温もりに触れる 02

 目を閉じたつもりはなかったし、瞬きさえしなかったはずなのに、一瞬にして景色が様変わりしていた。
 今や目の前に広がるのは森の緑ではなく、透き通る水が空に染められた青だ。

「てめえ、何しやがる!」
「ちょっとした出来心で」
「またシケたところに飛ばされちまったじゃねえか」
「あれって海? 昔見たのより狭い気がする」
「話聞けよ! ったく……、ありゃ湖だ」
「凍ってない」
「……そりゃそうさ、北の国じゃねえんだから」

 ベリルの腕の中で羊が小さく鳴いた。その鳴き声で、連れてきてしまったことにようやく気がつく。
 この奇妙な瞬間移動はある意味では目論見通りだったが、羊まで連れて来ることになってしまったのは良くなかったかもしれない。レノックスに悪いことをした、と頭の片隅で思うものの、視線は目の前の湖に釘付けだった。
 厚氷どころか薄氷にも覆われておらず、鈍色の空ではなく蒼天を映す湖。これまでの暮らしでは目にする機会のなかった風景。
 はじめは腹を立てている様子だったブラッドリーは、やがて腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなったのか、諦めたように溜息をついてベリルの隣にどかりと腰を下ろした。胡座をかいて、膝の上で頬杖をつく。

「狙ってやっただろ」
「まぁ……多少?」

 くしゃみをすると別の場所へ飛ばされる……そんな奇妙な現象をあらためてこの目で確かめてみたかった、というのは確かに動機の一つではある。ついでに『遠出ができたらラッキー』とも思っていたが、そちらはあえて言葉にはしなかった。
 ベリルは羊を撫でながら、陽射しの煌めく湖を見つめた。北の国にも湖はあるものの、見覚えのある湖はこれほど鮮やかな色をしていない。水面はもっと寒々しい、くすんだ青色か曇天の色だし、湖を取り囲むものは、冷たい薄灰色の山脈と決まっている。
 しかし、目の前の湖は違うのだ。青い水面に影を落とす山脈からは、瑞々しい命の気配がする。

「……それで? 満足したか?」
「んー……」
「どっちだよ」
「……これを見れたことには、満足してる」
「そうか」

 雪と氷は好きだ。だから、それらがかたち作る北の国の風景も好きだし、贔屓目でなくとも美しいことを知っている。
 それでも、雪に覆われた国では見られないこの風景は、十分すぎるほどベリルの目を奪った。どこか懐かしさを覚えるのは、生まれ故郷にあっただろう豊かな緑が、心のどこかに刻まれているからなのかもしれない。
 ほう、と溜息をついてゆっくり瞬きをする。瞼の裏にもこの風景が焼きついているような気がした。
 隣のブラッドリーを見ると、ブラッドリーはベリルのことを見ていた。くすぐったくなる眼差しが、自分に向けられている。ベリルは思わず息を呑み、取り繕うように眉をひそめた。

「何」
「ガキみてえだなと思って」
「私がガキならあんたもガキじゃん……」
「そういうこと言ってっとますますガキみてえだぞ」
「……あっそ。じゃあついでに訊くけど──」
「いや、何が『ついで』なんだよ」
「子どもはなんでも訊く生き物なの」
「開き直んのかよ」
「うん。それで、あんたのくしゃみ、何? どうしていつも『飛ばされる』わけ?」
「あー……やっぱり気になるよなあ」

 正直なところ、答えはさほど期待していなかった。ベリルに尋ねる自由があるなら、ブラッドリーには答えない自由がある。
 笑ったブラッドリーが言葉を切ったので、ベリルは再び湖に目をやった。日が傾き始めたことで、水面はいっそう強く煌めいている。

「おまえはどうしてだと思う」
「誰かに呪われたとか」
「いや…………まぁ、そんなもんだ」
「えっ、本当に? ……フィガロ? 双子?」
「胸糞悪い二択出してくんな」
「でも、あんたを呪える相手なんて限られてるでしょ」
「そりゃあな? けど今回は、フィガロでも双子でもねえよ。……ミスラやオーエンでもねえ」
「じゃあオズ……は、ないな。あの人が考えそうな呪いじゃないし」

