常々、ブラッドリーもミスラもこんな環境でよく生活しているものだなと感心してしまうのだが、ミスラほど強ければ逆に平気なのかもしれなかった。いくら二十一人の魔法使いがいても、その中でミスラを石にできる者などオズくらいだろうし、そのオズはミスラに対してあまり関心がないように見える。そもそも、何かに気を遣ったり警戒したりするミスラというのも想像がつかない。
 ブラッドリーのほうは、盗賊団を率いていたことで大勢での生活に慣れているとか、そんなところだろうか。もっともブラッドリーなら、どんな環境であってもそれなりに順応して生きていけそうだけれど。



 すっかり定位置となった木の下でうとうとしていたベリルは、不意に腰のあたりに温もりを感じて瞼を持ち上げた。
 ──白い、毛玉がいる。
 毛玉には黒い顔があって、頭に角がついていた。眠気が覚めきらないせいか、なかなか毛玉の正体がわからない。再びくっつこうとする瞼を無理矢理開きながら、ベリルは毛玉をわし掴んだ。

「メェ!」
「あぁ、羊か……ごめんごめん……」

 このぬいぐるみのように小さな羊は、レノックスが飼っている羊だろう。ベリルは欠伸をしながら羊の背なのか腹なのかわからないふわふわを撫で、大きく伸びをした。
 青いにおいがする新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、ようやく頭がすっきりしてくる。あたりに魔法使いの気配はない。ぐるりと見渡してみてもレノックスの姿は見当たらず、ベリルは首を傾げて羊を見下ろした。

「……散歩? 迷子?」
「メェ」

 返事でもするかのように羊が鳴く。ベリルは思わず苦笑した。なんとなく問いかけてしまったものの、羊の言葉がわかるわけではない。
 羊は続けて、先ほどよりも間伸びした鳴き声をあげたが、やはり意味がわからないものはわからなかった。どうしたものか少し考えてから、羊を膝に抱えあげる。
 散歩にせよ迷子にせよレノックスなら探しに来るだろうし、それならどちらであっても同じことだ。
 ふわふわの毛に指が埋もれるのがなんだか面白くて、そうやって遊んでいると、やがてこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。

「ほら、おまえのご主人様が迎えに来たよ」

 膝から下ろしてやると、羊はまた「メェ!」と鳴き声を上げた。その声が聞こえたのだろう、足音は駆け足に変わり、程なくしてレノックスが姿を見せる。
 レノックスは羊とベリルを視界におさめるなり、わずかに目を見開いた。

「ベリルが保護してくれたのか」
「別に。でも、見つけたのが私でよかったね。ミスラやブラッドリーだったら、食べられてたんじゃない」
「そんなことは……、ない、とも言いきれないかもしれない。ありがとう」

 なかなか歩き出さない羊を持ち上げてレノックスに差し出すと、屈んで受け取ったレノックスはいつも肩に下げている鞄の中に羊を仕舞い込んだ。慣れたように、それでいて少しも丁寧さが損なわれていない手つきからは、彼の人柄がうかがえる。

「逃げたの?」
「昼前に、ミスラとオーエンが喧嘩していただろう。あのとき、大きな音に驚いた羊たちが何匹か駆け出してしまって……。こいつが、最後の一匹だったんだ」

 鞄からひょっこり顔を出した羊をレノックスが撫でてやる。昼前にはすでに森にいたベリルはその騒ぎを知らなかったが、知ったふうな顔をして聞いていた。
 撫でられてご機嫌な羊は、レノックスの手のひらに顔をすり寄せている。幼い頃に見た羊もこんなに人懐こかっただろうか、と眺めていると、レノックスはベリルの傍らに膝をついた。

「撫でるか?」
「え、いい。あんまり触ると、溶けそう」
「……ベリルが?」
「私が溶けるわけない。羊のほう」
「……普通、羊も溶けない。昔作ってもらった氷の鳥とは違って、こいつは生身だし……」
「…………」
「……中には、生身でも溶ける羊も、いるのかもしれないが」
「……変に気を遣わなくていいから」

