あなたのやさしさを掴めずにいる


 ジャーファル様は王宮に戻っていき、何とも言えぬ空気のままシャルルカン様やピスティともその場で別れた。二人がどんな顔をしていたかも確かめられず、それでもせめてもの意地で顔だけはあげて、ヤムライハの部屋に引き返して来たところである。部屋は出て来た時と同じく雑然としている。部屋の主が居なかったのだから当然のことなのに、その様子に不思議と懐かしさを覚え、先程の出来事を自分がいかに長く苦しい時間として体感していたのかを思い知った。
 ヤムライハがどこからか椅子を引きずって来て、私に座るよう促す。私は一度首を横に振ったが、もう一度念を押すように促されて、感謝を述べてから腰をおろした。華奢な椅子は軋むこともなく私を受け止めてくれる。この椅子よりもよほど丈夫であろう私などは、今もどこかが軋んで煩いというのに。

「ひどい顔だわ」
「そう? それは困ったね」
「……今、お茶を淹れるわね。エルさんはここで休んでいて」

 ヤムライハがそばを離れていく足音を聞きながら、髪をかきあげる。そして深く深く溜息を吐いた。胸に沈み込む黒いもやもやが、これで全て吐き出されてしまえばいい。全く、なぜこうも心を揺らがせてしまったのだろう。なんて情緒不安定なのだ、情けない。感情ひとつ制御出来ない子供染みた自分が嫌で堪らないけれども、どうにもならなかった。
 本当に、情けない。なんなのだ、私は。
 心の中で自分自身に悪態を吐きながら、太腿に肘をつき、背中を丸めて顔を手で覆う。何も考えたくなくて、そのまま一切の思考を放棄した。外の音は絶えず鼓膜を揺らすけれども、それも全て聞き流した。そのままぼんやりとしていれば、次第に心は凪いでくる。
 ふと、背中を丸めて動かない私は端からはどう見えるのだろうと思った。泣いているように見えるのだろうか。それならいっそ泣いてしまえたら良いのにと思う。そうすれば、胸の蟠りも流れ出て楽になれるのかもしれない。けれども涙など一滴も出てこないし、仮にその気配があったところで、必死で堪える私がいただけだろう。
 やがて、ぱたぱたと足音が近づいてきたので、私は顔を上げて背筋を伸ばした。

「大丈夫?」
「うん、ごめんね」
「どうして謝るのよ」
「迷惑をかけてばかりだと思って」
「私は迷惑をかけられたなんて思ってないわ」

 差し出されたカップを受け取ると、澄んだ双眸が心配そうにこちらを覗き込んだ。本当に綺麗な瞳だ。真っ直ぐ見つめ返すのが躊躇われるのも仕方がない。自分の瞳などまじまじと見たことはないけれども、きっと彼女の瞳とは比べものにならないほど薄暗い瞳をしているだろう。敢えて何かに例えるならば、ジャーファル様が私を見るときのあれが最も近いような気がした。

「……私とジャーファル様は、似ていると思う?」

 だしぬけな問いに、ヤムライハは瞠目した。言ってしまってから少しだけ後悔したが、今更取り消すことは出来ない。

「え?」
「……私、ジャーファル様と自分を重ねているんじゃないかと思って。随分と厚かましいんだなとは思うけど」
「……まるで他人事みたいな言い方をするのね」
「だって、本当に他人事みたいだから」

 何もかも自分のことには違いないのに、何も分からないのだ。本来なら、自分を一番理解してやれるのは他ならぬ自分自身のはずである。にもかかわらず、分からない。それではもはや、他人事と殆ど同義のようなものではないかと思えてならなかった。

「ねえ、どう思う? 似ているかな」

 再度同じことを問う。ヤムライハは暫し考えるような素振りを見せてから、ゆっくりと答えた。

「分からない……、似ているとも似ていないとも、今はまだ判断出来ないわ。その答えが出せる程、私はあなたのことを知っているわけではないもの」
「……」
「あ……、私ったら……ごめんなさい」
「どうして謝るの、何も間違っていないよ。とても正論」

 そう、正論なのだった。気休めのような言葉をかけられるよりずっと良いし、彼女が真剣に考えて返答してくれていることがよく分かる。「ありがとう」呟くように言って、カップに口をつけた。優しい味が広がって、温もりが染み渡っていくようだった。なんという名のお茶なのだろうか、私は知らない。かといって訊こうとも思わず、さっさと飲みきってしまうことにした。ぐっと喉に流し込んで、ほうと一息つく。

「ありがとう、美味しかった」
「そう…良かった」

 カップをヤムライハに返すと、彼女はそれを受け取りながら何か言いたそうに私を見やった。瞳がゆらゆらと揺れているのがその証拠である。何を言いたいのかはまるで見当もつかないけれども、彼女の表情を見れば、冗談の類いでないことだけは明らかだった。
 彼女が口を開くのを待っていると、彼女も待たれていることに気づいたのだろう。思い切ったように口を開いた。

「あのね。思うんだけど……、あなたは王様が心の拠り所だったって言ったわよね。それってつまり、この国の皆と同じだわ。私も他の八人将も、多かれ少なかれ王様に救われてきたの。そして今がある。だからね、同じなのよ。その意味では、私もエルさんも…ジャーファルさんも、みんな似た者同士なんだわ」
「似た者同士……」

 繰り返すと、ヤムライハは力強く頷いた。「ここでは、引け目なんて感じなくていいのよ」。八人将が一人ともあろう人物が、そんなことを言ってしまって良いのだろうか。問うたところで彼女がなんと返すかはなんとなく分かるような気がして、私は口を噤んだ。
 必然、沈黙が私達を包む。魔法道具さえも音を潜めたた部屋では、吹き込む風の唸りと外の喧騒がわざとらしいほど大きく聞こえた。

「エルさんはきっと真面目で優しい人だから、今みたいに色々と考えてしまうのだと思うけれど、だからこそ、あなたは許されても良いと思う」
「真面目で優しいのはヤムライハのほうでしょ。私はただ、その優しさに甘えてるだけの…」
「まだ終業には少し早いけど、今日のお仕事はもう終わりにしましょうか」

 私の言葉を遮って、ヤムライハは言った。「まだ顔色が良くないもの」そっと私の肩に手を添え、気遣うように笑う彼女の優しさを、果たして私が受け取って良いものだろうか。この国で私はあまりに甘やかされている気がしてならない。本当は、ジャーファル様の反応こそが正しいのだ。ヤムライハ達の優しさを間違いだと言うのはひどく恩知らずであるけれども、それでも、現状に納得など出来そうになかった。優しくされればされるほど、その温度と目映さが私の胸の奥を抉るのである。

140804
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