また失うことのこわさを知っている


 そうして部屋の前に来てようやくおろされ、ほっと胸を撫で下ろす。しかしそれも束の間、自分ではきちんと両足で踏ん張ったつもりであったのに、すぐに情けなくよろめいて、再びジャーファル様に支えてもらう羽目になった。嗚呼悲しいかな、今の私では満足に立つことも出来ない。早く一人で立って歩けるようになりたいと思っても、今はまだ無理だ。意地を張っても仕方のないことだというのをここに来るまでに理解していたから、今は素直に彼の腕に掴まった。
 顔をあげて目の前の扉を見据える。どうにもそれが私を拒んでいるように思え、深呼吸をして心を落ち着けていれば、ジャーファル様が呟いた。

「靴を置いてきてしまいましたね」
「え、ああ…。大丈夫です。私は気にしません」
「そうですか、それなら……。心の準備はよろしいですか」
「……はい」

 煩い心臓を抑えながら頷く。ピスティもヤムライハももう何も言わない。ジャーファル様が扉を叩くとすぐに内側から開いた。相変わらず無表情なマスルールがいて、私と目が合うと僅かに驚きを滲ませる。その肩越しには、豪奢な椅子に腰掛けたシンドバッドが見えた。いつになく険のある表情をしている。──そうさせたのは、私だ。思わず体が強張った。

「王よ。彼女が、王に申し上げたいことがあると」
「……入れ」

 ジャーファル様に支えられながら恐る恐る足を踏み出す。一歩、二歩とゆっくり歩を進め、いつの間にかとめてしまっていた息を吐き出した。大丈夫、ちゃんと歩けている。
 どうやらピスティ達は入っては来ないらしい。気配でそれとわかる。しかし、何故だか扉を誰も閉めないから、結局話は筒抜けになることだろう。シンドバッドの前に立ち、ジャーファル様にしがみついていた体の向きを変えて正面から真っ直ぐに向かい合うと、強い眼光に身が竦んだ。こうやって向き合うのは初めてではないはずなのに、まるで初めてそうするような気持ちになる。それだけ今までの私は、無意識のうちに向き合うことから逃げていたということなのかもしれなかった。
しかし、もう逃げてはいられない。逃げては、いけない。自分に喝を入れ、真っ直ぐにシンドバッドの双眸を見つめた。
 それでも情けないことにまだ一人では立っていられないので、背に回されたジャーファル様の腕に支えられている。挙げ句に肩も借りているのだから、情けなさも極まれりといったところだけれども、今はそんなことを気にしている時ではない。なりふり構っていられるような余裕など、生憎持ち合わせていないのである。
 まずは何から言えば良いのだろう。あれもこれもと浮かんだ言葉の中で、音に成れたのは一つだけだった。

「ごめんなさい」

 迷惑をかけたこと、心配をかけたこと、自分勝手な都合を押し通そうとしたこと。思い浮かぶのは謝りたいことばかりで、たった一言を紡ぎ出すだけで精一杯だ。声が震えてしまわないように深呼吸をすると、その呼吸さえ震えた。

「今まで、たくさんの迷惑をかけて、ごめんなさい」

 シンドバッドの眉がぴくりと動いたけれども、何も言ってはくれなかった。無言で射抜くような目を向けられるのは、やはり辛いものがある。ましてそれがシンドバッドであるとくれば、あまりの眼光に思わず怯んでしまいそうだった。そんな弱腰がジャーファル様にも伝わったのだろう。支える腕に込められた力が僅かに強くなる。それはまるで私を叱咤しているかのようで、幾分か緊張が和らいだ気がした。見つめた眼光の鋭さは変わらないのに、すっと心が凪いでいく。
 そうだ、怯むな。私はもう決めただろう。
 自分に言い聞かせる。ここで怯んでいる場合ではないのだ。

「それから、こんな私を義妹と呼んでくれてありがとうございました。本当に嬉しかったです。貴方はもう雲の上の人で、私のことなど遠い過去の存在になって……忘れていると思っていたから、そう言ってもらえて、私は幸せでした。それなのに、貴方の厚意を無碍にしてしまって……本当に、恩知らずです」
「…………」

 返されるのは無言。
 空いた手でぐっと拳を握りしめて、息を深く吸い込んで。

「ジャーファル様から、伝言をお聞きしました。貴方がお怒りになるのも尤もですし、全て私自身に非があると分かっています。だからこそ私は、今更許しを請うつもりはありません。自分のしたことを受け止めて、──勝手に、天命の限り、生きていきたいと思います」

 誰かが息を呑んだ。シンドバッドだったかもしれないし、後ろにいるヤムライハだったのかもしれない。それらを確認するだけの余裕がないから正確なところは分からなかった。息を吸って吐いてを繰り返しても、これ以上の余裕を作り出すことなど出来そうにない。
 ──もう、一思いに言ってしまおう。

「私は毒が体に回るのを感じたとき、死を覚悟しました。元々死ぬつもりでこの国に来ましたから、未練など無いつもりでした。それなのに、いざ死が近づいてくると、湧き上がる感情は恐怖と後悔ばかりなのです。次第に手足が動かなくなって、感覚が消えていって。私の手足が私のものではないみたいになるのが、本当に怖くて、仕方なかった。そして、一番に貴方のことを思い出しました。それから、マスルールや私を気遣ってくれた皆さん、街の人々の笑顔、痛いほど澄んだシンドリアの空の青──全てが恋しくて、もう一度見たいと、会いたいと思いました。だから、自分が生きていると分かったとき、私、本当に……本当に、嬉しかったんです。生きていて良かったって、ほっとしたんです。あの思いを知ってしまったら、折角拾ったこの命を自ら投げ出すことなんて、出来そうにありません」

 震えそうな声で言葉を切ると、後ろからすすり泣く声が聞こえた。これはきっとヤムライハだ。不思議なもので、思い切って言ってしまうと幾らかすっきりした気分になって、先程よりは余裕も取り戻せたような気がする。
 一方で、シンドバッドは虚を衝かれたような複雑な表情を浮かべていた。「本気か?」どこか呆然と、呟くように言って立ち上がり、ゆっくりと近寄ってくる。思わずジャーファル様に掴まった手に力が入り、彼の官服にぐしゃりとしわが寄った。ひょっとしたらジャーファル様が顔をしかめたかもしれないと思ったけれども、見上げて確かめることなど出来るはずもなく、ただただシンドバッドを見つめ返す。何か、何か言わなければ。ひくりと喉が鳴った。

「本気、です。勿論、国王たる貴方に滞在を許して頂けなければ……その時は、大人しくこの国を出て行きます」
「……行く当てでもあるのか」
「それは……ありません。ですが、旅をして、貴方が見てきたであろう世界を見て回って。その道中でユナンに会えたなら、彼について行くのも悪くないと思っています」
 
 これはまるっきり嘘というわけではない。この国に来て初めて見たものがたくさんあるように、世界には私が知らないものがまだまだたくさんあるのだろう。例えばシンドバッドが冒険の中で見てきたもの。出会ったもの。きっと私は世界を知らなさすぎる。

「貴方は生きていたいと思わせると言ってくれて、そして、本当にそうさせてくれました。死にたくないと──生きたいと思えたのは、この国と貴方のおかげです」

 本当にありがとう。そう言うのと、シンドバッドの手が伸びてきたのとは殆ど同時だった。

 たとえその手で殴られるのだとしても、身勝手だと罵られるとしても、それでも私は。

141114 
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