 溜息をついたベリルの隣にレノックスが腰を下ろす。鞄から這い出てきた羊を腕に抱いて、レノックスは「あの谷底に、羊は……いなさそうだな」としみじみ言った。

「いないね。猫も犬も馬も、本物は一匹もいない」
「本物は」
「そう。雪や氷でできたのならそこそこいるんだけど」

 あの谷には野生生物がほとんどいないのだ。時折熊や狼が出ることはあるものの、巣穴があるわけではなく、そう頻繁に姿を見かけるわけでもない。
 生き物の餌となるようなものが少ないことも一つの理由だろうが、最たる理由は、〈大喰らい〉がいたことだろう。魔力を持たない野生生物が本能的に魔法生物を避けるというのは、珍しいことでもない。結果としてあの谷底は、生きた動物よりもベリルが増やした雪や氷の動物のほうが多い土地となっている。
 そんなところに数百年篭っていれば、生身の動物と触れ合う機会はまずなかった。それこそ生きている動物は温かく、長く触れていても溶けないことも、うっかり忘れてしまうくらいには。
 ここにいるのがブラッドリーだったら散々笑われていたところだろうが、レノックスは笑わなかった。真面目な顔を崩すことなく、「ベリルが作ったものなら、すべて本物と遜色ない見た目なんだろう」と頷いている。

「まあね」
「昔作ってもらったあの鳥も、本当に見事だった。溶けてしまったとき、心から残念に思ったよ」

 そう言われて悪い気はしない。ベリルはついゆるんでしまった口元を引き締めながら、「あんな特別待遇、もうしないよ」と返事をした。

「まぁ、わざわざ北の国まで来る理由も、もうなくなったかな」
「そうだな……。任務で北へ行くことはあるだろうが、谷底の町へ人を探しに行くことは、もうないと思う」
「それは良かった」

 本心からそう言い、「探しに来られても困る」と続けようとしてすぐに思い直した。案外、困らないかもしれない。
 今の住民たちはほとんどが谷底の町の生まれだ。かつての住民が共通して抱いていた『隠れている』という認識は、とうに薄れている。何より彼らはベリルの保護を必要としていないのだから、ベリルがあれやこれやと気を回してやる必要もないのだ。

「おっと」

 レノックスの腕の中から抜け出した羊が、ベリルの膝の上に転がり落ちるようにしてやって来る。受け止めれば、手のひらに柔らかさと温かさが伝わってきた。
 谷底の町にたくさんいる動く氷像は、どれだけ本物同然に見えたとしても触れれば硬く冷たい。やはり氷は氷でしかなかったのだと、生きた羊の感触を確かめながら思う。

「……そういえば、ベリルはここで何をしていたんだ」
「何もしてない」

 しいて言えば寝ていたが、わざわざ言うほどのことでもないだろう。
 ぱちぱちと瞬きをしたレノックスが続けて口を開きかけたとき、どこからともなく豪快なくしゃみが聞こえた。羊の小さな耳がぴくりと動く。

「あークソ……」

 間を置かずに聞こえたのは耳慣れた悪態だ。不機嫌そうなブラッドリーが首をかきながら現れ、レノックスとベリルに気がつくと「あ?」と怪訝な顔をした。辺りを見回し、合点がいったような表情に変わり、それからまた怪訝そうな表情に戻る。

