赤い糸の境界線


side ジャーファル


 彼女は憑き物が落ちたような顔をしているくせ、どこか寂しげでもあった。それが何に対するものなのか、考えてみればそれらしきものが多すぎて分からない。軽い気持ちで義妹を名乗れない程に義兄が遠い存在になってしまったことかもしれないし、出来ることなら壊したくなかったはずの関係に自ら終止符を打たねばならなかったことかもしれない。恐らくどれもが答えとして間違いではないのだろう。
 彼女は私の表情を見て苦笑らしきものを浮かべた。

「私、後悔はしていませんよ。いつか、“血の繋がらない妹”がシンドバッドの足を引っ張る存在になるかもしれません。そんな馬鹿なことはあってはいけないでしょう?」

 彼女の言うことは尤もではあった。政略結婚だの捕虜だのと利用される可能性は否定できない。否定したところで、彼女は気休めだと笑うだろう。ずっと“王族”を見て生きてきたからこそ、彼女は嫌という程知っているのだ。
 しかし、である。兄だの妹だのという名目を捨てたところで、彼女が王にとっての大事な存在だということには変わりない。勿論大事に思えばこそ彼女に危険が及ばぬように最大限の手を尽くすだろうが、彼女の身に何か起きれば、必ず彼は無茶をしてでも彼女を守る。奪われれば取り戻す。たとえ力を手に入れ王になり、かつてのシンドバッド少年とは変わってしまったとしても、何かのために何かを諦めることはしない──それが彼の本質であるはずなのだ。
 シンドバッド王は義妹エルハームの前では時として、いつかのシンドバッド少年に戻る。彼女を捕らえたあの日から薄々感じていたことだが、今や殆ど確信になっていた。なればこそ、彼女の英断がふいになることも大いに有り得るだろう。

「……たとえ貴女が義妹ではないと言い張ったところで、王は貴女への態度を変えないと思いますよ。貴女が義妹でなくたって、シンドバッド王と懇意にしているからと利用される可能性もあります」
「確かに、実質的なところは案外何も変わらないのかもしれません。ですが、それならそれでもいい……きっとそれが運命なのでしょうから」

 そう言ってふっと息を吐いた彼女は、目を伏せる。縁取る睫毛が微かに震えていた。

「私の全ては私のもの。私のものは、私自身で守り抜きます。ですが、私のちっぽけな両腕で抱えられるものは──守れるものはたかが知れていて、だからやっぱり王族などにはなれないのですよ。私はそういう器じゃない」

 ぱっと開かれた目に涙はなかった。きっぱりと言い切った口調のように、揺るぎない光を宿した双眸と真っ直ぐに視線がかち合う。つい三日やそこら前の彼女はどこへ行ったのだろう。……いや、紛れもなくここにいるのがそうなのだ。初めから彼女には芯が通ったところがあった。彼女が見据える方向が変わっただけで、彼女自身の本質はきっと変わっていない。
 たとえばそう、行動の原点にシンの存在があることも、変わっていない。シンにしても彼女にしても、お互いが唯一無二であることは疑いようがなかった。そこには大きな感情がある──それがなんと名の付く感情なのか、今はまだ分からないが。
 ふふ。不意に小さく息の零れる音がする。
 彼女だった。

「──さっきシンには言わなかったけれど、私もあの日と同じことを思っているんですよ」
「え?」
「シンの旅について行かないと決めたのは、足手まといになりたくなかったから。私を守るくらいなら、自分を守ってほしかったから」

 彼女は恐く私が聴いた中で一等柔らかな声音でそう言うと、同じだけ柔らかくたおやかに笑った。

「自分で思う程には、私もシンも変わっていないのかもしれないですね」

 その一瞬、私は息を忘れた。瞬きも忘れて、時が止まったかのようだった。
 こんな表情が出来るのかと思って。
 それから、なぜまた自分なのだろうかと思った。
 生きたいという言葉も、彼女のこの表情も一番に望んだのシンではあり、受け取るべきもシンであったに違いないのだ。嗚呼、間が良いのか、悪いのか。

「……どうしてそれを私に言うんですか」
「さあ…。強いて言えば、今ふとそう思ったからでしょうか」
「…………。では、私も今ふと思ったから言いますが、貴女と王はどこか似ていますよ」
「え…、どこがですか」
「さあ、どこがでしょうね」

