少年がてのひらにかくした呪文


 パルテビア帝国のティソン村。決して豊かではない小さな漁村。私が住んでいるのはそんな所だった。

 エルハームという名は、父が付けてくれたものだと祖母に聞いた。物心ついたときに両親は既に亡かった。父は軍人、母は王宮仕えの者だったらしい。ではなぜ、私はこの村にいるのだろう。祖母に訊いても教えてはもらえなくて、12歳になった今も分からないままだ。祖母は昨年の秋に私を置いて逝ってしまったから、きっとこれから先も知ることは出来ないだろう。
 私はずっと祖母と二人暮らしだったのだが、祖母は長らく目が不自由で、幼い私の面倒は殆ど隣の家のエスラさんが見てくれたらしい。実際、物心ついたとき私はエスラさんの息子のシンドバッドを兄だと思っていたし、彼もまた私を妹のように扱った。一緒に駆け回って遊び、彼について歩いて仕事を覚えた。泳ぎ方もシンドバッドに教わったし、良いことも悪いことも、彼から学んだのだ。
 私はエスラさんとシンドバッドが大好きだ。血は繋がっていなくても、大切な家族だと思っている。シンドバッドの父であるバドルさんのことは殆ど覚えていないけれど、時折シンドバッドや村の人がしてくれる話からきっととても素晴らしい人だったのだと思う。大好きなエスラさんの夫で、大好きなシンドバッドの父だもの。悪い人であるはずがない。憧れない理由もない。同じく軍人であったという父の面影を勝手に重ねては、自分の父について夢想した。
 この村には私の父を知る者がいない。父が軍人であったというのも、祖母から聞かされたのみである。逆にいえば、父について知っていることはそれだけだった。出自も風貌も人柄も、何一つ知らない。
 母については、少しだけ知っている。母はこの村の出で、ある日突然、まだ乳飲み子だった私を連れ一人戻って来たのそうだ。理由は分からない。きっと王宮で“何か”を起こして、そこに居られなくなったのだ──人々はそう噂した。『きっとそうだ、なにせあのひとは奇妙な人だったから』と。
 どう奇妙だったのかはよく分からない。あまり気持ち良い話ではなかったから、深く訊くことが出来ずにいた。村の人はみんな良い人だったけれど、この話題を挙げるときに限っては意地悪で嫌な人に思えるのである。どんな人であれ私の親に違いないが、素晴らしい人だったのだと信じていたかった。それは子供として当然のことなのだと思う。
 今日もまたそんな話を聞いてしまって、胸に鉛がのしかかったような気分で家に帰った。祖母が亡くなってから一人で住んでいる家だが、それを気にしてくれてかシンドバッドが頻繁にやってくる。私も私で少し前に病で倒れたエスラさんが心配で頻繁にお隣へ行くので、もうどちらが自分の家だかはっきりしない。
 本当は今日も行くつもりでいたが、こんな気持ちでは行く気にはなれなくて、やめにした。するとシンドバッドのほうからやって来て、私の顔を見るなり心配そうに覗き込む。居たたまれなくなってあらましを話した。

「そうだな」

 一通り聞いて、彼は大きく頷いた。

「親のことを悪いように言われたら、誰だっていやな気持ちになるさ」
「そうだよね。シンもそう?」
「もちろん」
「そっか。良かった」
「大丈夫、エルはおかしくないよ。俺と同じだ」

 そう言ってぽんぽんと頭を撫でてくれる。彼の手はいつも私を安心させた。いつもなら、どんなに気持ちが塞いでいても、シンドバッドにかかればあっという間に解決してしまう。それなのに、今はあまり効果がないような気がした。
 なんとなく理由はわかる。母親が妙なら娘も妙なのだね──そんなふうに誰かが囁くのを聞いて否定したくても出来ないのは、決して私が弱虫だからではない。そういう自覚があるからだ。
 幼い頃から、私には、光る小さな鳥のようなものが見える。それはあちらこちらにいて、色んな人の周りを飛んでいる。だが、どうやらこれは他の人には見えないものらしい。祖母は私が知る限りではずっと目が不自由だったからどうだか知らないけれど、その祖母に言われたのだ。
『その鳥のことは、他の人に話してはいけない』
 普段は優しい祖母からは初めて聞く硬く厳しい声が、ひどく恐かったのを覚えている。とても恐かったから、私は言いつけ通り誰にも話していない。これを話してやはりお前はおかしいと言われるのが恐くて、シンドバッドにさえ言えなかった。

「……どうした?」

 相変わらず浮かない表情の私に気づいて、シンドバッドが困った顔をする。そんな顔はしてほしくない。だけど、言うのも恐い。

「何かあるなら話してごらん」

 シンドバッドの周りの光る鳥が白くきらきらと輝くのを、無意識に目で追った。彼の周りの鳥は、私が今まで見た中で一番綺麗で力強い。この村はもちろん街に出ても、こんなに綺麗な“鳥”を纏った人は見たことがなかった。
 普段、この不思議な鳥を気に留めないように気をつけてはいても、シンドバッドのそれに関してはとても難しい。あまりにきらきらしていて、数が多いから。
 私の目の動きに気づいたシンドバッドは、私が見ているものを見ようと顔を動かす。そこにはやはり、きらきらの鳥が数多羽ばたいていた。もしかしたらシンドバッドには見えるんじゃないか。淡い期待に反して、彼は眉尻を下げた。

「何かいるのか?」
「あ…ううん、何もいないよ!」

 慌てて首を振れば、シンドバッドは悲しそうにする。

「よく思うんだ。エルは俺に見えないものが見えている。……違う?」
「……ええと」
「エルは時々今みたいに、何かをじっと見つめてる。なんだろうと思って見てみるけど、俺にはいつも見えないんだ」
「わ、たしは、何も」

 気味悪がられたくない一心で、首を横に振った。「エルは嘘が下手だな」とシンドバッドが笑う。ああ、ばれている。どうしようもなくなって涙が出てきた。

「え、うわ、泣くなよ!」
「だ、だって…きっとシンも、気味が悪いって思ったでしょ」
「まさか! 俺は、羨ましいと思ってるよ」

 羨ましい? と彼の言葉を繰り返した。うん、と頷いたシンドバッドに、嘘をついていたり気休めを言っていたりする様子はない。「どうして」と訊くと、かえって不思議そうな顔をされた。

「俺はいろんなものを見てみたいからさ。それに、エルが何を見ているのかは分からないけど、きっと綺麗なものだってことは、エルを見てると分かる」
「……他の人に見えないものが見えてるのに、不気味だと思わないの?」
「なんでエルを不気味だと思わなきゃならないんだよ。俺に見えてるものだけが世界のすべてってわけじゃないだろ」

 そうしてシンドバッドは徐に私の両頬をつまんで引っ張った。驚いて身をひこうとしても離してくれない。それどころか、ふにふにと頬をいじって悪戯っぽく笑う。それを見ていると、なんだか悩んでいたことがどうでも良くなってしまうから不思議だ。思わずへらりと笑えば、彼はうんうんと頷いた。

「やっぱりエルは笑ってたほうがいい」

 ひょっとしたら彼は、いつか彼が聴かせてくれたおとぎ話に出てくる、魔法使いなのかもしれない。

140217 
- ナノ -