眩しすぎてもう名前も呼べない


 中に入ると、そこにはシンドバッドしかいなかった。机の上には巻物やら羊皮紙やらがごちゃごちゃと積まれており、お世辞にも片付いているとはいえない。しかし机は勿論のこと、彼が腰掛けている椅子は豪奢なものだ。彼は私の顔を見ると穏やかに微笑んだ。

「おかえり、エル」

 それはとても懐かしい響きで、胸が苦しくなる。昔の私なら、きっと笑ってただいまと言っていただろう。今の私には到底言えやしなかった。私はただ置いてもらっているに過ぎない身であって、本来ならばここは私が帰って来るべき場所ではないのだ。黙ったまま手を組み、シンドリア式の礼をする。後から部屋に入ったマスルールが、遅くなった詫びを入れた。

「いや、それくらい構わないさ。手間をかけさせたな」
「…いえ。俺はここにいないほうが?」
「このあと用事があるなら無理にとは言わないが、いてくれたほうが助かる」
「言っときますけど、ジャーファルさんにバレて怒られても俺はどうにもできません」
「それは…まあ、なんとかなるだろう」

 シンドバッドは笑って言うが、一瞬微妙な顔をしたのを私は見逃さなかった。私が刃を向けたところでシンドバッドに傷一つつけられないだろうけれども、それでも、やはりもう少し警戒するべきではないだろうか。ジャーファル様の気苦労を思えば、今すぐにでも私は立ち去るべきに違いない。とはいえ、王直々に呼ばれているのだから、勝手に下がることなど出来ないのである。姿勢を正してシンドバッドを見れば、彼は小さく苦笑した。

「もっと楽にしてくれ」
「そういうわけには参りません。王の御前にいるのですから、」
「俺はお前に余所余所しい態度をとってほしいわけじゃないんだがな」
「……ご期待に添えず申し訳ございません」

 らちがあかないと思ったのだろう、それ以上は言わず、咳払いを一つして話題を変えた。

「初仕事だったのだろう? どうだった?」
「皆様にご迷惑をおかけしないかが何よりも不安だったのですが、ひとまず大きな迷惑はおかけせずに済んだのではないかと安堵しております。私のような者に仕事を与えて下さったこと、本当になんと申し上げたら良いか……」
「礼ならジャーファルに言ってくれ。エルの仕事に関しては全面的にあいつの采配だからな。……うん、本当に良かったよ」

 彼は何を安堵しているのだろう。計りかねているうちに、シンドバッドは徐に立ち上がった。夜空のような深い色をした髪が揺れる。
 ──あの髪を編んで遊んだことがあったっけ。彼が寝ている隙にこっそりやったものだから、あとから少し怒られたのだ。それでも、最後は笑って許してくれたけれど。
 不意に込み上げた懐かしさを振り払って、目の前に立つシンドバッドを見る。変わったけれど変わらないその瞳は、直視するのが辛かった。

「まだ、自分のことが視えないか?」

 息が詰まる。

「エルはきっとこの国で……明るいところで生きていける。俺はそう確信しているが、エル自身はまだそんなふうに思えないか?」
「…………わかりません」

 喉から絞り出した答えは思った以上にか細くて、情けなかった。本当に、私は、一体。自分のことが分からない。それは今も相変わらずで、未だに暗闇の中を歩いているような気持ちだった。
 シンドバッドは悲しげな笑みを浮かべて私の手を取る。とっさに引っ込めようとしたけれども、強く握られては到底適わなかった。

「俺が視ているから大丈夫だ。そんな顔をしないでくれ」

 自分がどんな顔をしているかなど分からなかったが、彼の切なげな声に胸がきりきりと締め付けられるような気がした。やめて、心が叫んでいる。

「……そんなに、酷い顔をしていますか?」
「ああ、相変わらず迷子みたいだ」

 シンドバッドは私の手を胸元に寄せて握り締め微笑むけれども、その顔はなぜか泣いているようにも見えた。

「商船を守るために、お前も戦ったんだろう?」
「…………はい」
「それならお前のこの手は、ちゃんと何かを守れるんだ」

 ──この手を汚いと言ったことはあった。しかし、人を傷つけることしかできないこの手の厭わしさを、彼に打ち明けたことがあっただろうか。
 見透かされて、いるのだろうか。
 緩慢に首を横に振る。何か言いたい、言わなければ思うけれども、喉がぴたりと貼りついてしまったかのように声が出てこない。シンドバッドはそんな私をじっと見つめ、静かに手を持ち上げると掌に口付けた。突然のことに身を固くする私とは違い、彼は柔らかな笑みを浮かべている。

「……っなに、を」

 このままでは流されてしまう。ぼんやりとそう感じた。流されては駄目だ。私は許されてはならない。私が手を振り払おうとするのと、部屋の扉を叩く音がしたのはほぼ同時であった。

「シン、入っても宜しいですか?」

 ジャーファル様の声である。それに「ああ、入れ」と答えながら、シンドバッドは私の手を放した。自由になった手をさっと体の前に戻して握り締める。
 扉を開けて音も立てず部屋に入ってきたジャーファル様は、まずシンドバッドと 向かい合う私の姿を見、それから控えているマスルールを見た。素早く視線を動かしながら、ほんの一瞬僅かに眉をひそめる。しかしすぐに平生に戻るあたりは、流石というべきだろう。ジャーファル様は私を意に介す素振りも見せず、そのまま私を挟んでシンドバッドに向き合った。

「外勤から戻ったスパルトスの報告に、少々気になる点がありました」

 ちらと私を一瞥し「彼女の戦い方についてなのですが」と続ける。私はマスルールと共に退室するべきなのではないかと思い一歩後退ると、意外なことにジャーファル様がそれを引きとめた。

「せっかくいらっしゃるのですから、直接お伺いしても?」

 問いかけの形をとってはいても、そこに私の拒否権など存在しないことは明白である。果たして何が彼の気にかかっているのだろう。分からないまま、人の良さそうな笑みに頷き返した。

140612
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