side ジャーファル
「エルはまだ目を覚まさないのか」
おそらく色好い返事など期待していないだろう問いに、私は正直に答えた。
「はい。ヤムライハがずっと付き添ってくれていますし、私も今朝様子を見てきましたが、……変化はありません」
あれから既に三日が経った。彼女は目を覚まさない。飲まず食わずで昏々と眠り続けているのだから、毒で弱った体は衰弱していく一方で、このまま目を覚まさなければ、折角繋ぎ留めることのできた命もあと幾日と保たないだろう。誰もが分かっていたが、それを敢えて口にする者はなく、また、彼女が目を覚ます方法を知る者もなかった。
この三日間、王はしきりに彼女の名前を口にした。無理もないことではある。彼女が生死の境にいるとあっては酒を飲む気にもならないらしく、大人しく部屋に籠もって仕事に向き合ってはいるものの、やはり集中出来ないようで時折頭を掻いては呻き声をあげた。
「……今から見に行ってみますか」
本日何度目かの呻き声があがり、そう声をかけると、やや躊躇ったのちに頷いた。「ああ、そうしよう」答える表情は心なしか硬く、彼女が目を覚まさない間に、幾分かやつれたようにも見える。それでも、立ち上がるのは早かった。
彼女がなぜ致死量の毒を飲んだのか、その経緯は、シャルルカンの説明に加えて 捕らえた悪党に行った審問からも知ることができた。しかしそれはあくまでも経緯で、彼女が何を思ってそうしたのかは相変わらず分からないままだ。彼女なら、自らは無傷のままで奴隷狩りを徹底的に潰すことも出来たはずなのに、敢えて取引だの賭けだのと自分を追い込んだのは何故か。
彼女なりの正義だったのかもしれないし、目の前の死に自ら飛びついたのかもしれない。
邪推であることは分かっていても、考えずにはいられなかった。王にしても同じことだったろう。
とはいえ、私が彼女の動機についてあれこれと考えを巡らすのと、王が思いを巡らすのとではわけが違う。彼にとっての彼女は、ただ一人の義妹(いもうと)である。国民を家族と呼ぶシンドバッド王といえど、明らかに彼女は特別で、一口に家族と称せども内実は彼女と国民で大分異なるのだろうという漠然とした確信があった。
かかとを鳴らして彼女の部屋へと向かう道すがら、王は無言で眉間にしわを寄せていた。恐らく本人は、しわが寄っているとは気がついていない。
「王よ、険しい顔をしてまた考え事ですか」
「……ああ、ちょっとな」
「彼女のことでしょう。大丈夫だと、自分でそう仰ったじゃないですか」
「ああ、そうだ。エルは大丈夫だよ。……今俺が考えていたのは、あいつが目を覚ますかどうかじゃない」
すっと目を細められた目は、どこか遠くを見ているようだった。
「なあ、ジャーファル。エルは、死のうと思ったんだろうか」
「……さあ、私には分かりませんよ。私は彼女ではありませんから」
それどころか、彼女から最も遠い。歩み寄ろうとさえしなかった側の人間だ。そんな私に分かることなどあるはずもないのに、王は静かに首を振った。
「お前は一番遠いのかもしれないが一番近くもあるだろう」
「は…?」
「この国には色んなやつがいる。八人将だって例外じゃないが……」
「…まあ、暗殺者は私だけですからね。その意味では近いのかもしれませんが」
「“元”な。ジャーファルもエルも、今は違う」
なぜそう言い切ってしまえるのか分からなかった。彼女が本当に暗殺から退いたという確証はない。確かに彼女は奴隷狩りに捕まった人々を救ったが、必ずしもそれが我々にとって信頼に足る人物であることの証明にはならないのだ。そして、私自身にしても、何をもってして今は違うと断定できるのだろう。もしも王が誰かを暗殺せよと命じるなら、私はまたこの金票を血に染める。その光景は、ありありと想像出来た。
しかし、この話はここで終わりだった。彼女の部屋の前に差し掛かったとき、中から扉が開いたのだ。出て来たのは慌てた風のピスティで、こちらに気づくとぱっと表情を輝かせた。
「王様! ジャーファルさん! エルさんが目を覚ましました!」
ちょうど報告に行こうとしたところなんです、とピスティが言い終わるのも待たず王は歩を速め、先程ピスティが閉めたばかりの扉を勢いよく開いた。ヤムライハの涙声が聞こえる。大股で部屋に入った王に続けば、ヤムライハに支えられるようにしてゆっくりと体を起こす彼女が目に入った。
てっきりすぐに彼女に声をかけるか抱き締めるかするものと思っていたのに、王は部屋の半ばでぴたりと足を止め、何も言わず彼女を見つめている。最後に部屋に入ってきたピスティが、軽い足取りで彼女のベッド脇に駆け寄り、顔を覗き込む。
「エルさん、気分はどう? もう三日も眠ったままだったんだよ」
彼女の返事はない。まだぼんやりとして焦点の合わない目をゆっくり動かし、ピスティやヤムライハを見ただけである。やがて唇が小さく動いたが、音はしなかった。
「ん? 何、エルさん」
ピスティが首を傾げる。彼女はどこか呆然とした表情で口を開こうとし、大きく咳き込んだ。強い毒を流し込んだ上に三日も眠り続けたのだから、喉がやられていても無理はない。
ヤムライハが背中をさすり、ピスティが水を飲ませるのを見ていたが、どうやら麻痺も完全には取れてはいないようだった。特に指先は強く残っているらしく、ピスティが差し出したカップを受け取ることが出来ないのだ。口に近づけられたそれにぎこちなく手を添え、飲み終わったあとの口を拭う手の動きもやけに緩慢である。そしてその手をゆっくり胸の前に下ろすと、じっと見つめて動きを止めた。少しして、彼女がまた口を開いた。
「わ、たし」
痛々しいほど嗄れた声に、ヤムライハが息を呑む。しかし、次に続けられた言葉にこそ私は息を呑んだ。
「まだ…、いきてる、の」
抑揚のない声で彼女は確かにそう言った。その正しい意味は、彼女に訊かなければ分からない。しかし、彼女はやはり毒が致死量に達していたことを理解していたのだ。自分がそれで死んでもおかしくないということも自覚していた。
この事実は王にとって決定打になったらしかった。根が生えたように動かなかった王が、不意にすたすたと彼女に歩み寄る。その表情を見て、あ、と思ったときには既に遅かった。乾いた音が高らかに響く。王が、彼女の頬を叩いたのだった。
1401002