「引きこもり魔女と羊飼いが二人で何してんだ」
「何もしてないよ。ブラッドリーこそ何してんの?」
「何って……なんでもねえ」
「ふうん?」
「なんだよ」

 つい先程まで、この近くにブラッドリーの魔力は感じなかった。魔力が弱かったり本人が魔法使いであることを隠そうとしていたりするならともかく、そのどちらにも当てはまらないブラッドリーの魔力を見逃すなんて、あるはずもない。
 つまりブラッドリーは突然この森へ現れたことになるわけだが、不思議なことに、魔法を使った気配すらベリルは感じ取れなかった。空間移動魔法は数多ある魔法の中でもとりわけ高度な魔法であり、並々ならぬ魔力を必要とするにもかかわらずだ。
 そもそも、ブラッドリーがそんな魔法を習得していた覚えがない。ベリルの知らない間に習得したのだとしても、近くで使われたならやはり気がつくのが普通であって、なんの気配も感じないというのはおかしな話だ。
 思いあたるのは、あの妙なくしゃみのことだった。初めて魔法舎に連れて来られた日から、ずっとおかしいとは思っていた。くしゃみをするたび、場所が変わる。しかしおそらく、行き先は選べない。
 そんな魔法も呪いも体質も聞いたことがなかったが、あのときブラッドリーは明らかにくしゃみを利用して移動していた。そして、状況から察するに、きっと今もそうなのだろう。──いったいどういう理屈なのか、果たしてここで訊いていいものか。
 眉をひそめるベリルの膝の上で羊が鳴く。レノックスはブラッドリーの登場をほとんど気にした様子もなく、「俺は、逃げた羊を追って。ベリルが保護してくれていたんだ」と普段通りの口調で言った。ベリルが流した先の問いかけに、自分の答えを述べたらしい。律儀なことだ。

「保護、ねぇ。食う気だったんじゃねえの?」
「私はあんたやミスラと違って、腹にたまればなんでもいいってわけじゃない」
「そりゃミスラだけだ、俺まで一緒にすんじゃねえよ」
「似たようなもんじゃないの?」
「全然ちげえ。ミスラの野郎、消し炭なんか食うし、わざわざリクエストまでするんだぜ?」
「手軽でいいじゃん」

 決まりきったメニューしか作れないベリルからすれば、凝ったものをリクエストされるよりずっと楽でいい。

「何も考えずに作れるし、失敗しないし」

 と続けると、ブラッドリーは信じられないものを見る目でベリルを見た。

「ネロは葛藤してたぞ」
「料理人と同じ葛藤を求められても……。どうせミスラのやつ、消し炭でも鹿のソテーでも同じ反応するんだもの。それなら、消し炭のほうが断然楽」
「……おまえ、ミスラを餌付けしてんのか」
「餌付けっていうか……あいつ時々、『これで何か作ってくださいよ』って、どう見ても食用じゃなさそうなものを抱えて押しかけて来るんだよ」

 豊かな土地ではないから、普通の食材を消し炭にするとなるともったいないが、ミスラの持ち込み食材ならばまぁいいかという気持ちにもなる。……ほかの調理方法も思いつかないことだし。
 ブラッドリーは「だからって消し炭はねえよ。おまえはちゃんと美味いもん作れるだろ」とぼやいていたが、やがて思い直したように、

「でも食うのがあのミスラだと思うと、美味いもん出すのももったいねえな。やっぱ消し炭で十分か……」

 ベリルが肩をすくめたところで、レノックスは「二人は仲が良いな」と口にした。少しわかりにくいが、微笑んでいるように見える。いったい何が面白かったのだろう。きょとんとしたベリルをよそに、ブラッドリーはにやりと笑った。

「まあな」

 機嫌良さそうに細められたワインレッドを見上げる。
 表情豊かで感情がわかりやすいのは、この男の好ましいところのひとつかもしれない。そんなことを考えながら、肩へ伸びてきた手を軽く押しやった。

「別に、普通でしょ」
「照れんなって」
「あんたには照れてるように見えるんだ」
「ああ、見えるね」
「ほんとに? 牢屋にいる間に随分目が悪くなったんだね……」
「なってねえよ。そのむかつく顔やめろ」
「生まれつきの顔にケチつけないでくれる?」
「表情の話だっつーの」

 一度引っ込んでいった手が頬をつまむ。ベリルは膝の上にいた羊を持ち上げて、ブラッドリーの顔に押しつけた。
 ……そこに、ひと匙の好奇心と悪戯心があったことは否定しない。
 
「っ、何すん──はっ……」

 顔面で羊を受け止めたブラッドリーはぎょっとしたように目を見開いて羊を押しのけたが、くしゃみは止められなかった。
 静かな森に大きなくしゃみが響き渡る──その直前、ベリルの手首を武骨な手が掴む。
 レノックスが何か声を上げたような気がしたが、聞き取ることはできなかった。

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