悲しみと共に抱き締めて


「馬鹿言うなよ…そんなことできるわけないだろう」

 シンドバッドはどうにか平静を装って答える。
 そこでようやくエルハームが顔を上げた。再び双眸がかち合う。涙に濡れていても真っ直ぐな瞳は、あの頃と変わっていない。
 その真っ直ぐさで、彼女はもう一度「殺して」と言った。

「私は、貴方に殺されるために、此処に来た。それが、私の運命だと信じて」
「……違う、そんなはずない」
「違わない。私は、もう、昔とは違う。取り返しのつかないことを、たくさん、してしまった」

 これまであまり口を利くこともなかったのだろうか、切れ切れに、喋りづらそうに言葉を発する彼女に、シンドバッドは何も言えなかった。昔と違うと言うのなら、自分だってそうだ。純粋な好奇心に突き動かされて生きていた頃とは、もう何もかもが違う。しかし、彼女が言っているのはそれとはまた違ったことなのだろうと思った。

「私は、もう、戻れない道を来てしまった」
「……誰だって生きてきた道は戻れないものさ」
「そう、だけど、そうじゃない。私、私は…!」
「大丈夫、大丈夫だ。だからどうか……殺してなんて悲しいことを言わないでくれ」

 そっと手を伸ばして、頬に触れる。昔はもっとふっくらとしていて柔らかかったなあと考えたら、無性に切なくなった。逃げる意志が微塵もないとわかったからだろう、いつの間にかマスルールはエルハームから手を離していて、シンドバッドはちょうど良いとばかりにエルハームを抱き込む。想像では、もっと笑顔と喜びに満ちて抱き締めるはずだったのに、現実は酷なものだ。エルハームが腕で押し退けようとするのも構わず、抱き込む腕に力を込めた。

「……シン、貴方は馬鹿なの? もし……私が本当に、貴方を殺す気なら、今頃ナイフで、心臓を一突きしてる」
「でもお前はそうしないだろ。それで充分だ」

 自分が妹のようなエルハームを殺せないように、エルハームもまた兄のような自分を殺せないのだ──シンドバッドはそう結論付けた。もともとエルハームは、小さな村に暮らす普通の娘だったのだ。善悪の判断もきちんとつくようになってから、どういう経緯か暗殺に手を染めた。エルハームの苦しみは相当だったろう。かつてくるくるとよく変わっていた表情がすっかり無くなるほどだ。──もし自分がそばにいてやれていたら、エルハームは。そう考えると、尚更腕の力が籠もった。

「……ジャーファル。エルハームが住む部屋の準備を頼む」
「部屋……部屋って貴方……まだ彼女について不審な点が無くなったわけじゃないでしょう! 充分に調べてからでないと、」
「見張りを付けておけば良いだろう。俺はこいつを信用する」
「そういう問題では……!」

 ジャーファルの懸念は正しい。シンドバッドにもそれは分かっている。しかし、どうしても譲れなかった。 昔から頑固なところのあるエルハームのことだ、まだ考えは変わっていないに違いない。どうにか考えを改めるよう諭したいシンドバッドとしては、地下牢に入れるなぞ以ての外だった。

「なあジャーファル。頼む」

 命令ではなく、懇願であった。
 王に真剣に頭を下げられてしまっては、さすがのジャーファルも折れざるを得ない。苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。
 こうなると、自分が彼女を尋問することは出来ないだろうという確信がジャーファルにはあった。彼女を最も疑っているのがジャーファルなら、いざとなれば手段を選ばないのもまたジャーファルである。それは彼女も敏感に嗅ぎ取っていることだろう。シンドバッドが殺さないといった時点で、彼女は代わりに自分を殺してくれそうな人物を探しているはずで、ジャーファルに目を付けるのは遅かれ早かれ必然だ。そんなリスクを、シンドバッドが見逃すわけがない。
 シンドバッドがこうもあっさりと彼女を信用してしまった以上、ジャーファルは自分だけは決して彼女への疑念を捨ててはならないと思っていた。アル・サーメンでないから味方なのか。いや、否だ。何も敵はアル・サーメンだけではないのである。一度油断させてから殺すのは、暗殺の常套手段といっていい。それに、本当の目的が暗殺ではなく密偵だったとしたら。彼女が依頼主の情報を吐かない以上、疑うべき点はたくさんあった。
 しかし、ジャーファルは優秀な部下だ。それら全てを押し隠して、頭を垂れる。

「ではすぐに準備させましょう。見張りの者は私が配備しても?」
「ああ、ありがとう。それと、ヤムライハは魔力制御装置を準備してくれ」
「わかりました。すぐにお持ちします」

 パタパタと駆けていくヤムライハの後ろ姿を見送って、「……というわけだ、エル」シンドバッドは腕の力を緩めてエルハームを見やった。相変わらず表情がないが、困惑しているように見えた。

「私は、そんなこと、望んでいない」
「だからといって俺は、殺して欲しいという望みも聞き入れられない」
「罪人として、裁けばいいのに」
「この国でお前がしたことは、王宮に忍び込んで俺の部屋を散らかしたことくらいだろう。あいにく、死罪には値しないな」

 シンドバッドは、本当の妹にするかのようにエルハームの頭を撫でた。わしゃわしゃと髪をかき混ぜて、目を細める。

「お前の気持ちが落ち着いてからでいい。何があったのか教えてくれ」

 その言葉にエルハームが目を伏せても、シンドバッドは頭を撫でている。ジャーファルは、この一連の騒ぎのなかで王が見せた表情を思い返して気づいた。それは近頃ではあまり見ることのなくなった、シンドリア建国以前、旅をしていたあの頃のものとよく似ていたのだ。

140217
- ナノ -