夜を掻き分けて


side ジャーファル


 彼女の為に時間を割く事がいつの間にか当たり前になって久しい。
 魔導士としての性とでもいうべきなのだろうか、彼女の知的好奇心には目を見張るものがあった。記憶力の方も申し分無く、もし彼女が違う人生を歩んでいたならば、今頃はこの国を支える官の一人として紫獅塔にでも居を構えていた事だろう。勿論それは最早空想に等しい話であるのだが。
 意欲的な人間が相手とあってはこちらも教え甲斐があるというもので、日々の仕事をこなしながら時間を捻り出す事自体に骨が折れることはあれど、辞めようと思うことはなかった。そのうち幾つかの月が過ぎ去って、彼女の伸びた髪に月日の早さを実感するようになった。
 我ながら、随分と絆されたものだなと思う。

***

 雲の切れ間から半月が顔出す頃、今日の“話”が終わる。
 彼女の疑問は尽きることが無いらしかったが、生憎とこちらの知識には限りがある。話せるような話はしばらく前にきっと殆ど伝え尽くしてしまった。それでもこうして会う事だけは続いていて、彼女の質問にひとつふたつ答える程度の事しか出来ないのに、彼女はいつも「またお願いします」と頭を下げ、満足そうに帰って行く。
 随分笑うようになったのだ。その表情は恐らく──否、間違いなく、シンが見たかったものなのだろうに。他の誰よりもシンが願ったはずのものを、なぜこうして自分が──自分だけが、目にしているのだろう。思えば彼女はいつもそうなのだ。彼女は相手を間違えている、と、そう思うのは自分ばかりであるらしい。
 彼女は今日も微笑んで──しかし、いつもの決まり文句を口にしなかった。ふと表情が翳りを見せる。ちょうど薄い雲が月を覆ったのでそのせいかとも思えたが、どうやら違うようだった。
 
「……私、少し前から考えていたことがあって」

 聞いてもらえますか。夜風に溶けて消えてしまいそうな、静かな声だった。

「それは……私が聞いても良いものなのでしょうか」
「ジャーファルさんに聞いてほしいんですよ。他の人には言うつもりがありません」

 やはり静かではあるが芯の通った声で、彼女はきっぱりと断言する。その目は真っ直ぐで、そこには一分の迷いも躊躇いも見つけられなかった。
 詰まるところこれは、相談などではないのだろう。己に求められているのは言葉通り“聞く”ことだけであると直ぐに察しがついた。彼女の言う“考えていたこと”がどんな内容のものであれ、彼女はとうに結論を出しているのだ。

「一体なんでしょう。そう言われると少し身構えてしまうんですが」
「そんな大層な話ではないんですが、他言無用でお願いしますね。私、この国を出ようと思うんです」

 何てことないようにそう告げられて真っ先に浮かんだ感想といえば、嗚呼、やはり結論は出ていたのだなということだった。不思議と驚きはなく、すとんと腑に落ちる。
 だからなのだろうか、口をついて出た一言目は「おや、そうなんですか」というこれまた何てことのない陳腐なものだった。我ながら流石にそれはあんまりだろうという気がして、「理由をお訊きしても?」と言葉を繋げば、「青臭い、在り来たりなものですよ」とややはにかんだ答えが返ってきた。

「旅をして、世界中を回って、貴方が話してくれたものを──シンが見てきたものを──私もこの目で見てみたいと思ったんです。私の知らない世界をもっと知りたい。そうすればいつか、もしかしたら、今の私が解らないものも少しは理解できるようになるんじゃないかって……」

 それは先の問いかけに対する答えであるだけでなく、いつぞやの宴の後から夜も眠れぬ程悩んだ彼女が漸く辿り着いた答えでもあった事を悟った。
 同時に、彼女の悩みが未だ続いていた事を知って驚きもする。このところきちんと眠れているようだったから、とっくに上手く折り合いを付けたものだとばかり思っていたのだ。

「──なんて、それは少し高望みかもしれませんね」

 直ぐに言葉を返せなかった事で訪れた沈黙を呆れと捉えたのか、彼女は私の返事を待たず言葉を継ぐ。

「叶わずとも仕方がない事は解っているつもりです。全く同じものを見ることは出来ないということも。兎に角見聞を広められたらそれで十分なんです」

 先程よりもやや早口に言い終えると、彼女は深い溜息を吐いた。月明かりに照らされた耳が仄かに赤い。

「……どう思います?」
「どうって……。それ、いつから考えていたんですか?」
「思いついたのは謝肉宴の後です。考えが纏まったのはごく最近ですが」
「決行はいつの予定で?」
「え……ええと、早くてもあと一月程先になるかと思います。今抱えている仕事を最後まできちんとやり遂げた後になりますから……」
「成る程、近頃仕事量を増やして毎日忙しそうにしていると聞いていましたが、出立を早める為に前倒しで進めていたというわけですか」
「……反対、しないんですか」

 拍子抜けしたように彼女は訊ねた。

「反対してほしいんですか?」
「そういうわけでは……」

 ただ、意外で。小さく答える彼女はどこかばつが悪そうでもあって、その様子はシンの姿とも重なって見えた。

「私が国の機密情報を持ち逃げするかもしれないじゃありませんか」
「するんですか?」
「いえ、しませんけど……」
「なら良いです。第一、エルハームさんには『勝手にする権利』があります。貴女をこの国に縛ることは、シンを含め誰にも出来ません。……というか貴女確か、『一度言い出したら聞かない』のでしょう? 私が今何を言ったって、きっと貴女は勝手にいなくなる」

 いつかそうなるような、漠然とした予感はあった。
 ある日突然現れたのと同じように、ある日突然いなくなる。
 こうして自分に明かしたのが不思議な程である。隠密行動など彼女にとっては体に染み着いているくらいのものだろうし、誰にも何も告げずに姿を眩ます事もその気になりさえすればやり遂げられたに違いない。

「──それでも敢えて私が異を唱えるべき事があるとすれば、せめてヤムライハやピスティ達には伝えて行きなさい、という事くらいでしょうか」
「……それは」
「決心が鈍りますか?」
「……少し。それに、噂にはなりたくないですし、見送りに来るなんて言われたら申し訳ないですから」

 それならば何故、自分には告げたのだろう。
 その答えは恐らく至極単純なものだ。
 自分が反対しない事を、彼女はきっと心の何処かで解っていた。確かに自分は彼女がシンドリアを出て行く事を止めはしないし、吹聴することもなければ、恐らく見送りに行く事もないだろう。
 彼女は正しい見立てをした、ただ、それだけだ。

180901 
- ナノ -