なにも掴めなくなるくらい


 ユナンと別れた──という言い方が正しいのかは分からないけれども──その後、私は様々な景色を見た。どれもこれも見たことのある景色だったし、その中にはもういないはずの人の姿も見えた。幼い自分の姿さえも見えたような気がする。普通に考えればそんなことは有り得ないから、私はきっと今度こそ本当に死ぬのだろう。死に際の追想をあたかも今目の前で見ている景色であるかのように錯覚しているのだ。やがてその光景も霞んで見えなくなって、全てが消えた。


 ──全身がとても重い。まるで大岩に押しつぶされているかのような、あるいは私自身が大岩であるかのような重さが、体にのしかかっている。このままでは圧死してしまうかもしれない。……嗚呼、違う、それは起こり得ないことだった。私はもう死んだのだし、生きていないなら死ねないはずである。
 そこで初めて私は疑問を抱いた。死んでいるのに、なぜ重いと感じるのだろう。それが死ぬということなのだろうか。ふとぐわんぐわんと耳鳴りに似た感覚を感じて、疑問は更に大きくなった。私にはもう何もなかったはずなのに、何故。おそるおそる目を開いてみると瞼が持ち上がる感覚が確かにあって、すかさず飛び込んできた明るい光に目が眩んだ。
 しかしそれも最初だけで、少しずつ光に目が慣れてくると、そこには今や見慣れた天井が広がっているのが分かった。私は困惑した。これはいったいどういうことなのだろう。どれだけ見つめても錯覚などではなく、毎日見ているあの天井なのだ。いくらか耳鳴りが治まってきた耳が、悲鳴のような叫び声を拾う。

「エルさん!!」

 ヤムライハの声だ──一体、何が起きているのだろう。何一つ分からない。私が記憶しているよりも幾らかやつれたように見えるヤムライハが、私の顔を覗き込む。目と目が合って、ぽたりと温かいものが頬に落ちてきた。彼女は口を開いたけれども、零れてきた音はほとんど言葉にならず、それでもただ一言、「良かった」とだけ呟いた。

「私、王様とジャーファルさんに報告してくる!」

 ピスティの声だろう、そう告げる声と慌ただしい足音。ヤムライハはそれに一つ頷いて目元を拭うと、強張った頬を弛ませて微笑んだ。

「気分はどう? 起きあがれる?」

 私は何も言えなかったし、何も考えられなかった。現状が飲み込めなくて、思考回路も繋がらない。私は死んだのに、何故私には体があって感覚があって、目の前にヤムライハがいるのだろう。生きとし生けるものは、死んだらルフの流れの中に還るのではなかったのか。そんなことをぼんやりと霞みがかったような頭で思ってみるけれども、噛み砕くことが出来ず、理解できないのである。
 体も頭も鉛のようだった。ヤムライハに支えられて体を起こすと、何故だかさっき部屋を出て行ったはずのピスティが駆け寄って来る。

「エルさん、気分はどう? もう三日も眠ったままだったんだよ」

 その言葉を噛み砕くのにも、やけに時間がかかった。三日も眠ったままだったと彼女は言った。三日も、眠ったまま。
 私は、三日間、眠っていた? 
 それは、つまり──。
 口を開こうとすると、張り付いた喉が引っかかって咳き込んだ。咳き込めば咳き込むほどひりひりと痛む。ヤムライハが背中をさすってくれても止まらない。ピスティが差し出してくれた水を自分で受け取ることは出来なかった。よく動かない手をどうにか添えて、殆ど飲ませてもらうようなかたちになる。それでも上手く飲めなくて口の端から水が滴っていくものだから、手の甲で拭った。水の冷たさを手の甲に感じて、私はようやく気がついたのである。私にはちゃんと手があって、それを動かすことが出来ている。痛みさえ感じなかったはずの手が、冷たさを感じ取っている。体も頭も相変わらず鈍く重いけれども、私はやっと一つのことを理解したのだ。

「わ、たし」

 喉が引きつって、無理矢理絞り出した声はすっかり嗄れている。音の一つ一つが引っ掛かってしまう。
 嗚呼、だけれども、それでも、私は。

「まだ…、いきてる、の」

 どうやら私は、死んでいなかったらしい。これが死に際の幻覚でないのなら。何者かによるまやかしでないのなら。私はまだ生きているのだ。それなら、なくしたものをもう一度探しに行くことも出来るのかもしれない。
 その時だ。何が起きたのかすぐには分からず、部屋に響いた乾いた音の余韻で自分が頬を叩かれたと理解した。それからじわじわと痛みを訴え始める鈍感な頬などどうでも良くて、目の前で平手打ちをした恰好のまま静止するシンドバッドの表情のほうが余程衝撃的だった。その目は確かに私を睨め付けている。シンドバッドが手を下ろすのと反対に私はゆっくり手を持ち上げて頬にあてがった。頬は、熱かった。
 知らぬ間にぽろりと涙が零れる。涙というものは心底たちが悪いもので、わけも分からないのに勝手に出てきてなかなか止まってくれない。頬が痛くて泣いたのか、悲しくて泣いたのか、それとも驚いて泣いたのか。私自身が分からないのだから、きっと誰にも分からないのだろう。私が泣き出すとシンドバッドはハッとしように目を見開いた。

「シン。一旦頭を冷やしましょう」

 ジャーファル様がシンドバッドを引っ張って部屋を出て行く。誰も何も言わなかった。言えなかった、というべきかもしれない。二人が出て行って扉が閉まると、あとに残されたヤムライハとピスティが何やら声をかけてくれたけれども、ちっとも頭に入ってこなかった。
 私はついにシンドバッドに見限られてしまったのだ。それだけの迷惑をかけた自覚はある。胸に手を当てて考えずとも、私がいかに身勝手なことをしたかは多々思い浮かぶ。だから、見限られるとしてもそれは無理もないことであって、自業自得としか言いようがないことなのだ。分かっている。分かっているのに、苦しい。つくづく私は身勝手な人間なのだなと自嘲する余裕さえなかった。

141013 
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