まぶしいばかりの残像


 知らぬ間に零れ落ちてきた涙を、シンドバッドは手を伸ばしてそっと拭った。それでもぽろぽろととどまることを知らずに零れ落ちるから、私は自由な方の手で目元を覆う。嗚咽が漏れないよう唇を噛みしめると、シンドバッドの腕が私を抱き寄せた。押し退けることなど出来そうもない。身を任せながら、しかし嗚咽だけは絶対に漏らすものかとより強く唇を噛み締めた。血の味が滲むのも構わない。とにかくこれ以上甘えてはいけないと自分に言い聞かせた。
 涙が止まる頃、ようやく私を離したシンドバッドは、唇に滲む血を見て顔をしかめたが何も言わなかった。代わりに、ずっと黙って控えていた鱗の方が口を開いた。

「この国には、元暗殺者でありながら今は王の右腕とも呼べる政務官がいる。だから、安心すると良い」

 それが私に向けての言葉であることに、少し時間がかかった。ぼんやりと鱗の方を見つめる私の顔は、さぞ間抜けであったことだろう。シンドバッドがそうだなと相槌を打ったところでようやく気づいた私は、思ったことを口にした。

「それは、あのジャーファルという方のことですか」
「知っていたのか」
「いえ。ただ、暗器の扱いに非常に手慣れていたのが印象的だったのと……名に覚えがありまして」

 それだけで思い至ったのだろう、シンドバッドと鱗の方はそうかと頷いて黙り込んだ。マスルールさんはこの話に興味さえ無い様子に見えたが、もともと無表情なので実際のところはよくわからない。
 私はこれからどうすべきか途方に暮れた。シンドバッドは私を殺してくれないし、殺させてもくれない。生きろとは言わなかったが、死に急ぐなと言った。ずっとシンドバッドに殺されて終わろうと思って生きてきただけに、それ以上の生など考えられないのである。まるで私が絆されたかのように皆思っている様子だが、私の本心はまだ変わっていない。こうなればもう自ら首でも斬るか、あるいは別の誰かに殺してもらうかだ。別の誰かで思い浮かぶのは、ジャーファルという彼である。彼の前でわざと悪事でもはたらけば、尻尾を掴んだとばかりに処刑してくれるかもしれない。
 そんな私の考えを見抜いたのか、シンドバッドは釘を刺すように言った。

「エル、頼むから馬鹿なことは考えてくれるなよ」

 何も言い返さない私に、彼はさらに言う。

「お前の気持ちがまだ変わっていないことは分かっている。だが、俺の気持ちも変わらない。だから、少し時間をくれないか?」

 ──俺が、生きたいと思わせるから。
 その真剣な目や声に、気圧されてしまったというのが正しい。気づけば私は小さく首肯していた。それを見るシンドバッドの表情があまりにも嬉しそうで、そこに幼い頃の面影を見たように思った。否、私が無理にでも探してしまっているだけなのだろう。
 シンドバッドは先程よりも大分弾んだ声で、「そうと決まれば、これからの身の振り方を考えねばな! 住むところはひとまずここで良いだろう。必要なものがあれば言ってくれ、できる限り用意する。それから──」と口を挟む間を与えないほどだ。立ち上がり歩き回り、子供のように落ち着きがない。きっと今は何を言っても耳に入らないだろう。その証拠に、鱗の方がシンドバッドを落ち着かせようと話しかけているがあまり効果が見られない。
 しかし、徐に口を開いたマスルールさんの言葉が、思いがけずシンドバッドを我に返らせた。

「ジャーファルさん、納得しますかね」

 私の見解では、そう簡単には認めてもらえないだろうと思う。そしてそれは案外的外れでも無さそうだった。シンドバッドが難しい顔で唸り、鱗の方も険しい顔をした。

「ジャーファル殿は手強いだろうな」
「……いや、俺がちゃんと説得する。この国で一番エルに境遇が近いといえるのはジャーファルだ。きっと分かり合えるさ」
「だと良いが……あれでなかなか頑ななところがあるだろう、ジャーファル殿は」
「尚更似た者同士ということで仲良くしてくれればいいんだがなあ」
「そう上手くはいかないだろうな。まあ、王が認めた人間を独断でどうこうすることもないだろうが」

 そんなに難しいのならば無理に生かしてくれなくてもと思うのだが、聞き入れてもらえないだろうことは分かり切っている。私は黙って成り行きを見守った。これといって妙案は浮かばなかったようで、目下 時間をかけて和解するほか無いだろうとのことだ。私にはそれこそ不可能に思えた。彼はきっと私を信用しないし、本来それが正しい判断なのだから。シンドバッドのように信じ切ってしまう方が変わっている。あるいは、彼がそういう人間だからこそ、ジャーファル様はより私を疑うのかもしれなかった。

「……ドラコーン。お前は俺の判断が間違っていると思うか」
「それを私に聞くことが間違いだろう。王はお前だ。ただ…私としても、今の話を聞いてしまっては、彼女に情が湧かない理由がない」
「そうか…」

 そこで話に区切りがついたのだろう。シンドバッドは再び私に向き直った。

「エルハーム。紹介が遅れたが、こいつはドラコーン」

 やや間を置いて、「パルテビアの元軍人だ」と付け加える。それで私が身構えると思っているのか、顔色を窺うような視線が少し居心地悪い。

「よろしく頼む、エルハーム殿」
「ドラコーン様、私などに敬称を付けるのはおやめください。身に余ります」
「しかし、王の昔馴染みであろう」
「だとしても、お気遣いは無用です。生まれてこの方敬語など遣われる立場になったことがないもので、どうにもむず痒いのです」

 どうか、と頭を下げれば、渋々といった様子ではあったが頷いてくれた。律儀な人なのだろう。しかし、王の昔馴染みというだけで気を使われるのは、今もこれからも慣れることがないと思った。所詮は貧しい漁村の出であり、村を出てからは汚い仕事に手を染めた。大層な者でないどころか、下賤も甚だしい者だ。

「エルのことは明日の朝議で皆に知らせよう。ひとまず今日は、この部屋にいてくれ」

 言いながら、シンドバッドは私の髪をそっと梳いた。女でありながらあまり長くない髪はすぐに指をすり抜けて零れ落ちていくのだろう、何度か梳いたのち、わしゃわしゃとかき混ぜる手つきに変わる。

「昔もよくこうしたよなあ」

 懐かしむ響きが鼓膜を揺らし、私も彼のように目を細めた。

140302 
- ナノ -