ひとりじゃいけない


 私が眠っていたのは、とても大きな、綺麗なベッドの上だった。部屋も広く綺麗で、まるで客人扱いされているかのような気になる。よく見れば家具の類いは数脚の椅子や小さな机など必要最低限しかないので、この王宮内では粗末な方にあたるのかもしれないが、それにしたって、暗殺者として乗り込んできた者を寝かせておくには随分と良い部屋だ。おまけに私の手足は自由である。さすがに武器やそれに代わるようなものは一切見当たらなかったが、服はマントが無いほかはそのままだし、枷のひとつ有りはしない。いくら誰も殺していないとはいえ、私は王宮に侵入したのだ。それは間違いなく罪に問われるべきものであるし、シンドバッドが言うように本当に死罪には値しないのだとしても、ここまでの待遇は有り得ないはずである。
 シンドバッドは、私に殺意がないことを心から信じているというのだろうか。
 ──そんなはずがない。
 浮かんだ疑問を自ら打ち消した。今のシンドバッドはあの日の幼い少年ではなく、れっきとした一国の王である。同郷だから、幼馴染みだから。そんな甘い考えが通じないことなど、とうに知っているだろう。それに、ジャーファルと呼ばれたそばかすの青年は、私のことを一切信用していないという目をしていた。ひょっとすると今頃、彼がシンドバッドに私を処刑するよう提言しているかもしれない。ああ、そうだといいなあ。私は、死ぬためにここに来たのだから。
 ベッドから出て、部屋を歩き回ってみる。本当に綺麗な部屋だった。埃一つない。家具もなかなか立派な物である。しかし窓には格子があって、もし私にこの部屋をあてがうためにわざわざ取り付けたのだとしたら、いささか申し訳ないと思った。格子越しに外を見れば、青く美しい海が広がっている。入り込んでくる風も潮の匂いがする。懐かしい匂いだ。

「起きてるんすよね」

 不意に声がして扉が開いた。どうやら今のがノックの代わりだったらしい。入ってきたのは、昨日私を取り押さえた赤髪の青年だった。名前は確か……マスルール。

「よく私が起きてるって、分かりましたね」
「まあ……気配と、歩き回る音がしたんで」
「……ああ。そういえば貴方はファナリスでしたね」

 マスルールさんは表情を変えないまま立っている。しかし、僅かに眉間にしわを寄せた。

「なんで知ってるんすか」
「標的の周りのことは、あらかじめある程度調べておくものです。それと、『シンドバッドの冒険書』にも載っていたし。本当に、巨大化したりするんですか?」
「……しない」
「ですよね。あの人昔から、大袈裟にしたがるところがあるから」

 久々に口を利いた昨日より、いくらかは言葉がすらすらと出てくるようになった。表情はまだ強張ったままだが、直に愛想笑いくらいできるようになるだろう。これでも仕事を円滑にする上で、一通りの処世術は心得ている。怪しまれないように近づいて、油断させたところを突く。そんなやり方だって、幾度もしてきたのだ。
 しかし、このファナリスの青年はどうやら表情が変わらないタイプの人間らしく、見る限りずっと無表情を保っている。何を思って彼がこの部屋に入ってきたのか、見当もつかなかった。

「貴方は、この部屋の見張り番なのですか?」
「はい、まあ」
「もしも私が、殺してくれと言ったら、殺してくれる?」

 やや沈黙があって、彼は答えた。

「それはできない」
「どうして」
「王サマが、あんたが殺してくれと言っても絶対に頷くなと」
「王サマの命令がなかったら殺してくれる?」
「……気が、向いたら」

 正直な人だと思った。きっと彼にとって、私の生死などさしたる問題ではないのだろう。何の関係もない女だ。しかも王宮に侵入した怪しい女。王が殺すなと言うから殺さない、それは当然のことで、私もそれ以上言うのをやめた。
 しかし、今度はマスルールさんのほうから口を開いた。

「ひとつ聞きたいんすけど」

 相変わらず無表情のままで、真意は読み取れない。私は「どうぞ」と頷いた。

「どうしてそんなに殺されることに拘るんすか」

 言外に、死にたいなら自分で死ねばいいだろうという響きが込められているのを感じた。全くもってその通りである。彼がここに来た本題はこれかと納得しながら、私は目を伏せた。

「それが私の生きる道標だったからです」

 おかしな話だと自分でも思う。矛盾していて、滑稽な言い草だ。

「私には自分で死ぬことが許されていなかった。だから、いずれ暗殺者として会いに行くことになるシンドバッドに、殺してもらおうと思ったのですよ」
「……どういう」
「私が暗殺者になったのは──そう訓練されたのは、シンドバッドの暗殺のためだったんです。機が熟すまで、随分と時間がかかってしまって……結局、失敗してしまったけれど」

 これを口にしたのは初めてだった。改めて言葉にすると、こんなにも重かったのか。伏せていた目を開いて見えたマスルールさんの表情が、先ほどと全く変わらないことが今の私には救いだった。

「それ、シンさんには言うんすか」
「……言いたくないんですよね。悲しい顔をされたら、つらいから」
「でもシンさんは聞きたがってる」
「じゃあ、今、話しますね。それを彼に伝えるかどうかは、貴方にお任せします」

 そう言って椅子へ座るよう促すと、マスルールさんは何も言わず腰掛けた。聞いてくれるらしい。私も窓から離れ、椅子に掛ける。向き合ってよく顔を見ると、少し険しい表情をしているように見えた。

 この任務を言い渡されたとき、私はようやく死ねるのだと思った。いつの間にか何もかもが遠い存在になってしまったシンドバッドを、私ごときが殺せるはずがない。任務の失敗はそのまま死を意味する。私に与えられた選択肢は、シンドバッドに返り討ちにあうか、命からがら逃げ帰った先で処分されるかの二つ。そして私は、前者を私の運命として選んだのだ。自分で選んだのなら、私は運命を呪わなくて済むから。

140224 
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