エルハームがシンドリアを出ようとしている事をジャーファルに打ち明けた晩から
一月が経つのは、驚く程あっという間だった。それはエルハームが来る日も来る日も仕事に追われ忙しかったせいなのか、或いはこの国を離れる事に対する感慨によってそう感じたのか定かではない。どちらにしても、目まぐるしい日々は光の如き早さで過ぎ去ってしまい、遂に今夜が最後の晩だった。
胸の内では、日に日に膨らんでいった寂しさと相反して沸き上がっていった旅への期待とが入り交じっていた。ついぞジャーファル以外の者には打ち明けず仕舞いになったが故の後ろめたさもある。
この一月、ヤムライハ達の顔を見る度、声を聞く度に、罪悪感がエルハームの胸を刺した。それでも言わなかったのは──言えなかったのは、ひとえにエルハームの意気地の無さ故だった。
世界を見たい。その言葉に嘘は無い。けれども、それだけが全てでもない。
ジャーファルにさえ言わなかった理由がある。それに明確な名称をつけるなら、恐らく“逃避”であった。眩しすぎるこの国からの──否、シンドバッドからの逃避だ。
解らないものは、怖い。
シンドバッドの考えていることを理解したい気持ちが一体どこから来るのか、今のエルハームには解らなかった。彼を大切に思うが故なのか、それとももっと本能的な、未知のものへの恐怖なのか。シンドバッドを嫌いになどなりたくないし、怯えたくもないから、その為にこそ距離を置く──エルハームに思いつくのはそんな陳腐な方法だけだったのだ。
──そうしてそんな己の都合で、此処に来て山ほど貰った恩を返す前にこの国を出ようというのだ。ヤムライハ達に合わせる顔などあるはずもない。シンドバッドに向かって「勝手にする」と宣ったのは間違いなく過去のエルハーム自身だけれども、そうやって割りきれるくらいの人間ならばそもそもこんな状況には至っていないだろう。
エルハームは深く息を吸って、すっかり住み慣れてしまった部屋を見回した。持っていく荷物は既に纏め終わり、部屋の片隅にこじんまりと置かれている。部屋に残していく調度品の処理については全てジャーファルに頼んでおいた。早ければ明日の夕方にもこの部屋は空っぽになる筈である。
エルハーム自身は明日の朝早く、港に停泊中の商船に乗り込んで、彼らの出国と共にこの国を出る事になっていた。シンドリアに入国した際も商船に乗ってやって来たけれども、今回は護衛をすることを条件としてきちんと話をつけてある。自分が魔導士であり、風を起こして船を早く進める事も可能である旨を伝えると、船員たちは二つ返事で了承してくれたのだ。
明日に備えて今夜はもう床に就こうかと考えたけれども、しかし、いやに目が冴えている。……少しだけ、散歩をしよう。
杖だけを抱えて部屋を出る。夜に包まれた王宮はしんと静まり返り、人の気配は何処にもなかった。皆 とうに、それぞれの家へと帰ったのだろう。
一歩一歩を踏みしめるように、ゆっくりと廊下を歩く。足音は響かなかった。
突き当たりを右へ。それから階段を下りて、真っ直ぐ。角を曲がって、その先を左。
何処へともなく、ただ、歩く。胸の奥底から沸き上がってくる感情の名前を未だ見つけられない。
不意に、人の気配を感じた。足音、衣擦れ、話し声。それはよく知った二人──否、三人のものであった。このままでは間違いなく鉢合わせる。
エルハームは逡巡した。身を隠す場所など無い。急いで引き返すか──しかし何故だろう、足を動かせない。
そうこうするうち、シンドバッドと シンドバッドを引き摺るようにして歩くマスルール、その斜め後ろをついてくるジャーファルが現れて、向こうもエルハームの姿を認めた。
「お? こんなところでどうしたんだ、エル!」
上機嫌に近寄って来たシンドバッドは酒の臭いをぷんぷんさせていて、明らかに酔いが回っていた。大方どこぞの酒場でこっそり飲んでいたところを、ジャーファルとマスルールによって回収されたのだろう。ジャーファルの草臥れた顔を見るまでもなく察しがつく。
「少し、散歩をね」
「そうか! 夜の散歩は良いものだよな、夜にしか無い発見がある」
「そうだね」
「……だが、危ないことは駄目だぞ。森で夜を明かすだとか、そういうことは、駄目だ」
「うん、もうしないよ」
「それなら良い」
シンドバッドはそう言いながら、伸ばした手でエルハームの髪をもてあそんだ。「伸びたなあ」ぽつりとそれだけ呟いて、毛先をすくい、まるで名残惜しむようにそっと手を放す。
その動作の意味をエルハームが考える間も無く、シンドバッドはエルハームを抱き寄せた。
「──おやすみ、エル」
***
意味深にも思える行動は、酔いのせいだったのだろうか。
