ひだまりの隣人


 熱い湯を浴びてさっぱりした後は、再びピスティとヤムライハに両脇から支えてもらいながら部屋へと戻る。八人将の二人と並んでいると目立ってしまうのは仕方のないことではあるけれども、どうしたって居心地は悪い。しかし一人で歩けないのだから文句など言えるはずがなく、投げかけられる好奇の視線も大人しく受け止めるほかなかった。魔法で飛んでいくことも考えたけれども、それはジャーファルさんに一度却下されていることであったし、ヤムライハにも却下されるだろうことは想像に難くない。そもそも杖は部屋に置いてきてしまっているから考えるだけ無駄なことで、諦めて黙々とやけに長く感じる廊下を歩いた。
 部屋に戻ると、私がジャーファルさんに抱えられて部屋を出たときとは大分様変わりしているようだった。服があちらこちらに散らばっている。私は服など出していないし、心当たりといえば一人しかいない。隣でピスティがあっと声を漏らした。

「ピスティ」
「えへへ、ごめんなさ〜い……」

 ピスティは可愛らしく首を傾げてそう言うと、すぐに片付けるね、と忙しなく動き回り始めた。私はヤムライハに誘導してもらい、部屋の真ん中に置いた椅子に腰掛ける。並べて置いてある机の上にも服は載せられていて、随分派手に散らかしたものだと苦笑した。

「それにしても、エルさんって結構たくさん服持ってるんだねえ。着てるところは一度も見たことがないものばかりだけど」
「一度も着ていないものが殆どだからね。ここに来たばかりの頃にシンが持ってきてくれたのだけど……、ちょっと…私には」

 貰った服の大半はあまりにも華やかというか際どいというか、見た瞬間に私には着られる代物ではないと確信した。それで、申し訳ないとは思いつつ殆どが仕舞い込んだままになっているのである。元々着ていた服と似たようなものが数着あったので、そればかり着ているというわけだ。
 ピスティが着替えを選びに時間をかけたと聞いたときに真っ先に思い浮かんだのが、この仕舞い込んだ服の数々だった。正直なところどれを選んだのかと不安を覚えていたのだけれども、普段とさほど変わりない服だったので密かに胸をなで下ろしたのはつい先程のことだ。今 体を冷やすのはあまり良くないだろうと気を使ってくれたらしい。それでもピスティとしてはもっと派手なものが好みのようで、片付けがてらに服を広げては、時折 これも可愛いあれも可愛いと呟くのが聞こえた。

「似合いそうなのに勿体無いなー。ほら、これとか凄く可愛い!」
「気に入ったならあげようか?」
「……あのね、エルさんの服を私が着れるわけないでしょ? 丈が全然合わないんだから」
「……じゃあ、ヤムライハに」
「私はいらないわよ。そういう服は着ないし、そもそも王様がエルさんに贈った服を他人が着るのはどうかと思うわ」
「う…それもそうだね」
「ね、元気になったら着ようよ! これでも王サマを悩殺しちゃえ」
「何言ってるの……悩殺する必要性がないでしょう」

 そういう類いの駆け引きは“仕事”のときにするものだ。などと、一言でも言ってしまえば空気が重苦しくなるのは明白であるから、それ以上の言葉は飲み込んでおくことにして、「手が止まっているよ」と片付けを急かした。慌てて片付けを再開したピスティとそれを手伝うヤムライハはまるで姉妹のようで微笑ましい。
 かつてない程に穏やかな気分だった。空は一層青く見え、風はいつにもまして心地良い。不思議だった。今までのこと、これからのこと、自分が背負うべきものは何も変わっていない。ただそれを受け入れただけで、こうも変わるものなのか。自分を取り巻くちっぽけな世界くらいなら、考え方一つでいつだって変えられたのだ。
 外から聞こえる鳥の囀りに耳を傾けていると、不意にノックの音が響いた。

「どうぞ」

 無言で入ってきたのはマスルールだった。食事を持ってきてくれたらしい。いい匂いがする。彼はピスティ達をちらと見ると、机の上にスープの入った皿を置いてどかりと床に座り込んだ。

「ありがとう、マスルール」
「…………」
「椅子が無くてごめんね。ベッドに座っていていいから」
「…………」

 声をかけても返事は返ってこない。彼が言葉少なであるのはいつものことだとしても、今日は輪をかけて無口である。普段と変わらぬように見える表情に、その答えがあった。

「……もしかして、怒ってる?」
「……別に」

 今のマスルールはいつもの無表情ではなかった。むっすりと引き結ばれた口やかすかにしわの刻まれた眉間が、彼の機嫌の悪さを物語っている。いつの間にか片付けを終えたらしいピスティとヤムライハが戸惑い気味にこちらを見守っていた。

「怒っているよね」
「怒ってない」
「でも不機嫌だ」
「…………」

 また無言になってしまった。じっとマスルールを見つめてみても反応はなく、座り込んだ恰好のままむすりとしているだけである。「私達がいないほうが話しやすいかしらね?」ヤムライハの言葉に否定も肯定も返せずにいれば、ヤムライハは軽く微笑んで「また後でね」と部屋を出て行った。続いてピスティも手を振りながら部屋を出て行く。沈黙の中に私達だけが残されてしまった。

「ねえマスルール、とりあえずベッドのほうに座りなよ」
「…………」
「……それじゃ私がベッドに座るから、マスルールがこの椅子に座って」

 マスルールはやはり無言のままで、しかし私の移動は何を言わずとも手伝ってくれた。それから机と椅子をベッドに寄せて皿とスプーンを私に寄越し、自分は大人しく椅子に腰掛ける。機嫌の悪いわりには律儀なようだった。

「一人で食えるか」
「…うん、平気」
「なら良い」

 素っ気なく呟いたかと思うとまた無言。私から何か言うよりも、彼から何か言ってくれるのを待つほうが良いような気がして、私は黙ったままスープを口に運んだ。まだ温かい。三日振りの食事だからなのか、吃驚するほど美味しかった。
 ゆっくりと味わっていると、再びマスルールが口を開いた。

「……体は大丈夫なのか」
「うん、大丈夫。今すぐにとはいかないけれど、直に元通り動けるようになるそうだよ」
「そうか」

 いつもと様子の違うマスルールは視線を一瞬さまよわせ、やや間を置いてからぼそりと呟いた。

「死ぬのかと思った」
「え?」
「あのまま目を覚まさないと思った。死にたがってたのは知ってる。でも、急すぎる」
「…………ごめんね。もう死なないよ」
「……ん」

 胸の奥からこみ上げてくるのは、きっと愛しさというやつだろう。私に弟などいないけれども、もしも弟がいたならちょうどこんな感じなのかもしれない。思わず皿を机に置いて、マスルールの頭に手を伸ばした。背の高いマスルールの頭は椅子に座っていても依然高いところにあって、触れるのはやっとだった。目一杯腕を伸ばして、短い赤い髪をかき混ぜる。マスルールは振り払うでもなく、どこか拗ねたような表情で撫でられている。それが不思議と大きな獣のようにも見えてきて少し笑えば、すかさず手を捕まれてしまった。

「スープが冷める」
「そうだね。冷める前に食べないと」

 そう返せばマスルールはすぐに、先程私が置いた皿を押し付けてくる。部屋に入って来たときよりもどことなく柔らかい表情をしているように見えた。
 私の気のせいだろうか。気のせいでなければ良いなあ。
 そんなことを思いながら、受け取ったスープを飲み込む。既に温くなり始めていたけれども、それでも変わらず美味しかった。

150126 
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