極彩色は掴めない



※『ミスラの評判』に着想を得た暗めのお話
※なんでも許せる方向け
※1ページ目でもう充分と思われた場合、次ページは読まなくても問題ありません



 私が初めてその男を見たのは、隣の家の旦那さんが亡くなったときだった。
 亡くなった理由は病気だったか事故だったか、幼い頃のことだからはっきりとしない。ただ、亡骸を引き取りに来た男の赤い髪がそれまで目にしたどんなものよりも美しく、目が眩んだことをよく覚えている。男は無表情に首をかきながら、泣き崩れる奥さんを見下ろしていた。
 次にその男を見たのは、それから一年後、向かいの家の子どもが亡くなったときだ。
 亡くなったのはまだ一歳にもなっていない赤ん坊で、朝目覚めたときには既にベッドで冷たくなっていたという。決して珍しい話ではない。それは寒さが厳しいせいだと説く者もいれば、夜の間に魔法使いが魂を抜き去ってしまうからだと囁く者もいた。後者によると、魔法使いは子どもの魂が大好物なのだそうだ。真偽はともかく、大きくなる前に死んでしまう子どもはいつの世代にもいて、その年はほかに二人の子どもが死んだ。
 子どもの亡骸を引き取りに来たときも、男の顔に感情なんてものはまるでなかった。二度と目を覚まさない我が子に泣き縋る若い夫婦をひどく退屈そうに見下ろして、隠しもせずにあくびをしていた。

「もういいですか?」

 待ってください。もう少しだけ。お願い。
 そう言って縋った母親に──あの男はなんと言ったのだったか。私の記憶に間違いがなければたしか──「そんなに離れたくないなら、今、死にますか?」 そう、なんでもないことのように言った。

「あなたが死んだら、同じところに運んでやりますよ。それが、俺の仕事なので」



 男は死者の国に住んでいる。
 村で誰かが死んだら、その夜に湖畔で火を焚く決まりになっていた。そうすると、その火を見たあの男が死者の国から舟を漕いでやって来るのだ。
 男は魔法使いだった。いつ見かけても、背の高い青年の姿をしていた。
 魔法使い同士の力関係もこの村の外のことも、私はよく知らないが、相当に名の知れた恐ろしい魔法使いらしいことは察しがついていた。この近辺があの男の──ミスラの縄張りだとわかるなり、文字通りすっ飛んで逃げていく魔法使いを目にしたことがあったからだ。


 誰かが死ぬとやって来る彼は、どんなときも無表情だった。喜怒哀楽、どの感情も読み取れた試しがない。
 それでも、自分が成長するにつれ、彼がぞっとするほど美しいことに気がついた。気がついてしまった。
 すらりとした長身もはっきりとした目鼻立ちも、まるで作り物のように均整がとれている。深紅の髪は、ありったけの絵の具をかき集めてもきっと表現しきれない。瞳の色もそうだ。絵本でしか見たことのない新緑や宝石を思わせるのに、その中に時折、朝焼けのような色が煌く。私が画家や作家だったなら、あの不思議で美しい瞳をどう表現したものか、一生悩んでも答えを見つけられないだろう。
 どこまでも続く白銀の世界において、彼の色は狂おしいほど鮮やかだ。朝日よりも、厄災よりも、眩かった。本物の宝石なんて目にしたこともないが、石程度が彼のもつ色彩より美しいものだとは思えない。

 彼が村に来るときは、ほとんどの場合、村の誰かが死んだときだ。誰も死んでいなくても気まぐれにやって来ることも何度かあったが、彼の気まぐれはこの辺一帯の空がすっきりと晴れ渡ることと同じようなもので、そうそう起こることではない。
 だから、彼が来るとき、村は永訣の悲しみと魔法使いへの恐怖に暗く沈んでいる。
 ──そんな中でいつしか私ひとり、悲しみの合間に、彼の姿を一目見られる喜びをひそかに噛み締めるようになってしまったなんて。
 口が裂けても言えやしない。決して許されることではない。歪んでいる。
 頭ではそうとわかっていても、彼が来ると心が震えるのを止められなかった。彼が来た瞬間、世界が鮮やかに色づいて華やいでいく。あたかも魔法のように。けれども彼が亡骸を舟に乗せて死者の国へ帰ってしまうと、途端にその色は失われるのだ。

 ──村では有名な話だが、かつて彼に恋をした娘がいたという。その娘は彼に焦がれるあまり、湖に身を投げたそうだ。

「その話、私の叔母さんのことなのよ」

 ある日、母は声を落としてそう言った。

「あの頃の叔母さんと、今のあなた、同じ目をしてる。ねえ、お願い、馬鹿なことは考えないでね。絶対にだめよ」

 馬鹿なこと。母の言葉を舌の上で転がした。
 母が言うのなら、きっとそうなのだろう。事実、この話はもっぱら若者への戒めとして語られている。魔法使いに惑わされてはいけない。あまつさえ命を捨てるよう真似などしてはならない、と。

