ただのひとりのにんげんでした


side ジャーファル


「……私に出来る仕事があるのでしょうか」

 彼女はまだ少し戸惑った様子で、これからどうするかという私の問いに問いで返した。自分の立場を理解しているらしいことはこれまでの会話からも窺い知れていたため、この問いは想定内である。

「もちろんありますよ。仕事内容にもよりますが、人手はあるならあるだけ欲しいですからね」
「そうですか……」
「どう生きていくかは、しばらくこの国で真っ当に暮らしてみて、それから考えれば良いでしょう。おそらく王もそうおっしゃると思います」
「…………それもそうかもしれませんね。許されるのであれば」

 そう言って彼女は目を伏せる。彼女の身柄をどうこうすることが出来ない以上、私にとってもこれが一番良いだろう。なるべく目の届くところにいたほうが、監視するにしろいざという時の対応にしろ何かと好都合だ。彼女の能力をより正確に把握することもできる。

「では、詳細はまた後程ということで」
「はい……ありがとうございます」

 人手の足りず、且つ彼女にさせられるような仕事を早急に検討せねばならない。単純に人員不足という点でいえば文官なのだが、彼女が間者である可能性を考えれば却下である。何にせよ、監視役として八人将の誰かはそばに付けたいところだ。
 開いている窓から入り込んだ少し強いぬるい風が、彼女の髪と私のクーフィーヤを揺らした。気づけばこの部屋に来たときよりもだいぶ高い位置にまで日が昇っている。思った以上に長居してしまったらしい。それなりの収穫も得たことだし、そろそろ政務に戻ったほうが良いだろう。
 再び目線を彼女に戻すと、彼女はいつの間にか私を見据えていた。その目に、不意に昔を思い出した。
 もしも自分がシンについて行かなければ、彼女は──いや。
 自分がシンについて行かなかったとしたら、それにはおそらくどちらかの死を伴う。自分がシンドバット暗殺に失敗し死ねば、結局彼女が後釜にされたのだろうから、どのみち同じことだ。彼女がパルテビアの王宮に連行されたこと自体には、自分は何の関係もない。……しかし、彼女のこれまでの人生に期せずして自分が関わっていたことはやはり事実である。詮無いことと分かっているのに、一度考えてしまうとなかなかやめられない。人を殺すことを躊躇わなかった自分と、人を殺したことで自らが殺害されることを望むようになった彼女。果たして、どちらが───。

「……あの」

 突然聞こえた控えめな彼女の声に、はっと我に返った。一呼吸おいて、平静に返事をする。

「…はい、なんでしょう?」
「一つお訊きしたいのですが、ドラグル・ノル・ヘンリウス・ゴビアス・メヌディアス・パルテヌボノミアス・ドゥミド・オウス・コルタノーンという方をご存知ないでしょうか」
「……え?」

 長い名前に一瞬ぽかんとしたが、それはその名に呆気にとられたからでも心当たりがなかったからでもない。知っているも何も、八人将が一人の名だ。彼女だって顔は合わせたはずの人物の本名である。
 しかし、彼女は話が上手く伝わらなかったと取ったのか「ですから…」と、深く息を吸い込んだ。

「ドラグル・ノル・ヘンリウス・ゴビアス・メヌディアス・パルテヌボノミアス・ドゥミド・オウス・コルタノーン。そういう名を持つ方を、ご存知ないでしょうか。敬愛するかのお方から、此処へ遣わされる折に言伝も預かっているのです」
「知っていますが……貴女も既にご存知の方ですよ」
「……、ドラコーン様、でしょうか」

 頷くと、彼女はやはりと言う顔をした。

「その名でドラコーン将軍をお呼びする者はいませんが……よく分かりましたね」
「パルテビアの軍人だったとお聞きしたので、もしやと思っておりました。名前も……昔、迷宮から戻ってきたあの人が、長たらしい名の軍人と闘ったと話していたような気がして」

 “あの人”というのが誰を示しているのかは明白であるが、名前を呼ばないことが少し引っかかった。マスルールの話から、てっきりシンと呼ぶものだと思っていたのだ。私との会話の中であるから、改めたのだろうか。一度、マスルールに詳細を確認しておこうと決めながら、彼女の言葉に相槌を打った。

「そうですか。しかし、将軍もお忙しい方ですから…」
「ええ、お邪魔は致しません。いつか機があれば。そのようにも仰せつかっておりますので」
「いつか機があれば…と?」
「はい。もしドラグルという方を見つけられて、機があるならば、と」
「それは………」

 それは、奇妙なことではないか。彼女の話では、そのお方とやらは、彼女に死ぬ機会を与えるためにシンドバット王暗殺という途方もないことを命じたということであった。シンドバット王に適うはずもないのは承知の上で、死ぬことを分かった上で彼女を寄越したというなら、言伝は暗殺の前に済ませてしまわなくてはなるまい。そうでなければ、言伝など命じるだけ無意味だろう。つまり、端から伝えさせるつもりがなかったのか──あるいは。

「……貴女は、その言伝の命(めい)を確かに果たしたいと考えているのですね?」
「出来るならば。……あの方は、無理にとは言わないと仰いました。『お前にとって順調に事が運べば言伝などする間もないだろうから、これは命(めい)というより“お願い”だ』と。私はそれを叶えられないだろうことが心苦しかったのですが、結局、生き長らえてしまいました。なればこそ、私は、その“お願い”を叶えたいのです。それがせめてもの恩返しになるのであれば、尚更」

 切実な光を宿した双眸が私を見た。
 ここまでの会話で彼女は聡いほうの人間であると感じていたのだが、しかし、案外と馬鹿なのかもしれない。そして、彼女が敬愛しているというそのひとも、同じ見解だったのだろう。
 彼女が馬鹿みたいに真っ直ぐで、“お願い”という言葉を反故にすることが出来ないと知っていて──ある種の賭けに出たのだろう。シンドバットという男が、かつて差し向けられた暗殺者の餓鬼を懐柔したように、パルテビアの一軍人を連れて行ったように、妹分である彼女を引き入れることに賭けたのだ。彼女が暗殺にも死ぬことにも失敗したとき、その“お願い”を叶えようとすることも確信していたに違いない。だから、機があればなどと曖昧な言い方をしたのだ。そうすれば、少なくとも預かった言伝を伝える時が来るまでは彼女は死に消極的になる。
 彼女自身は、おそらくそれに気づいていない。敬愛するそのひとが彼女の生を望んで策を講じたことも、今まさにその思惑通り行動してしまっていることも、気がついていない。
 だからといって何かしてやるつもりもないが、彼女を思う者にとって現状は良好といって良いだろう。ただ、私にとってもそうであるかは何とも言い難いところである。間者である可能性は未だ消えていないのだ。いつの間にか揺らぎかけていた警戒心や猜疑心を、もう一度しっかりと抱き直した。

140509 
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