世界の呼吸はやさしい


 泣いたルトをジャーファルさんが宥めに離れていくと、市民達は再びこちらに詰め寄って口々に再度礼を述べた。一人の女性が握手を求めたのを皮切りに、幾つもの手がこちらに差し出される。私は思わず身を固くした。
 私の手は、穢い。清らかな人々に気安く触れて良い手ではないのである。

「……ごめんなさい、私の手は穢いので……」
「まあ、何をおっしゃるのです! こんなに綺麗な手をしてらっしゃるのに」
「いえ、あの、そういうことではなく、」

 私の言葉を遮るようにして、ぐいと手を掴んだ誰かがよく通る声で言った。

「私達のの命を救ってくれた手です。貴女にも色々あるのかもしれませんが、貴女がどんな身の上であっても私達にとっては尊い手なのです」

 伸ばされた腕からそろそろと目線を上げて見れば、その声によく合う凛とした顔つきの若い女性だった。私の手を握った掌は硬く豆がある。手首から上には大きな火傷の痕。彼女が決して平坦ではない道のりを来た証だった。

「貴女の手は穢くなんて、」
「ねえ」

 不意に幼い声が割って入った。人集りに紛れていて気がつかなかったのだけれども、どうやらあの時にいた子供達も来ているらしかった。その中の一人、ちらと顔を覗かせたまだあどけない顔の少年が、心なしか得意げに言った。

「ぼくもよく手がきたないってお母さんに怒られるけど、洗ったらきれいになるよ。だから、きたないなら洗えばいいんだよ」

 一瞬ぽかんとしたあと、後ろでジャーファルさんが吹き出して咽せるのが聞こえて我に返る。つられるように私も笑いが込み上げてきて、肩の力が抜けていくような気がした。毒気を抜かれるというのは、こういうことをいうのだろうか。なんだかとてもおかしくて、自然と声が零れた。最後に声を上げて笑ったのが何十年も前のことのように感じられる。ずっとずっと忘れていたものを今ようやく思い出したような気さえした。
 少年の知り合いだろうか、彼を窘める低い声がする。笑い出した私を困惑気味に見詰める視線もある。私はどうにか呼吸を整え、呆気にとられていた女性の掌をするりと外して少年に向き合った。

「私も上手に洗えるかな」
「えー! 今まで洗ったことないの? 洗いかた教えてあげようか?」
「…っはは、ありがとう。……君、とっても素敵だよ」

 勿論、洗って綺麗になる汚れでもないけれども、不思議と気分は軽かった。何故褒められたのか分かっていないだろう少年は、それでも嬉しそうに破顔する。顔を上げるとあの女性の優しい眼差しがあって、静かに差し出された手がそっと私の手を握った。

「貴女も身を呈して私達を助けてくれた素敵な人ですよ。……本当に、ありがとうございました」

***

 人々はルトに付き添われて部屋を出て行った。部屋には私とジャーファルさんしか残らない。途端に静寂が訪れた。まるで嵐のようだった、と思う。しかし嫌なものでは全くなくて、彼らに会う前と今とでは、私の中で明らかに何かが変わっていた。

「愉快な人々でしたね」
「はい。特にあの少年……子供の屈託ない言葉には、適いません」
「そうですね。早速手を洗ってみては?」
「うーん……綺麗になるでしょうか」
「洗い方次第でどうにかなるかもしれませんよ。やはり今から少年を追いかけて洗い方を訊いてみますか」
「ふふ、それ良いかも」

 くすくすと二人分の笑い声が部屋にこだまする。
 急速に変わっていると思う。私を取り巻く環境と私自身とが、目まぐるしい速さで変わっている。それでも、胸の隅でちくちくと存在を訴える罪悪感はなくしてはいけない。私の罪は無かったことにはならないし、それを忘れてはいけないのだ。たとえ善行で穢いこの手を幾らか清めることが出来るとしても、一度こびりついたそれは二度と消えない。その事実を常に心に留めて置かなければ、私は傲慢な外道に成り下がるだろう。
 それだけは、駄目だ。
 気を引き締めて、緩みすぎた口元を引き結ぶ。握り締めた手には、まだ人々の掌の感触が残っていた。あの女性の豆も、次に握手をした青年のかさついた温もりも、私の掌にしっかりと染みついている。私から誰かに触れるのはまだ少し憚られて、どれも彼ら彼女らの方が私の手を握るかたちではあったけれども、いつか自分から手を伸ばすことが出来るようになれば良いなと思う。思い返してみれば、いつだって私は温もりを貰ってばかりなのだ。シンドバッドやヤムライハ達は、自ら私に手を伸ばしてくれる。私は与えられる温もりに甘えているだけで、何も返せていないのだった。だから、いつか、私から。掌を握り締めていると、「エルさん」ジャーファルさんが名前を呼んだ。

「なんですか」
「握手しましょう」
「……、はい?」
「友人になった記念に。貴女と同じ手ですよ、何も気負う必要はありません」
「……そんな、同じってことはないでしょう。貴方の手はもう何年も、王を支え国を守り、民を……仲間を守ってきた手のはずですよ」
「それなら尚更同じです。貴女の手は、この国の民を助け、そしてこれから貴女の大切なものを守っていく手でしょう」

 まるで、全て見透かされているかのような。
 これでもう何度目になるだろう。彼の言葉は、渇ききってひび割れたこの胸中に染み込んでいくからずるいのだ。

「………………つくづく、ジャーファルさんには適う気がしません」

 ジャーファルさんは一瞬目を丸くしたあとで笑って、ただ手を差し出した。こちらに向けられた掌は、じっと待っている。呼吸が震えた。沈黙がやけに長く感じられる。誰でも良いから早くこの沈黙を破ってくれと念じてみたところで、ここには二人しかいない。そして、今沈黙を破るのは私でなくてはならないのだ。私は深く息を吸い込むと、おそるおそる右手を伸ばして差し出された手を軽く握った。やわく握り返してくれる掌はあまり温かくはなかったけれども、それがいっそ心地良い。線が細い印象があるのに、触れた手は確かに骨張っていて私の手よりずっと大きく、やはり男性の手なのだった。その細く長い指をそのままなぞってみれば、ごつごつと関節が触れた。

「あ、ペンだこ…」
「一日中ペンを握ってますからね」
「……インクもついてますね」
「文官なんて皆そんなものですよ」

 きゅ、とほんの一瞬わずかに力が籠もった手は、しかしすぐに離れていった。ゆっくりと熱が遠ざかる。

「…………」

 離れていく体温を寂しいと感じた自分に気がついて、慌ててわざと掌に爪を立てるようにして拳を作った。私がそんなことを考えただなんて、きっと何かの間違いである。だから違う、寂しいだなんて思っていない。誰にともなく言い訳をしながらジャーファルさんを見やれば、その耳がほんのりと赤らんでいるものだから、特別なものではないだろう、ただの握手にすぎなかろうと自棄になって内心で何度も繰り返した。

150114 
- ナノ -