問うような間も与えられないままにシンドバッドは自室へ帰って行き、程無くしてエルハームも部屋へと戻った。
もう、頭を空っぽにして眠ってしまおう。明日の朝は早いのだから。
ところが その時、扉を叩く音がした。こんな夜更けに誰かと思えば、そらは先程廊下で別れたばかりのマスルールだった。
「どうかしたの」
「どこか行くのか」
「……どうして?」
「エルの顔とこの部屋が、いつもと違う」
「……誰にも言わないで。詳しいことは、後でジャーファルさんに訊いてほしい」
マスルールはじっとエルハームを見ていた。切れ長のその目に
射殺されるような錯覚に襲われる。
やがて視線が外されるその直前、エルハームは、マスルールのいつもと変わらぬ無表情が一瞬僅かに動いたような気がした。けれどもその表情を読みとくよりも前に、普段通りの表情に戻ったマスルールが口を開いた。
「わかった。
またな」
***
夜明けが人間の都合に合わせることは今までもこれからも有りはしない。必ず夜は明ける。
エルハームが最小限の荷物を背負って王宮を出た時、夜と朝が混じった空には雲一つ無かった。今日もこの国には、昨日までと同じようにどこまでも澄み渡る青空が広がるのだろう。
港が近づくと、波のさざめきに混じって出港の準備に忙しなく動き回るの船乗りたちの声が聞こえて来た。同乗させてもらうのだから自分も手伝うべきかと、エルハームは歩みを速める。
──突然、その背後から声がかけられた。
「本当に挨拶もなく行くんですね」
「な……ジャーファルさん、どうして──」
「友人の見送りに行くべきか考えていたら、シンに伝言を託されてしまったので」
「! シンに言ったんですか」
「いいえ、私からは何も。あの人が自分で気づいたんですよ」
「でも何も──」
「知っていて言わなかっただけです。それで、伝言の内容ですけどね──『危ないことはするな。常に自分の身を一番に守れ。そして、いつでも好きな時に帰って来い』だそうです」
エルハームは言葉に詰まった。
何も言えないエルハームをよそにジャーファルは言葉を続ける。その声は表情と同じように穏やかで、柔らかだった。
「国王がそう言っているわけですし、いつでも帰って来たら良いと思いますよ。たとえば“理解出来ないもの”を理解出来るようにならなかったとしても──ほんの少しでも、貴女が此処へ戻りたいと思ったのなら、いつだって。部屋はそのままにしておきますから」
「……どうして」
「“皆”、貴女が帰って来てくれたら良いなと思っているからですよ」
エルハームの瞳から溢れた滴が一筋頬を伝った。更に溢れ落ちようとするそれを、仕方がないとでもいうように苦笑したジャーファルの指先が拭う。
「絶対に戻って来いとは言いません。旅の途中で何処か大切な場所を見つけたなら、そこが貴女の帰るべき場所になるでしょう。それで良いと思います。ただ、此処にも貴女を待っている者たちはいるのだと……それだけは、覚えていてくださいね」
「──…必ず…絶対に、忘れません。忘れたりなんか、出来るはずがないです」
「それは良かった」
「ありがとうございます、本当に──皆にもありがとうと伝えてもらえますか、こんな私を受け入れてくれて……生きたいと思わせてくれて、本当にありがとうって──私はシンドリアでたくさんの幸せをもらったから」
「はい、確かに。……そろそろ行きますか?」
白む東の空を見遣ってジャーファルが問えば、エルハームはくしゃくしゃの顔で頷いてジャーファルの手を掴んだ。
「ジャーファルさん、貴方には……最後まで迷惑ばかりかけてしまって、ごめんなさい。本当にお世話になりました、ありがとう、ございます」
「いいえ、こちらこそ……」
ふっと言葉が途切れる。その間を取り繕う事もせず、言葉無いままにただ握手を交わした。
手が離れる時には、エルハームの涙も止まっていた。赤くなってしまった目は誤魔化しようもないが、それでも微かに笑って見せる。
「では、お気をつけて。貴女の旅路が良き縁に恵まれたものでありますように」
「……ありがとうございます」
乗り込む船へと足を向け、エルハームは歩き始めた。けれどもジャーファルは動かない。
「いってらっしゃい、エルさん」
背中に投げかけられたその言葉にエルハームはびくりと肩を揺らした。
それでも一歩、二歩と進む。そして、三歩目に足を止めた。
ぱっと振り向いたその瞬間の表情を、ジャーファルは恐らく忘れはしないだろう。これから先何年の月日が経とうと、きっと思い出せる。そして思い出す時は、後に続く言葉も一緒に思い出すに違いない。
なぜならその声は、朝の港には清々しくよく響いたからだ。
「いってきます!」
180901 fin.