きらめきとは無縁


 港に着いた頃には日も落ち、辺りは夕闇に包まれ始めていた。船を降りて地面を踏みしめる。船酔いなどする質ではないから良いけれども、海の上は絶えず揺れるものだ。そこに長い間居たあとに揺れていない地面を踏む感覚はやはり奇妙で、しかし安心するような気がした。
 港にはまばらに人影があり、その中には今やすっかり見慣れた赤髪の青年の姿もある。私より先に船を降りたシャルルカン様も気付いたらしく、「よう!」と手を挙げた。

「出迎えに来るたぁ感心だな!」
「先輩の出迎えに来たわけじゃないっすけど」
「あ? じゃあエルハームさんか?」
「……はい、まあ」

 続いた言葉は、「シンさんが連れて来いって」だった。呼びつけられるならジャーファル様にだとばかり思っていたために、それは少し予想外であった。尤も、連れて来るよう言ったのはシンドバッドでも、行った先にシンドバッド一人とは限らない。
 マスルールは私が来るのを待っているようだったので側に近づいていくと、ちょうど彼の目の前に立ったときそれはもう心底嫌そうに顔をしかめた。普段は表情の変化に乏しい彼が、まさか突然そういう顔をするとは思いもよらずに面食らう。一体どうしたというのか。首を傾げると、彼はぼそりと呟いた。

「臭い」
「えっ…?」

 思わず自分で自分の匂いを嗅いでみるも、特に何も感じられない。強いて言うならば潮の香りがするが、海に囲まれたシンドリアでは常に感じる匂いでもある。それでもすんすんと鼻を鳴らしていれば、シャルルカン様がからかうように笑った。

「汗臭えんじゃねえか?」
「そ、そうですか……?」
「いえ、違います。先輩臭です」
「はあ!?」
「先輩エルさんに何かしたんすか」
「何もしてねえよ!」
「でも先輩臭いっすよ……特に右側と肩が」

 マスルールがそう言って指差すので、右腕を持ち上げて匂いを嗅いでみる。言われてみれば、微かに何かお香のような匂いがするような気がしないこともない。言うまでもないが、私はそういったものをつけない。確かにシャルルカン様はよく私の右側に立っていたし、肩を掴まれもしたから、彼の匂いが移ったというならそうなのかもしれなかった。
 ファナリスの鼻が利くのは知っていたけれども、これは些か予想外である。シャルルカン様がマスルールに文句を言うのを、ただ感心しながら眺めた。
 すると不意にシャルルカン様がこちらを振り向いて、「なあ!」と言った。何やら必死の形相である。同意を求めているらしい、ということだけは分かったけれども、話をろくに聞いていなかった私は、何に同意を示せば良いのやらまるで分からない。仕方なしに曖昧に頷けば、彼は眉根を寄せて唸った。

「話聞いてなかっただろ」
「……すみません。何のお話でしたか?」
「俺がエルハームさんに何かしたんじゃないかって」
「ああ、それなら何もありませんでしたよ」
「ほらな!」

 シャルルカン様はどうだと言わんばかりに胸を張った。それをマスルールは鬱陶しそうに見ている。これもまたあまり見ない、珍しい表情だ。

「……行く前と随分態度が違うのは」
「それは、私がそのようにお願いしたのです。それが自然な在り方ですから」

 そう答えると、マスルールはなぜだかますます不機嫌そうな表情になった。その視線の先を追って見れば、シャルルカン様が得意気な表情をしている。今までの話題の中に、何か彼が誇るような事柄があっただろうかと考えてみても、思い当たる節は全くない。
 私が怪訝な顔をしたのに気付いたシャルルカン様は、わざとらしく溜息を吐きながら口を開いた。

「おいおいマスルール。いくら俺が先にお前が気に入ってる女と仲良くなっちまったからって、そういう態度はどうかと思うぜ?」
「…………何の話すか」

 やれやれ仕方ないと言わんばかりの口調であったが、それに対するマスルールの返答は心なしか冷ややかであった。しかしそれも無理はあるまいと私は思う。シャルルカン様はなにやら大きな勘違いをしているらしいのだ。その上、勘違いしているという事実にまるで気がつく気配がない。
 マスルールは鬱陶しそうに目を細めたあと、私の顔をちらと見てから呟いた。

「勘違いも度を超すと可哀相っすね」
「てめえ喧嘩売ってんのか?」
「いえ、別に」
「この野郎……!」

 その様子は見ていてなぜだか楽しくて、思わず吹き出すと、すかさずシャルルカン様はそのじとりとした目をこちらに向けた。私は澄まし顔で事実を述べる。

「私とマスルール様はシャルルカン様が思っておられるような仲ではありませんから」
「でもマスルールはあんたのことエルさんって呼んだぜ」
「偶々です」
「偶々ぁ? 普段は違うってのか?」
「ええ」
「じゃあなんでさっきはエルさんなんて呼び方したんだよ」

 一瞬言葉に詰まった。その間に計ったようにマスルールが口を挟む。

「先輩」
「なんだよ」
「エルさんって呼んだのは先輩の前だからで、普段はエルって呼んでます」
「……は?」

 ぽかんとしたシャルルカン様はマスルールと私を交互に見やり、私の顔を凝視した。どういうことだ、と言わんばかりの目であるけれども、それを訊きたいのは私も同じである。お互いのため、敬語を無しにするのは状況を見てということであったはずなのに、なぜこうも唐突に打ち明けてしまったのか。
 しかし、マスルールは非難も詰問もする間を与えてくれなかった。
 いつも通りの無表情に淡々とした口調で「じゃあシンさんを待たせてるんで」とだけ言うと、軽々私を抱え上げ、まるで荷物のように担いで地面を蹴った。呆気にとられたシャルルカン様の姿はあっという間に見えなくなり、気づけば王宮の前である。門の前でおろしてもらえるかと思いきや、マスルールは適当な窓から王宮に入り、私を担いだまま歩いていく。すれ違う侍女や文官達が皆ぎょっとしたように目を見開くのがなんともいたたまれない。

「おろしてはもらえないのかな」
「この方が早い」
「……そう」
「どうせもうすぐ着く」

 その言葉通り、幾ばくも経たずに彼の足は止まった。ようやく降ろされて、私は皺の寄ってしまった服を整える。
 シンドバッド一人か、それともジャーファル様も一緒なのか。どちらにしても、先程終えたばかりの初仕事について訊かれるだろうことは予想出来る。いつの間にか強張っていた頬を、どこかの窓から入り込んだ夜風が撫でた。

140606
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