瞼の裏にうつるひと


 時間をかけて食事を終え、皿を持ってマスルールが部屋を出ていくと、私は一人きりになった。マスルールがいたからといって会話が弾んでいたわけではなかったけれども、やはり一人でいるときの静けさというのは独特である。一人しかいない部屋では口を開く必要がなく、歩けない現状では動き回ることも出来ないから、物音一つ立たないのは当然だ。息をする微かな音は、外から聞こえる波の音や鳥の囀りで掻き消えて、耳に届くのは外の喧騒ばかりである。
 その心地よさに、今ベッドに横たわればきっとあっという間に睡魔がやってくるだろうと思われた。しかし、私は今日までの三日間一度も目覚めずに眠っていたわけで、今また眠ってしまうのはいかがなものか。上半身を起こして窓の外を眺めるくらいしかすることもないとはいえ、眠るのは夜になってからにしたほうが良いだろう。
 窓の外を流れていく雲を何とはなしに見つめてみる。そうして雲の形から別の何かを夢想する。幼い頃によくやったささやかな遊びだった。いつしか忘れてしまっていたけれども、こういう何もしない時間も悪くはない。不意に、扉の向こうに硬い足音がして私は視線を雲から扉へ動かした。足音が止まると、すぐにノックの音が響く。

「どうぞお入り下さい」

 一体誰だろう。首を傾げながら声をかければ、「失礼」の一言ともに扉が開く。予想だにしなかった人物に、思わず目を丸くした。

「ドラコーン様…!? こ、このような恰好でしかお迎えできず申し訳ありません。わざわざどうなさったのですか」
「いやなに、ちょうど時間が空いたので見舞いにな」
「そんな……わざわざありがとうございます」

 まさか既にドラコーン様の元にまで私の件が伝わっているとは思っていなかった。驚きながらひとまず椅子を勧めたけれども、ドラコーン様は自分が座ると壊れてしまうと言って首を横に振った。確かに、とりたてて丈夫なわけでもないありふれたこの椅子では、並外れた体格の彼を支えることは難しいかもしれない。かといって立たせたままというのも失礼であるけれども、どうしたものかと考えてみたところで椅子はそれ以外にないし、他に腰掛けられそうなものもない以上はどうしようもなかった。
 申し訳なく思いながらドラコーン様を見上げると、ドラコーン様は笑っていた。先の私の驚きを読み取ったのか、あるいは今の葛藤を汲み取ったのか。「王がすぐに伝達を寄越したのだ。余程嬉しかったのだろうな」と目を細めたあたり、どうやら前者らしい。

「私も目を覚ましたと聞いて安心した。無事で何よりだ」
「ありがとうございます。この度は本当にご迷惑をおかけしまして……」
「気にすることはない。私は何もしてやれていないしな。……それより、もっと気楽にして良いのだぞ」
「え……いえ、そういうわけには、」

 反論しようとすれば、ドラコーン様は右手を挙げてそれを制した。

「王曰わく、『エルハームはシンドリアの全ての者にとって誠実な良き友』だそうだ。友ならば、そう堅苦しくある必要はないだろう」
「王はそんなことを?」
「ああ。己の友であり皆の友であるから、呉々もよろしく頼むとな」
「…………そうですか」
「思うところはあるだろうが、諦めたほうがいい。あいつがそうするべきだと思ってそうしているなら、誰も止められん」
「存じております……」

 シンドバッドの考えを変えるのがどれだけ難しいことであるかなど、今更言うまでもない。昔から彼はそういう人だった。その上、今や彼は七つの迷宮を攻略し一つの国まで作り上げた伝説の男である。そんな男の行動の裏にどんな思惑が秘められていようと、それを暴ける者も妨げられる者も決して多くはない。そして、暴かれようが邪魔されようが突き進むだけの強情さと力をシンドバッドは備えている。
 ドラコーン様の言う通り、諦めたほうが良いのだろう。私が最も諦めるべきでないのは“私のもの”が奪われかねないときであって、今ではない。私には大した力などないから、何一つ諦めずに全てを守ることは出来ないと知っている。つまり、時には妥協も必要ということだ。
 大仰に理由を付けて自分に言い聞かせ、もう一度目の前のドラコーン様を見上げた。積もる話があるような仲でもないが、一つ、伝えるべき話ならばある。部屋にいるのは私達二人だけで、丁度良い機会に違いない。しかし、口にするのは少し躊躇われた。