 けれども私にはもう、馬鹿なことだとはどうしても思えなかった。




 夜の湖畔は不気味なほど静かで、凍えるほど寒かった。ただでさえ、この辺りの寒さは厳しい。普段なら夜に外へ出ることはない。
 持ってきた薪を積んで火をつけると、わずかに寒さがマシになった。ゆらゆらと立ち昇る煙が、泣き腫らした目に痛い。
 目を擦りながら、母の死をきちんと悲しめている自分に安堵した。母もきっと、数ヶ月前に病で倒れてから今日眠るように息を引き取るまで、ずっと気がかりだったに違いない。私の中で、万が一、母の死を悼む気持ちよりも彼が来る喜びが勝ってしまったら、と。
 ずっと母との二人暮らしだった。明日から──今日からは一人になる。悲しい。つらい。寂しい。これからの生活が不安だし、怖い。
 はなをすすり、薪をもう一本くべる。
 彼を呼ぶための火が大きくなって、ひっそりとした湖畔に火の爆ぜる音が響いた。風の穏やかな今日は水面もしんと凪いでいる。村の人間はみな家の中に入っていることもあって、まるで世界に私だけが取り残されているかのようだ。
 湖畔で待たなければならないという決まりはないのに、なんとなくその場から動くことができず、じっとしゃがみこんでいると、母の安らかな顔を思い出した。私が彼の訪れをひそかに喜んでいることを、母は誰にも話さずにいてくれた。そのせいで余計な心労を抱えさせ、安心させてやることもできずこんなことになってしまって、心底申し訳なく思う。
 ──けれど。
 どれくらいの間、そうして炎を見つめていただろう。
 やがて、耳がわずかな水音を拾った。ざぷん、ざぷん。規則的に繰り返される、水の動く音だ。
 私は知らず識らずのうちに息をひそめ、その音を聴いていた。音が近くにつれて、心臓がどくどくと早鐘を打つ。先程までの寒さが嘘のように、体がかっと熱くなっていく。
 今の自分がどういう感情でいるのか、自分自身にさえわからない。
 音はどんどん大きく近くなる。思い切って顔をあげたとき──私は思わず息を呑んだ。
 揺らめく湖面が、空から降りそそぐ蒼白い光を受けて冷たく煌めいている。その上で舟を漕ぐ彼も同じように蒼白い光を浴び、白い肌はいっそう白く見えた。鮮やかな赤い髪さえいつもより蒼ざめて見える。
 しかしそれは、彼の美しさを損なうものではない。月からも湖面からも静かな光で照らされた彼は、荘厳でさえあった。この世のものとは思えないほどに。

「遺体はどこですか?」

 舟を岸につけた彼は、私を見下ろしてそう言った。
 彼から直接声を掛けられるのは初めてのことで、その低い声をこれほど近くで耳にしたのも、初めてのことだ。

「私の、家に……」

 やっとのことで答えると、彼は「はぁ」と息を吐くように言った。吐いた息が一瞬白くなって、消える。
 彼も私たち人間と同じ日に焼けていない色の肌をしているのに、彼の肌は私たちと違い、少しも寒さに赤らんではいない。吐く息の白さだけが彼が生者であることを実感させた。

「面倒だな。……どれですか?」
「え?」
「あなたの家」
「ええと、あの、ここから見える、手前から二番目の家です」

 身振りを交えて答えれば、彼は気怠げに視線を動かした。感情のない瞳に月光が反射している。

「《アルシム》」

 彼が不思議な言葉を口にすると、次の瞬間には、母の亡骸がシーツごと彼の舟の上にあった。

「この人であってます?」

 一応、とでもいうように彼が尋ねる。

「あって、ます」
「なら、いいです。それでは」
「ま、待って」

 引き止めていったいどうしようというのか。自分にもわからないまま咄嗟に伸びた手は空を掻いた。

「なんです?」

 振り向いた彼はおそらく眉をひそめている。そのとき初めて、彼の感情が揺れるのを見た気がした。

「わ……私も乗せて」
「は?」

 彼の返答は短く、心底怪訝そうな声だった。今度は先ほどよりもわかりやすく、眉間にはっきりとしわが寄る。

「あなたは、生きているでしょう」

 ──その瞬間、まるで湖に突き落とされたかのように体の芯まで凍える心地がした。

 はっとしたとき、舟はもう随分遠ざかっていた。
 揺らぐ湖面が静かに煌めいている。そこに映る私が、私自身を嗤っているようだった。

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