心の隙間に潜む魔物


 一度これを見たことのあるシャルルカン様はやはり剣の扱いにどうしても不満を覚えるらしく、相変わらず不満そうに眉を寄せていたけれども、その横のヤムライハとピスティは、初めて見るだけあって興味深げな面持ちをしていた。ただでさえ魔法に目がないヤムライハである。質問攻めにあうのではないかと身構えたものの、流石のヤムライハも今が魔法について語らうような状況ではないということを理解して自制していると見え、ちらちらと視線を送ってよこすだけだ。
 一安心してようやくジャーファル様を見れば、彼もシャルルカン様と同じように眉を寄せている。勿論その理由は、剣を使わないからなどという些か子供染みたもの(シャルルカン様に言えば怒られそうだ)ではないだろうことは言うまでもない。
 ジャーファル様が何も言わないからだろうか、誰も沈黙を破ることが出来ず、気まずい空気が私達を包んでいる。さらに正確に言うならば、ジャーファル様はその気まずさを感じていないのだろうし、私もさして気にならないので、気まずい空気に包まれているのはあとの三人だ。関係無いはずの彼らに気まずい思いをさせていることに申し訳なさを覚えはするけれども、だからといって私から口火を切るつもりはさらさらなかった。これはジャーファル様から言い出したことなのであって、私のほうにはこれっぽっちも話すことなどない。口火を切るような理由がないのだから、仕方ないだろう。
 私はただジャーファル様が口を開くのを待った。視線はジャーファル様に集まるけれども、彼は恐らくそれに気がついた上で受け流し、思案顔を続けている。沈黙に堪えかねたのか、シャルルカン様が小さく咳払いをした。

「エルハームさん……、さっきの、この前のと微妙に違ってたよな?」

 ぴくり、ジャーファル様の眉が動く。嗚呼、まったく、余計なことを言ってくれた。溜息を吐きたくなるのをぐっと飲み込んで、私は淡々と説明する。

「そうですね。とはいえ、魔法そのものは同じですよ。今回は標的が居ないのであのような形で宙に留めさせて頂いたのです。無闇に撃ちまくるわけにはいきませんから」
「賢明な判断ですね」

 そう言ってジャーファル様は頷いた。「あなたはやはり頭がよく切れる」。私は思わずそのそばかす顔を見つめた。はっきりとはわからないけれども、何かがいつもと違うような。
 ジャーファル様はただ私を見つめ返した。暗い色をしたその双眸には相変わらず油断がなく、それでも貼り付けられた笑みは一瞬そうと気づかないほど自然で、いつもより少しだけ柔らかい──そうだ、柔らかいのだ。表情が、というよりもきっと、声や雰囲気が。今まで対峙したどの時よりも余裕が見て取れる。 
 何を競っているわけでもないのに、じわじわと胸を満たすのは敗北感だ。おかしな話である、私は一体何に負けたというのだろうか。自分を笑い飛ばしてやりたい。そう思うのに、出来なかった。

「……お褒めに与り、光栄です」

 なおざりに頭を下げてから、しまったと思った。さっきも同じことを言ったばかりである。これでは馬鹿の一つ覚えみたいじゃないか。
 しかし、一度言ってしまった言葉は今更どうあがいたところで引っ込められやしないのだ。苦し紛れに「恐縮です」と付け加えれば、ジャーファル様はまた微笑んだ。それは軽笑の類いではなくむしろ朗笑であって、人の良さそうに見える笑みだというのに、なぜだか感じるのは苛立ちばかりだ。
 そこでようやく気がついた。私は自分で思う以上に余裕が無いらしい。いつから無くしたのだろうと考えてみたところでいつだか分からないが、とにかくこのままの状態でいるのは良くないということだけは確かだ。何にせよ私は言われた通り魔法を使って見せたのだから、あとはジャーファル様が出す結論を待つのみなのだと自分に言い聞かせ、背筋を伸ばす。苛立ちが良い結果を齎したことなどない。深呼吸しながら彼のそばかすの数でも数えて落ち着くのが良いに決まっている。
 一つ、二つ、三つ。白い肌に点々と散らばるそばかすを数え始めたところで、ジャーファル様が口を開いた。余裕を取り戻せたかと問われれば間違いなく否なのだけれども、ひとまず数えるのは中断して耳を傾ける。