「……あの、大分話が変わるのですが」
「なんだ?」
「…………セレンディーネ様のことを、まだ覚えておいでですか」

 若干の間をおいて、ドラコーン様は呟くように答えた。

「勿論だ」
「実は……言伝を預かっております」

 お伝えしても宜しいですか。迷った挙げ句、私はそう尋ねた。今や彼はシンドリアのドラコーン様であって、パルテビアのドラグル様ではない。かつての主の名を出すこと自体、きっと褒められたことではないのだ。ドラコーン様は複雑な面持ちで黙っていた。私はただじっと返答を待つ。ややあって、彼は静かに口を開いた。

「構わない。……が、もう暫く……預かっていてもらえないだろうか」
「え……」
「私はシンドバッドについて行くと決めた、それは今更揺らぎはしないと断言できる。それでもやはり……言伝がどんな内容であるにしろ、何も感じないわけではない」

 ドラコーン様とセレンディーネ様の過去のことを私は殆ど知らないけれども、「情けない話だがな」と嗤ったドラコーン様の声音がどこか哀しげに聞こえるものだから、つい邪推をしてしまいそうになった。そんな野暮なことはするべきではない。全く、情けないのは私である。

「ドラコーン様は情けなくなどありません。……少なくとも、私はそう思います」
「気を遣う必要はないのだぞ」
「いえ、私は本当にそう思うのです。過去のことをまるで無かったことのように振る舞えるとしたら、そんな人……私は信用できません。またすぐに掌を返すのではないかと疑いたくなってしまいますよ」
「……そうか」
「はい。……ですから……言伝は今しばらく、私の胸のみに留めることにいたします。責任をもってお預かりさせて頂きますね」

 よろしく頼む、そう言ってドラコーン様が頭を下げる。その上、見舞いに来たにもかかわらずそれらしきことを出来ていないと詫び始めた。どちらも大したことではない、私は一切気にしていなかったと告げても、自分の気が済まないのだと言う。やはりドラコーン様も真面目で律儀な方であるらしい。
 なんとも言えぬ沈黙が訪れた。どちらかが何かを言わなければならない。そのとき、ふとドラコーン様が思い出したように口を開いた。

「そうだ、一つ確認しておきたいことがあったのだ」
「確認しておきたいこと…ですか」
「パルテビアの魔導士……お前の師に、魔法道具を食わせられはしなかったか。蠢く黒い不気味なモノを」

 そう言われて記憶を手繰ってみる。それ程悩むこともなく、ドラコーン様の言うものに思い当たった。

「何度か口に押し込められてはどうしても飲み込めず、その度に吐き出した覚えがあります」
「そうか、それなら良い」

 ドラコーン様は見るからに安心した様子で頷いた。「あれがもし体内に巣くっていたらと、ここ最近ずっと気にかかっていた」その口振りは、私が飲み込めなかったあれの正体を知っているかのようである。

「あれは何だったのでしょう。もしもあの時飲み込んでいたら……、私はどうなっていたのですか」
「……わからないが、少なくとも、今ここに居ることは出来なかっただろう」

 それだけ言って、ドラコーン様は口を閉ざした。もうこの話は終いだと目が語っている。今更私が知る必要のないことなのかもしれない。窓のすぐ近くで鳥の羽ばたきが聞こえると、それを機としたようにドラコーン様の足が動いた。

「病み上がりに長居をしては悪いな。そろそろ失礼しよう」
「いえ、 こちらこそ。お忙しいところ、わざわざ見舞って頂いてありがとうございます」
「気にするな、我が同胞よ」

 冗談とも本気ともつかぬ声音でそう言って、ドラコーン様は部屋を出て行った。
 私は声も出なかった。まさかドラコーン様までそのようなことを。シンドリアはつくづくお人好しで溢れているらしい。いや、あるいは彼らが特別に慈悲深いのかもしれないけれども、いずれにしても私は今、自分の身に余るものを与えられているに違いなかった。

150219 
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