歪んでごめんね


 この国の王が来たのに、私が座っていてはなるまい。立ち上がろうとすると、シンドバッドは手でそれを制した。向かいに座っていたマスルールさんがすっと席を立ち、椅子をシンドバッドに譲る。そして、鱗の方と共に静かにその後ろに控えた。必然、私は小さな机を挟んでシンドバッドと向き合うことになる。目を真っ直ぐに見据えるのは躊躇われて、少しだけ視線を下にずらすと喉仏が目に入る。ああ、彼はもうあの幼い少年ではない。
 気まずさに耐えかね、私から言葉を発した。

「一体、どこから聞いていらしたのですか」
「すまない。殆ど始めからだ。村に兵士が来たと言ったところから」
「本当に、始めからですね」
「……エル、他人行儀はやめてくれ。俺は、」
「貴方は王、私は忌々しい暗殺者です。今あるこの事実は、過去がどうであれ、変わりません」

 シンドバッドが言葉をなくすのを空気で感じた。私は彼の優しさを受け取れるような立場ではないのだ。はき違えてはいけないと、自分に言い聞かせる。

「……たとえ今はそうであっても、お前と家族のように過ごした過去も事実だし、今がどうであれ、それは変わらないと俺は思う」
「…そうかもしれませんね」

 胸の奥で何かが暴れている。駄目だ。表に出てきてはいけない。膝の上で拳を握って押しとどめる。「あの頃は、楽しかったです」そんな言葉で誤魔化せる相手でないのは分かっていたが、私にも余裕がないらしく、上手い言葉が思い浮かばなかった。
 シンドバッドの優しさに甘えられたらどんなに楽かとも思うけれども、それはしてはいけない。そうしたら私は、死ぬことができない。私は、初めて人を殺した日に、最期はシンドバッドに殺されて死のうと決めたのだ。

「思い残すことも、もうありません」
「俺はお前を殺さない。お前だって分かってたじゃないか」
「分かっていることと、受け入れることとは違います。私は、貴方に殺されて初めて、自分の運命を受け入れることができると思うのです」
「どうして殺されることに拘るんだ。エル、お前は俺のそばで死にたいとさっき言っていたな。だったらそうすれば良いじゃないか。シンドリアに住んで、生きて、幸せに暮らして、そうして静かに最期を迎えれば良い」
「お気持ちは嬉しく思います。ですが、それでは駄目なのです。私は、初めて人を殺した日、その人の苦しげな死に顔を見て思ったのです。こうして人を苦しめて殺めた者が、安らかな死を迎えてはならないと」

 今まで私が殺めた人々の断末魔が、死に顔が、頭から離れない。そのせいだろう、いつしか、私の死もああでなければならないと思うようになった。私には、祖母やエスラさんのように穏やかな死は相応しくない。だから、殺されなくてはならない。

「人を殺めた私は罰されなければなりません」
「だからといって死ぬことは無いだろう。そんなことを言っていたら、この世界の多くの権力者が死ななければならなくなる」
「そうかもしれません。ですが、それはそれです。私は死を以て償う……そうでなければ、私が納得できないのです」

 本当は人なんて殺したくなかった。人の命を奪うものなら、魔法も暗殺術も知りたくなどなかった。言いなりにならない道もきっとあったのだろう。しかし、当時の私にはその道を選べるだけの強さはなく、成長したときにはもう遅かった。今の私は、何の躊躇いもなく命を奪えてしまう。事切れた標的を見ればこそ、嗚呼また私はなんてことをと思うが、それだけなのだ。
 時折、ユナンが言っていた“私次第”という言葉を思い返しては考えた。これは私が選んだ運命ではない。自分の選ばなかったはずの運命を生きている。何度それを呪おうと思ったか覚えていない。
 しかしそれでも、そんな私でも、まだ選べる運命が残されていた。それが“最期”だったのだ。最期を自分で選ぶことで、自分の運命は自分で選んだのだと納得しようとして、そうやって生きてきたのだ。

「私のボルグはそれなりの強度があり、並の攻撃は寄せ付けません。ですが、七海の覇王の前ではきっと、陶器よりも脆いことでしょう。もしも貴方が本意でなく私を殺すならば、悪意無き攻撃です、ボルグは発動さえしないかもしれません」
「……お前の言い分はわかった」
「では、」
「駄目だ。俺はお前を殺さない。部下にも殺させない」

 すっとシンドバッドが立ち上がる。私は顔を上げられないままじっとしていた。彼の意志が固く、私が何を言っても変わらないだろうことはとうに分かっている。それでも言い続けるのは、私にも譲れない意志があるからだった。そして、それをシンドバッドも分かっているはずである。分かっていて、やはり、彼は私の願いを拒むのだ。
 立ち上がったシンドバッドは、部屋を出て行くのかと思ったのにそうはせず、移動して私の隣に膝をついた。そして私と目を合わせるように顔を覗き込んだ。頬に触れた手は少し冷たく、私の名前を呼ぶ声には王のような威厳は感じられない。物悲しい声だった。

「エルが納得できないなら、納得するまで付き合おう。誰もが綺麗なまま綺麗に生きていけるわけじゃない……それは必然なんだ。それでも、皆自分にできる最良のことを探して生きている。運命を恨んでいないお前なら、まだやり直せることがたくさんあるだろう。だから…、だからどうか、死に急がないでくれ」

 頬に触れていた手が私の手をとる。振り放そうとしても、彼は離すまいと力を籠めるだけだ。

「私の手は汚いから、王ともあろう方が触れてはなりません」
「俺は大切な家族の手を汚いとは思わない。それに、俺だって、お前が思うほど潔白ではないんだよ」

 気づいているだろう、と彼の唇が動いた。
 そうだ、気づいていた。彼のルフは変わらず力強くて眩しい。けれどもそこに昔ほどの白さがなく、代わりに幾つもの黒が混じっていることなど──ここに来て、シンドバッドの姿を見た瞬間から気づいていた。私が変わってしまったように、彼もまた変わってしまったのだ。それは必然である。私たちは大人になった。力を手に入れた。望むと望まざるとに関わらず、私たちは変わってしまったのだ。

「なあエルハーム、お前だけがどうしようもなく変わってしまったのではないさ。それに、きっとお前は自分で思っている程には変わっていないと思うんだ」

 嗚呼。急に涙腺が緩むのを感じた。いつかもシンドバッドは私に言ったのだ。私だけではないと。自分も同じだと。
 そうして私を安心させてくれたシンドバッドは、今も確かにここにいるのである。

140227 
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