「先程の魔法を見る限りでも、あなたは即戦力となり得そうです。てっきり戦闘向きだとばかり思っていましたが、警護にも応用が利きそうですね。賊を生け捕りにも出来る」
「…殺すことしか出来ない杓子定規な人間だとお思いだったのですか」
「ええ。正直なところ、それ以外の力加減を知らないのではないかと思っていました」
「……」

 ちょっとジャーファルさん、それはさすがに。
 咎めるような声がしたけれども、彼の言い分は必ずしも言い過ぎではない。訓練は殺すことを目的としていて、覚えた魔法もそれを使って誰かを殺すことを目的としていた。だから、間違いでは、ない。むしろ非常に的を射ていて、彼が揺さぶりをかけていると考えるのが妥当である。そして、そうであるなら私は、「そう思われても致し方ないでしょうね」と笑みの一つでも浮かべて余裕ぶって見せるべきなのだろう。頭では分かっている。
 それなのに、出てきた言葉は全く別の物だった。
 
「私は…いつだって、人を殺したくなんてなかった……、人を殺さない生き方を、知っているから」

 絞り出した声は低く、微かに震えていた。自分でも驚いて、ぐっと拳を握り締めて歯を食いしばる。違う、私が言いたかったのはこれではない。ここでこんな風に余裕をなくして、良いことなどあるはずないのだ。本音は押し込め。揺らぎを見せるな。言い聞かせてみても、心はざわざわと落ち着かない。シャルルカン様に似たようなことを言われたときは平静でいられたのに。なぜだろう、今は憤りか悔しさか、あるいはそのどちらもがない交ぜになって、胸の内をのたうち回っている。
 ジャーファル様にだけは言われたくなかったのだろう、と頭の片隅に思った。いくらシンドリアの政務官として真っ当な現在を生きていようと、彼は私と同じ暗殺者であった。その事実だけは、どうしたって変えられない。彼と私、暗殺者としての道に足を踏み入れた理由も違えば価値観も違って、“人殺し”をどう考えていたかも当然違うだろう。けれども、力加減を知らなかった可能性は共通しているはずで、私だけがそれを突きつけられるというのは不愉快だった。

「……もう、ご用はお済みでしょう。お仕事に戻られなくて宜しいのですか」

 どろどろと黒い感情がとぐろを巻いて、気分が悪い。私はジャーファル様のそばかすを見つめて言うと、無理矢理口角を引き上げた。出来るならば、私のほうからさっさとこの場を離れて部屋に戻ってしまいたかったけれども、生憎私の今日の仕事はヤムライハの補助である。彼女が終わりを宣言しないうちはほっぽりだして帰ることなど出来ないから、ジャーファル様にお引き取り願うしかない。そんな私の心情を知ってか知らずか、ジャーファル様は穏やかに頷いた。

「そうですね。そろそろ戻るとしましょう。お気遣いありがとうございます」
「いえ。私などのことに時間を割いて頂いたせいで、万一にも政務を滞らせてしまうようなことになりましたら、私は、国中の方に申し訳なくて顔を上げられませんので」
「大丈夫ですよ、今日はいつもより余裕がありますから。それにしても、その姿勢、少しは王にも見習って頂きたいものです」

 私はもう何も言わずに深く頭を下げた。丁寧に言葉を交わすだけの余裕がない。なぜこんなにも感情を上手く制御出来ないのか、自分で自分が分からなかった。
 もう、いよいよ本当に私は駄目なのかもしれない。
 ここに来てからずっとだ。ずっと、自分という輪郭が不明瞭なのだ。感情を抑え込む術だって私はちゃんと知っていたはずなのに、どうやらこの短い期間にすっかり忘れてしまったらしい。先の見えない暗闇の中で唯一確かであったはずの足場さえもが、がらがらと崩れていくような心地がした。

140726
- ナノ -