 しかしそれなら、いったい誰がブラッドリーを呪えるというのだろう。
 見たところ、ブラッドリーはこの『呪い』に不満がありそうである。にもかかわらず、解呪していない。──おそらく、できないのだ。
 一見して『呪われている』とわからない点といい、相当強い力を持つ者の仕業に違いないのに、オズもミスラも違うという。その二人のほかに同じだけ強い者がいるなら、いくらベリルが世間知らずでも名前くらい聞いたことがあるはずで──記憶の中に手がかりがないか考えてみるものの、誰一人として思い当たらない。
 強い魔力があり、『くしゃみをすると瞬間移動する』という厄介かつユニークな呪いを思いつきそうな者。……西の魔法使いだろうか?
 考え込むベリルに、ブラッドリーは笑った。

「おまえの手に負える相手じゃねえことは確かだな」
「……事実だろうけど、腹立つ」
「おまえが弱いって言ってるわけじゃねえぞ」
「わかってる」

 会話が途切れる。沈黙を埋めるように、二人の間を風が吹き抜けていった。
 少し湿った緑の匂いがして、水面にはさざなみが立つ。

「……不自由じゃない?」

 ややあってぽつりと言うと、返ってきたのは思いの外、あっさりした声だった。「どこに出るかわかんねえところはな」

「だが、良いこともある」
「良いこと」
「双子の監視を振り切れる。勝手に魔法舎を抜け出せばうるせえが、くしゃみで飛ばされたとなりゃ、不可抗力だからな」

 小言が少なくて済む、と続けたブラッドリーの表情はどこか、思いついた悪戯をこっそり耳打ちする子どものようだ。

「つまらねえ任務だの面倒くせえ訓練だの、くしゃみした設定ですっぽかしたこともある」
「くしゃみした設定……」
「じじいどもには言うなよ」
「……口止め料は?」
「あー、そうだな……。おまえ、スイートポテト好きだろ」
「うん」
「じゃあそれだ。ネロに作らせる」
「それ、ネロからしたら凄いとばっちりじゃん」

「消し炭よりよっぽどマシな注文だろーが」とブラッドリーは片眉を上げる。いつもは夜空と月光を混ぜ合わせたような色をしている髪が、今ばかりはほのかなオレンジに美しく染まっていた。夕陽の色だ。
 もう、日が暮れるのだ。ベリルは何気なく湖を見やり、再び目を奪われた。
 沈みゆく日の光が、空も水面も、山並みまでもを己の色に染め上げている。涼しげな色でゆらめいていた水面は、今や燃えるような色へと変わっていた。太陽が二つあるのかと思うほど強く眩しい煌めきから、目を逸らせない。
 隣のブラッドリーが吐息だけで笑う気配がする。また『ガキみてえ』と言われるだろうか。
 けれど、目の前の風景を見ていると、言われてもいいかなと思った。仮に、目の前の景色に夢中になることが子どもの特権なのだとしたら、ベリルはあと二百年くらいは子どもでいい。
 こうしている間にも、太陽は山の向こうへ沈んでいく。眩い光もそれに合わせて吸い込まれるように消えていき、空は少しずつ、夜へと塗り変えられていく。
 不意に、いつかチレッタが湖の話をしていたことを思い出した。あれは、いつのことだったろう。
 目の前に広がる湖は、チレッタが語ったものとは少し違っているように思う。だからきっとこことは別の場所なのだろうが、これとよく似た──あるいはもっと美しい景色を彼女も見ていたのだと思うと、なぜか胸の奥がきゅっとした。
 その湖の名前はなんだったか。彼女の唇が紡いだ音を、記憶の底から引っ張り出す。
 ──そうだ、確か。

