明日を待てない太陽


 シンドバッドに、会いに行かなければいけない。
 ジャーファル様に言われるまでもなく、それは遅かれ早かれしなくてはならないことだと分かっていた。けれども、分かっているからといってすぐ行動に移せるかといえば、必ずしもそうではないのである。
 死の淵に立ったときあんなにも会いたいと願った人だというのに、今は、会うのが少し怖かった。今の気持ちを伝えたらどんな反応をされるかを考えるのは、不安以外の何ものでもない。思い出したように頬が鈍く痛む。何を今更と軽蔑の目で見られるかもしれないし、そもそも顔さえ合わせてもらえないかもしれない。しかしどんな結果になろうとも、それがある種のけじめであるには違いなかった。
 ざわつく胸の内を静めるように、何度か深呼吸を繰り返す。そのうち、私の中でそわそわと浮遊していた感情がそれぞれの居場所を見つけたようだった。大丈夫、既にもやは晴れた。足場は確かに存在し、私を覆っていた暗闇も、朝が来たように色を変えつつある。大丈夫。私は運命が私を死に導くまで、誠実に生きていこう。
 気持ちを落ち着かせて瞑っていた目を開けると、ジャーファル様と目が合った。ジャーファル様は少し驚いた顔をしたあとで、何やら納得したように一つ頷いた。

「シンのところへ行きますか?」
「はい。自分のしてきたことのけじめを付けに行きます」

 ベッドを降りようと体を動かすと、自分の体が随分と気怠く、強張っているのに気が付いた。そういえばピスティが、三日も寝たきりだったと言っていただろうか。それだけの間飲まず食わずで眠りこけていたのなら、無理もないことである。ベッドに手をついて体を支えながらそろそろと片足ずつ足を降ろすと、靴を履いていない足に床の冷たさと硬さとが伝わるのが心地良かった。たとえ多少ぎこちなかろうと、私の手足が私の意志で動く。そんな当たり前のことでさえ今の私にとっては大きな喜びで、思わず鼻の奥がつんとした。
 嗚呼、私、ちゃんと生きてる。
 両足が床についたところで、深呼吸をする。「ちょっと待って下さい」ジャーファル様の戸惑った声がした。

「まさか、一人で歩いて行くつもりですか?」
「はい、勿論」
「勿論って……。貴女、瀕死の状態で三日間も眠っていたんですよ? そんな体で歩けるわけないでしょう。無茶です」

戸惑った声が呆れ声に変わり、やれやれと言わんばかりに首を振る。それに少しむっとした。何も街まで行くわけではい、王宮の真っ直ぐな廊下をゆっくりと歩いていくだけである。

「別に大丈夫です」

短く答えその勢いで立ち上がると、両足はしっかりと床を踏みしめた。ほら、大丈夫だったでしょう。そう言ってやろうとして一歩踏み出した。しかし残念なことに、私の脚は存外に軟弱だったらしい。立ち上がってまだ三秒と経っていないのに力が抜け、半歩踏み出そうとしただけでぐらりと体が傾いた。
床は硬い。顔から突っ込めばさぞ痛いだろうと目を瞑ったけれども、痛みはやって来なかった。ジャーファル様が受け止めてくれたからである。

「ほら、言わんこっちゃない」

腕の下をくぐって背中に回された腕が、細いくせに力強く私の体を支えている。お陰で床に這い蹲らずにすんだとはいえ、すっかり呆れかえった声音で言われればぐうの音も出なかった。「過信すれば折角拾ったものもまたすぐに失くす羽目になりますよ」ととどめの一言まで頂戴してしまえば、床に叩きつけられるのと同じくらい打ちのめされた気持ちである。

「ご忠告ありがとうございます……」

 出鼻を挫かれた気分でぼそぼそと答えると、返事の代わりに返ってきたのは溜息だった。

「吹っ切れたのは良いですが、今までの慎重さや慎み深さまで切り捨てないで下さいよ」
「……善処します」

 ジャーファル様はもう一つ小さな溜息を零すと、「全く…」辛うじて聞こえるくらいの声量で呟いた。……そういう貴方こそ私達の間にずっとあったはずの溝はどうしたのだ、随分と急に飛び越えてきたじゃないか。そう思いはしたけれども、なんとなくそれを言うのは憚られた。
 言えないでいるうちにジャーファル様は背中に回した腕で私を支え直し、もう一方の腕で私の脚をすくい上げて、ひょいと横抱きにした。突然の浮遊感にぎょっとして思わずジャーファル様にしがみつくと、当のジャーファル様は涼しい顔で「そうやって掴まっていて下さい」などと言うものだから、私は間抜けな声をあげた。

「こっこれで行くんですか!?」
「そうですよ。歩けないんですから仕方ないでしょう」
「いえ、おろして下さい……自分で飛んで行きます、」
「その弱った状態で魔法を? やめておきなさい、また死にかけますよ」

 シンドバッドのところへ飛んで行くくらいでは魔力切れを起こしはしないだろうけれども、そう言われると私には返す言葉がなかった。それを分かった上で言っているのだろうから、この人はなかなかにたちが悪い。言葉を探しているうちにもジャーファル様は歩き出し、塞がった両手では扉を開けられないので、私に開けるよう促した。……仕方がない。諦めて扉を開ける。腕にも思っていた程力を入れられず、僅かにしか開けなかった扉を最後はジャーファル様が肩で押し開けた。

「あっジャーファルさ……ん!?」
「おや、ピスティ、ヤムライハ」
「な、何してるんですか!?」

 どうやら二人は、ジャーファル様のお話が終わるのを部屋の外で待っていたらしかった。ジャーファル様が出て来たと思いきや私を横抱きにしているのだから、当然驚きもするだろう。二人は目を白黒させて詰め寄ってくる。いたたまれない気持ちになったのは私だけのようで、ジャーファル様は全く意に介した様子がない。

「話がまとまったので、シンのところへ報告に行くんですよ」
「話……?」
「まさかとは思いますけど二人の婚約とかじゃないですよね…!?」
「ピスティ、茶化すなら怒りますよ。どうしてそういう考えになるんですか」
「ジャーファルさんがエルさんをお姫様抱っこしてるからですよ! あんなに険悪だったのに!」

 ぴょこぴょこと飛び跳ねて全身で訴えるピスティに、ジャーファル様が溜息をついた。「そんなに険悪に見えましたか?」「そりゃもう、とっても! エルさんの話をするときの目が笑ってませんでしたもん」「そうですか」会話をしながらジャーファル様はすたすたと歩き出し、それに当然のようにヤムライハとピスティもついて来る。
 軽々と私を持ち上げた細腕は、見かけのわりに力があるようだった。布越しに分かる金票の硬さに、それもそうかと思い直す。金票も小さな見かけに反して重量のある暗器だ。それを幼少から扱ってきたとあれば、相応の腕力が身についていて不思議はないのである。
 廊下ですれ違う侍女や役人達が、ぎょっとした顔を取り繕いながら頭を垂れた。マスルールに担がれたときもそうであったけれども、人数が多い分あのときよりもずっと目立つ。いたたまれなさを誤魔化すべく、ジャーファル様のクーフィーヤを見つめてシンドバッドに伝える言葉を考えることに専念した。

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