 なんですそれ、と彼女は少し笑った。本人が自覚しているかは定かではないが、この短い間でよく笑うようになったものだと思う。良いことには違いない。しかし、戸惑いを覚えるのも確かだ。そして、折角ならばその笑みはシンの前にいるときこそ沢山見せて欲しかった。
 彼女がシンに対等であることを求めたとき、シンはそれを受け入れた。そこには、彼女を手放したく無かったからという理由が勿論あるだろう。しかし、彼女を無理矢理繋ぎ留めることで、彼女の心が離れていくのを怖れたからとも言える。彼女が笑わないならば、それはシンの本意ではない。
 そして、邪推をすれば、ある意味彼女の申し出はシンにとっても願ったりかなったりだったのではないだろうか。
 国王になった彼はいつの間にか独りだ。否、自分達がそうさせてしまったと言うべきである。線を引いて態度を変えて。国民は皆偉大な王として彼を讃え、国民ではない者でも、多くは彼を伝説的存在として崇める。
 ──いつかの少年が願い志したものは、きっとそんなものではなかったのに。

「エルハームさん」
「はい?」
「どうかずっとシンと、対等でいてください」

 あまりにも唐突過ぎたのか、彼女はきょとんとしてこちらを見つめた。嗚呼、全く、自分は何を口走っているのだろう。元はといえば彼女から言い出したことなのだから、自分がわざわざ口を挟むまでもないことである。にもかかわらず、勝手に言葉は飛び出していた。
 彼女は一体どこまでの意図を読み取ったのだろうか。
 ややあって、再びあの笑みを浮かべて言った。

「はい、勿論。いつまでもそうありたいと思っています」

 凛とした声が空気を震わせる。そこに彼女の本質を垣間見た気がして、──もしも彼女があの日とやらにシンドバッド少年と旅に出てずっと共にいたとしたら、そんな詮ないことを考えた。彼女ならばきっとどんな旅でも乗り越えられただろうにと思わずにはいられないのだ。今だからそう言えるのだということも勿論承知しているし、だからこそ直接彼女に言うのは憚られ、言葉にする前にそっと飲み込んだ。
 ちょうどその時、廊下からぱたぱたと騒がしい足音がした。誰であるかは確かめるまでもなく、ヤムライハとピスティだろう。部屋との距離を考えれば少し遅いくらいだが、時宜に免じて何も言うまい。
 
「ジャーファルさん! エルさんの靴と着替え持ってきました!」
「遅くなってしまってすみません、ピスティが着替え選びに妙にこだわって……」
「だって〜」
「……そうなるような気はしていましたよ。とにかく二人ともありがとうございます。では、しばらくエルハームさんをお任せしても良いですか? 私は食事の手配などしてきますから」
「はい!」

 ヤムライハとピスティに支えられて、彼女は立ち上がる。魔法で痺れを和らげてもらったおかげか、幾分かマシになっているように見えた。それを本人よりも支える二人のほうが嬉しそうに見守っているのは、純粋に微笑ましい光景である。「どう? 歩けそう?」「支えてもらえれば…ゆっくりなら」「勿論よ! 無理はしないで。ゆっくり行きましょ」「……ありがとう」きっと大丈夫だろう。そう思っていれば、彼女が不意にこちらを振り向いた。

「ジャーファル様、……色々と、ありがとうございます」
「……私は、何も」

 また、あの笑みだった。
 なぜだか真っ直ぐに見ていることが出来ない。何かに押しつぶされそうな気分になって、誤魔化すように言った。

「王を愛称で呼んで私に畏まるのは、なんだか可笑しくありませんか。歳も私の方が下ですし」
「……それなら────ありがとう、ジャーファルくん」
「っ、え」
「なんてね、冗談です」

 流石にそれは厚かましすぎますからね、と。
 笑った彼女は「本当に感謝しています、ジャーファルさん」と言い直し、ヤムライハ達と部屋を出て行った。足音や会話が遠ざかっていく。
 一人残された私は、なんとも言えず掌で顔を覆った。彼女の悪戯っぽい笑みがくっきりと瞼の裏に焼き付いて、当分忘れられそうにない。

141210 
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