「……ティコ湖って、南の国にあるんだった?」
「ん? あぁ、南の国の辺境だな。それがどうした?」
「場所、わかる?」
「わかるが……行ってみたいって話なら、南の兄ちゃんに頼んでみたらいいんじゃねえか。喜んで案内してくれんだろ」
「ルチルね。確かにあの子は引き受けてくれそうだけど、私、ブラッドリーがいいな」

 真っ直ぐブラッドリーを見てそう言うと、ブラッドリーは目を丸くしてベリルを見つめ返した。その顔はいつもより少しだけ、幼く見える。
 ベリルは小さく笑って、「それが口止め料でいい」と続けた。

「何も今日明日行きたいってわけじゃないし、いつでもいいから。どう?」
「どうって。要は俺様の時間を寄越せってことだろ。そりゃ随分──」
「吹っ掛けてるつもりはないよ。妥当でしょ。安くないのは、お互い様」
「……ははっ。違いねえ」

 夜の帳が下りてくる中でも、ワインレッドの瞳が細められたのがわかった。

「しかたねえな。じゃあ、明後日にするか?」
「明後日? 北の魔法使いたちで任務に行くんだって双子に聞いたけど」
「だからだよ」
「サボるんだ」

 恩赦はいいのかと問う前に、ブラッドリーが「依頼の内容は聞いたか?」とベリルに尋ねる。ベリルは首を横に振った。

「北の魔法使いたち宛の依頼なら、魔物討伐とかじゃないの」
「いや。薬草探しだとよ」
「……名高い北の魔法使いを五人も揃えて?」
「な! そう思うだろ? しかも、大した薬草じゃない。北の国にしか生えねえから人間が手に入れにくいのは確かだが、ほかの薬草でも代用がきくんだよ」

 代わりとなる薬草は東の国の北部でよく見つかるもので、中央の国の市場でもたまに売られていることがあるという。それに加えて、くだんの薬草は用途が限られていることもあり、その珍しさや採集の難しさのわりにさほど高値がつかない。
 とはいえ、希少な種であることには変わりなく、資源の乏しい北の国においては貴重な物資だ。今回の依頼は、そんな貴重な薬草の群生地付近に怪しい霧が立ち込めているので調査してほしい、という主旨のものらしい。
「やってられっか」とブラッドリーはぼやいた。

「どうせどっちに行っても退屈なら、俺も、おまえがいいよ。うるせえじじいどもに指図されるより、俺様のことが好きで好きでたまらない嬢ちゃんに付き合うほうがよっぽどいい」
「言い方……。やっぱりさっきの、ナシにしようかな」
「は? なんでだよ」

 伸びてきたブラッドリーの手が、たわむれにベリルの髪をかき回した。
 空はもうすっかり暮れ落ちて、水面に月の光が降り注いでいる。暗い水が白銀の光をきらきらと跳ね返し、まるで宝石が敷きつめられているかのようだ。
 月光はブラッドリーの髪にも降り注ぐ。仄白く浮かび上がる毛先が、夜風に揺れた。

「ま、いつでもいいぜ。とにかく取引は成立だ、ベリル。じじいどもに言うんじゃねえぞ」
「はいはい」
「そろそろ腹も減ってきたし、帰るか」
「今から夕食に間に合う?」
「こっから魔法舎までは、まぁまぁ近い」
「あぁ、そうなんだ」
「間に合わなけりゃ間に合わないで、その羊を──」
「却下」

 知らぬ間に膝の上で眠っていた羊を落とさないように左腕に抱き、ベリルは立ち上がる。反対の手で服についた草や土を払い、箒を手にするまで、ブラッドリーは隣で待っていた。
 ──退屈が嫌いなら、日が暮れる前にさっさとひとりで帰ったって良かったのに。
 ちらりとそう思ったが、言葉にすることなく飲み込んだ。
 きっと、ブラッドリーなりに何か意図があってのことなのだろうし──少なくともベリルにとっては、悪くない時間だったので。

220504
(訓練の舞台になる名もなき湖を想定しています)
- ナノ -