逃げ道すら失ったよ


 ジャーファルという名前だけは、ずっと前から知っていた。パルテビアの王宮で忌々しげに囁かれていたからだ。
『シンドバッドの暗殺には失敗し、あまつさえ奴に付き従うとはなんたることだ!』
 時折囁かれるその話だけで、会ったこともない彼を嫌うには充分であった。シンドバッドを殺そうとしたというだけで怒りを覚えたし、シンドバッドについて行ったことも気に入らなかった。
 やはり餓鬼は言いくるめられやすい。ジャーファルの二の舞にはしてはならぬ。
 大人達のそんな話を小耳に挟むだけで、胃がむかむかした。彼がシンドバッドについて行ったりしたせいで、私は今、こうも自由を奪われるのだと思った。今思えば、運命を恨まなかった代わりのようにジャーファルという少年を恨んだのかもしれない。運命なんて漠然としてよくわからないものよりも、画然とした一人の人間を恨むほうが、ずっとずっと分かりやすかったのだろう。
 顔も知らずに何年も憎んできた彼が、しかし今は目の前にいて、向き合っている。一歩退いた視点からその状況を見つめ直すと、随分と滑稽な感じがした。それにしても、目の前の彼が例のジャーファルと同一人物であるのは間違いないが、話に聞いていたのとは大分異なった性格をしているようである。嗚呼、彼もまた変わったのだなと、ぼんやりと思う。

「……貴女は私を知っていたのですね」
「ええ。貴方の代わりにされたようなものですから、私、貴方のことを恨んでいました」
「それは残念です。ひょっとして、本当の目的はシンドバッド王ではなく私の殺害でしたか?」
「いいえ、まさか。私は私が死ねるなら、それ以外は望みません。そもそも貴方を殺すことは、今回の任務には含まれておりませんから」
「でも憎いのでしょう、私が」

 表情が変えずに淡々と言う彼に、今度は私が眉をひそめる番だった。私が憎しみに駆られ彼を攻撃すれば、正当に私を処分出来るという算段だろうか。もしそうであるなら、私としては願ったり叶ったりだ。そう考えると、なぜか胸の奥が少しだけざわりとした。死にに来たのだからそれで本望だろうと自問するけれども、胸の奥がざわめくだけで答えがでない。
 しかし、このざわめきを払い、答えが出るまで黙り込むわけにもいかない。どうせ彼には見抜かれるのだろうからと隠すこともなく深呼吸をして、口を開いた。

「……憎かったですよ。けれど、今は殺したい程憎いわけでもありません。今も貴方のことは好きにはなれませんが、少し、感謝をしています」
「感謝……?」
「私は運命ではなく貴方を恨みました。おかげで、今もまだ堕転せずにおります。それに、貴方が私を疑って下さるので、私は安心したのです」

 ジャーファル様は困惑を隠さなかった。どうせ隠したところでバレるだろうと、私と同じ判断をしたのだったら面白い。そのまま見ていたら笑ってしまいそうだったので、言葉を続ける前に目を伏せた。

「私は信用されることに慣れておりません。慣れていないものは、何であれ居心地が悪いのです。貴方のその揺るがない警戒心のほうが、私にとっては慣れたものですから、有り難かったのです」

 疑われていることで、自分の立場を忘れずにいられたとも思う。シンドバッドを始めとして、多くの者が私を客人のように扱うものだから、おこがましくも錯覚してしまいそうだった。
 それ程にシンドバッドは私を疑わない。度を超す程に警戒心がない。それが彼の強さ故だとしても器の大きさ故だとしても、私を信じる根拠があまりにも無さ過ぎる。そのときふと、その行動の根本にあるものに私は思い当たって目を開いた。
 ──そうだ、きっと。

「信頼する貴方がそうして疑うからこそ、シンドバッド王は疑うことをやめられるのですね」
 
 その途端、ジャーファル様が目を大きく見開いた。余程意外な言葉だったと見え、彼はそのまま何も言わなかった。私も何も言わなかった。窓から入る温い風だけが音をたて、私達の間を吹き抜けていく。いつの間にか太陽は話し始めたときよりも大分高い位置にあった。今日もシンドリアは快晴らしい。ややあってジャーファル様が口を開いたので、私は窓の外に向けていた目を再びジャーファル様に戻した。

「貴女は国に帰るつもりはないのですか?」
「……帰るつもりも何も、帰れるわけないでしょう」

 唐突な問いに戸惑いつつも、真っ直ぐに彼を見据えて答える。セレンディーネ様がどういった意図で私をここに遣わしたかを考えたなら、帰るという選択肢などあるはずがない。仮にその選択肢があるとしても、帰りたいとは思えなかった。

「なぜそのようなことをお訊きになるのです? 大人しく国に帰るなら命は助けるとでも?」
「いいえ、そうではありませんが。……私に、貴女の命をどうこうする権限はありません。仮に貴女を殺しかけようものなら、シンが絶対に許さないでしょう」
「…………」
「貴女はこの国では死ねない。かといってシンを殺して国に帰ることも出来ない。これから、どうするつもりですか?」
「……この国で死ねないなら、別の国へ。別の強者の元へ向かうしかないかと」
「シンが許しはしないと思います」
「……だったら……だったら私は、どうすれば良いのでしょう」

 私は、いい加減気づいていた。決められないのは、自分の本心が分からないからだけではない。私は今まで自分で何かを決断する事がなかったから、今も自分で決断出来ないのだ。私が最後に決断したことは、そう、シンドバッドの旅について行かないということ──そして、シンドバッドに殺されて死のうということ。それらを決めて以降は、決断なんてしてこなかった。確かに些細なことは自分で決めてきただろう。暗殺に使う毒、魔法、作戦。与えられた休息の使い方。しかし、大きな決断はいつだって私でない誰かがして、私はそれに従うだけだった。
 ──私が自分でした決断はいつも間違いだらけ。
 シンドバッドの旅について行けば良かった、そうしたら私は暗殺者などならずに済んだ。
 シンドバッドに殺してもらおうなどと考えなければ良かった、そうしたら私はこうも迷わずに済んだ。
 それを思うと、何かを決断する決心など出来なくて、いっそ誰かに委ねてしまいたいとすら思う。

「私には決められない……後にも退けない、前にも行けない……どうすれば、良いのでしょう」

 情けない奴になったものだなと、心の中で誰かが嗤う。耳を塞いでしまいたくなったけれども、そんなことをしても何にもならない。ジャーファル様を見据えることで気を紛らわした。
 不意に、ジャーファル様が溜息を吐いた。長い溜息だった。

「王はその気になれば、貴女の生など簡単に…確実に縛ってしまえる。なのになぜそれをしないのか、少し分かったような気がします」
「それは……どういう……?」
「……どれだけ悩むことになろうと、貴女は最後には自分の意志で決断しなければならないということです」

 思わず掌の握り締めようとして、いつの間にかもう堅く握り締めていたことに気づいた。掌に、あまり長くはない爪が食い込んでいる。
 もう嫌なんだ。
 そう叫んでしまいたい。それでも叫ぶことなど出来ないから、代わりにもならないけれど目を伏せた。

140425 
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