きっといつまでも向こう側


 ぽつり、そう形容するには辺りに人が多すぎるけれども、それでも、言うだけ言って去っていってしまったアミンにその場においてけぼりを食らった私は、ぽつりとそこに取り残されたような気持ちだった。彼の気持ちを蔑ろにするつもりは毛頭ないし、其のような感情を向けてもらうのは、身に余る事だとも思っている。ただ、だからといって有り難く受け取ることができるかといえば、私にとってはそう簡単な話でもなく、どうしたって戸惑いの方がずっと大きく胸の内を占めていた。きっととんでもなく大きな誤解が生じているのだと思わずにはいられない。私は彼が思うような人間ではないのだ。
 私程ではないにしろ同じように戸惑った顔をしたシャルルカンが、頭を掻きながらこちらを見遣る。辺りにざわめきは起これども、冷やかす声が然程聞こえてこないことが救いだった。

「俺、たぶん余計なこと言ったよな」
「……否定は出来ないかな」
「だってまさかそういう意味だとは」

 思わなかったんだよ、と続いた言葉は唸り声に変わる。がしがしと銀の髪を掻き乱した後、「悪ぃことしたな」と呟くのが聞こえた。

***

 件の出来事が噂話となってシンドバッドの耳に入るのは、私が考えた以上に早かったらしい。それどころか翌々日に会ったサハルでさえ知っていたものだから驚いてしまう。何人もが例のやり取りを一部始終見聞きしていたわけだから仕方がないことだとはいえ、それにしても本当にこの小さな国では噂が広まるのが早いようだった。
 果たしてどういう経緯を辿ってそれぞれの耳まで届いたのかは、私の与り知らぬところである。けれども、どうやら概ね真実の通りに広まっているらしかった。妙ちきりんな尾ひれがつかずにすんだことを喜ぶべきなのか、それとも、ありのままが全て伝わってしまったことを恥ずかしがるべきなのか。不憫なアミンからすれば恐らく後者だろう。
 あの日から一月近くが経とうとしている今でも、未だにアミンがからかわれている場面を目にすることがある。その度に顔を真っ赤にして狼狽えるアミンの不憫さときたら、通りすがりのピスティが見かねて声をかけ助け船を出す程であった。──尤も、その実彼女も面白がっていただけなのかもしれないけれども。
 そんな可哀想なアミンと比べれば、私の周りは静かな方だったに違いない。直接からかってきたのはピスティを筆頭にヤムライハとヒナホホさん──といってもヒナホホさんがその話題に触れたのは一度きりである──くらいのもので、煩わしい視線の数々にさえ目を瞑れば、ささやかなものだった。ピスティに並んでこの手の話題を好みそうなシンドバッドはといえば、意外にも一度だけそれとなく話題に挙がったのみで済んでいる。
 けれども、懸念した程からかわれずに済んでほっと胸を撫で下ろしたのも束の間のこと、彼はからかわない代わりに、行動が変わった──ように、感じられる。私の考えすぎであれば良い。そう思うものの、それ以前よりもシンドバッドと出会す頻度が増えたように思えてならないのである。
 唐突に私の前に現れては他愛もない言葉を交わし、少しすると戻っていく。私の顔を見に来たのだと笑う時もあれば、勝手に仕事を抜け出してきたから匿ってくれないかと泣きついてくることもあるし、偶々見掛けたから声をかけてしまったのだと喜んでみせることもある。どこまでが意図的でどこからが偶然なのかは判断がつきかねた。
 考えすぎだと──ただの自意識過剰であると切り捨ててほしくて、思いきって終業後にジャーファルさんの元を訪ねてみれば、彼は否定するどころか神妙な面持ちで肯定した。

「シンが仕事を放り出してどこかへ行くのは珍しいことではありませんが、近頃は少し様子が違うんですよね」
「違う、というと」
「以前はどこかへ行くと大抵の場合そのまま暫く戻って来なくて、探しに行かなければならなかったんです。ところが最近は、自分から戻って来る。もっと言えば……貴女のところへ行って、それで満足して戻って来るみたいなんですよね。……本当に、貴女に会いに行っているだけらしく」

 まるで犬か何かのような言い様であるけれども、しかしそれが事実であるらしい。ともすれば笑ってしまいそうな言い種だというのに、今の私に笑い飛ばすことは難しかった。

「なんのつもりなんでしょう」
「私に訊かれても……」

 ジャーファルさんは苦笑をこぼし、それから思い出したように続けた。

「ヒナホホ殿は、ヤキモチみたいなものだろうと仰っていましたが」
「……アミンの件で?」
「ええ」

 ジャーファルさんははっきりと頷いてみせた。
 ヤキモチ。その言葉を静かに反芻してみれば、以前もヒナホホ殿は私にもそのような事を言っていたと思い出した。私はそれに対し、解らないと答えたはずだ。私には、解らない。それは、今になっても変わらなかった。

「シンは、貴女を大切に思っていますから」

 私の表情を正しく読み取ったジャーファルさんはそう付け加える。

「牽制しているんでしょうね。意図的か無意識かは私にもわかりませんが」
「牽制……」
「元々貴女は、シン“だけ”の妹──幼馴染みだったわけですから。……こう言うと本当に、あまりに子ども染みていますが。貴女に執着している節は確かにあります」
「……私にとっても、シンは大切なんですよ。でもやっぱり……それは、解らなくて。……そもそも、妹だとか幼馴染だとか、そういうことについて言うのであれば、それは今だってシン“だけ”です。その事実だけでは、十分ではないのですか」

 兄のような人も幼馴染と呼べる存在も、他にはいない。シンドバッドを覗いて、ただ一人だって居たことがないけれども、それでも何か不満があるというのだろうか。
 ジャーファルさんは私の問い掛けには答えず、代わりにコーヒーの入ったカップを私の目の前に置いた。いつぞやと同じものである。その黒々とした液体に映る己の表情があまりにも辛気臭かったものだから、私は思わず視線を反らした。

「……シンは、私にどう在ってほしいのでしょう」
「それはシンでなければ答えられないことです」

 ジャーファルさんは静かに答え、机の上に羊皮紙を広げた。私が数刻前に提出したばかりの植物調査報告書である。相変わらず仕事が立て込んでいるというような話は聞いているから、恐らくこれからまた仕事をするのだろう。終業の鐘はとうに鳴り終えた後だというのに働かねばならない程忙しいのであれば、私の事など構わずさっさと追い返してしまえば良いのに。私が身勝手にもそう思った事を知ってか知らずか、ややあってジャーファルさんは言葉を続けた。

180421 
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