僕が救いだしてあげるからどうか右手を差し出して


side シンドバッド


 エルの部屋をあとにすると、ジャーファルは咎めるような口調で言った。

「彼女に殺意が無いことを私に見せるために、わざとこんなことを?」
「さあ、どうだろうな」

 肩を竦めて見せると、ジャーファルは問うだけ無駄と判断したのだろう、溜息をひとつ吐いて黙り込んだ。マスルールは相変わらず何も言わずに後をついて来るだけだ。
 今の問いに正確に答えるならば、初めからそのつもりだったわけではない。俺があいつの部屋を訪ねたのは、単に話がしたかったからだった。ヤムライハと話をしたことで、エルが幾らかでも前向きになれたのかどうかを知りたかった。ヤムライハの報告では、今後のことを一緒に考えようというヤムライハの申し出をはっきりと断りはしなかったということだし、握った手を振り払うこともなかったらしい。だが、だからといってエルがヤムライハの申し出に受け入れたわけでもないことを俺は確信していた。あくまでも“断らなかった”だけのことなのである。あるいはそれだけでも少しは前進したといえるのかもしれなかったが、まだ足りない。エルはおそらく決断しかねている。『俺に殺されるために』──それは誉められたものではないにせよ、エルなりに貫いてきた信念であったのだ。それを失って、今、迷っている。エルが生きたいと思うためには、どうすればいい。それを決断させるための決定的な──今は欠落している──“何か”が必要だ。
 そう思っていたところに、マスルールと外出する話を聞いた。少し驚きはしたが、良い変化には違いない。渡した金は手付かずのままマスルールから返されたが、想定内のことだった。それでも、この外出が何かきっかけになってくれていれば。それを確かめるために、俺は、一人エルの部屋を訪ねたのである。
 ジャーファルが言うようにエルに殺意が無いことを証明することになったのは、どちらかというと想定外で、ほぼ成り行きと言って差し支えない。話の中で泣きながら気を失うように眠ってしまったエルを、俺はなぜか置いていけなかった。王宮内の、彼女にあてがった部屋だ。危険など何も無いし、目を覚ましそうにない以上話は切り上げるほかなかったのだから、ベッドに寝かせておけば良かっただけのこと。それでもどうしてもそばに居てやりたくて──結果、今に至る。
 カツカツと廊下に響く足音を聞きながら昨夜の会話を思い出し、これであいつが心を決めてくれたらと一人嘆息した。
 好意的なヤムライハとは引き合わせた。
 マスルールとはいつの間にか距離を縮め打ち解け始めている。あの耳飾りも、マスルールが買ってやった物なのだろう。そういう“関係”では、あいつを引き止めるもの足り得ないのだろうか。
 思案しながら歩く俺の横で、やはりジャーファルも思案顔をしていた。ただし、その内容が大きく異なることは訊くまでもない。ジャーファルとエルの和解──というよりはジャーファルの説得も、早いところどうにかする必要がある。そんな俺の考えを見透かしたかのように、ジャーファルがおもむろに口を開いた。

「シン」
「なんだ」
「私は、いくら貴方が彼女のことを信用していようと、簡単に彼女への警戒を解くことはできません」
「分かっているさ。それがお前の仕事だということも含めてな」

 そして、おそらくエルもそれを見抜いている。だからこそ、エルが生きていくと決断できるようになるまではあまり近づけたくないというのが正直なところではあった。本気で死にたいのであれば、エルはジャーファルの前でわざとらしく悪事を働くくらいのことはするかもしれない。エルを疑っているジャーファルからすれば、それは、エルを処罰する正当な理由になる。 そんな事態は、全力で避けねばならなかった。
 しかし、そう悠長なことも言っていられない。今回のことがどう転ぶのか。───これはいわば、ある種の賭けだ。

「ジャーファルがあいつを信用出来ないとしても無理もない。なにせ俺は、あいつがここに来た経緯の全てはお前に説明していないからな」
「……やはりそうでしたか」
「すまない。隠すつもりはなかったが……あいつの許可無しに他人に語るのが憚られたんだ。俺が直接聞いたわけでもなかったし」
「と言うと…?」
「俺は、エルがマスルールに語るのを盗み聞きしたにすぎん」

 ジャーファルは訝しげにマスルールを振り返る。
 マスルールは直接聞いたのですか。はい、まあ。
 さほど興味も無さそうにマスルールが答えると、ジャーファルは眉間の皺をさらに深くした。

「なぜ」
「成り行きっすかね。シンさんに話すかは任せるって言われて……まあ結局シンさんは盗み聞きしてたんで、話す必要はなくなりましたけど」
「何か、彼女の話で気付いたことはありましたか。不審な点とか」
「俺は、特には。嘘を言っているようには見えなかったです」
「嘘は言っていなくても何かを隠しているとか、」
「まあまあ、ジャーファル。朝議のあとで話をしに行くんだろ? そのときに自分で判断するのが一番良いさ」
「……そう、ですね」

 頷きはしたものの、相変わらずジャーファルの表情は険しい。性格、立場、役割、責任。そういった諸々がジャーファルを疑い深くし、ただでさえ絶えない気苦労を増やしているのだろう。それは良くもあり悪くもあるが、全て俺に起因することも知っているから、口を出すことなど出来るはずがなかった。否、たとえ出来たとしてもしないつもりではあるのだが。
 自室を目前にして、少し声の調子を変えて「ひとまずこの話は終わりにしよう」と言えば、ジャーファルも同意した。

「朝議まで時間がありません。早く身支度なさってください。万一にも王が遅刻しては、他の者に示しがつきませんよ」
「ああ、そうだな」

 切り替えたようにいつもの調子に戻ったジャーファルに急かされる。言っていることは確かにその通りで思わず頷き返したが、ひとつ言っておこうと思い向き直った。

「なあ、ジャーファル」
「はい?」
「お前にも色々思うところはあるだろう。お前の行動は、間違っていない」
「………」
「俺はエルを信用している。だが、迷わずそう出来るのは、お前が疑ってくれるからだ。お前が徹底して疑ってくれるから、俺は安心してエルを信用出来る」
「……それは……むしろ、逆でしょう。貴方が簡単に信用してしまうから、私が疑わざるを得ないんです」
「はは、そうか? だとしたら──いや、だとしても、それは大した違いじゃないさ」

 困惑したそばかす顔を見ながら考える。
 もし、ジャーファルがエルを安全と判断し、信用するに足るとみなしたなら。一番に力になってやれるのは、他でもないジャーファルだろうと思うのだ。元暗殺者同士だからというわけではないが、なんとなく、二人はどこか似ている。

「ジャーファル、俺はお前を信頼しているんだ」

140414 
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