螺旋の先


 ササンの酒に全く興味が無いと言えばそれはきっと嘘になってしまうのだけれども、生憎酒にはあまり良い思い出が無い。私はさして悩むこともなく、シンドバッドの誘いを断った。
 それに対してシンドバッドはといえば、残念そうな表情を隠しもせず、それどころか親を失った仔犬のような顔さえして見せるのだから、つくづくずるい人である。

「そんな顔をされてもね」
「……なぁジャーファル、エルが冷たい」
「ご自分の行いを胸に手を当てて振り返ってみては?」

 坦々とした口調でジャーファルさんが切り捨てると、シンドバッドは「ジャーファル、お前もか……」と一層落ち込んだ素振りをして見せた。表情豊かな人間というのは、往々にして只それだけで随分と魅力的に見えるものである。シンドバッドが私にとってもそう見えているかどうかというのはまた別の話であるとしても、彼が人たらしの女たらしたる所以は恐らくそういう所にあるのだろうと思う。
 じっくりとその顔を眺めていれば、シンドバッドは目を瞬かせて私を見つめ返した。以前私は、いついかなる時でも強い光を湛えるこの双眸に吸い込まれてしまいそうだと思ったものだけれども、不思議と今は、あの時のような心地にはならなかった。

「どうした?」
「……なんでも」
「やっぱり俺と酒が飲みたいという話なら大歓迎だが」
「いいえ、違います」
「そんなにきっぱり否定されると傷つくんだが……。ササンには興味があるんだろう?」

 そう言ったシンドバッドが、私が腕に抱えた荷物へと視線を移した。
 シンドリアへササンの船が寄港している事実は当然国王たる彼の知るところであるし、そうでなくとも、シンドリア建国以前は彼方此方へ旅をして回っていた人である。一目見れば、一体どの国に由来するのものであるかは簡単に解るだろう。
 咎められているわけでもないというのに何故だか居たたまれないような気持ちになって、私は肩を竦めた。

「まぁ、ササンにというか、異国の文化全般にね」
「ああ、近頃市場へ行く頻度が増えたのはそういうことでしたか」

 そう言ったのは、シンドバッドではなくジャーファルさんだった。
 彼の言う通り、私が異国から持ち込まれる品々を見に行くようになったのは最近のこと──謝肉宴の後からのことである。それまでは、誰かに誘われでもしない限りわざわざ足を運ぶようなことはなかったのだ。
 
「よくご存知ですね」
「ピスティから聞きまして。最近よくエルハームさんが町にいるのを見かけると」
「あぁ、それなら俺も聞いたな。エルに好い人でも出来たんじゃないかと言われて」
「……そんな根も葉もない話、鵜呑みにしていないでしょうね?」
「してないよ。お前からだけじゃなく、ほかの奴らからもそういう話を聞かなかったしな」

 シンドバッドは歯を見せて笑ったけれども、隣に控えるジャーファルさんが胡乱なものを見る目を向けているところを見るに、その根も葉もない話について彼らの間で何らかのやり取りがあったのだろう。私と目が合ったジャーファルさんが何も言わずに眉を下げたので、私も沈黙を選んだ。わざわざ自ら深掘りして話し込みたいような話題でもない。

「しかしまぁ、水臭いな。異国の文化に興味があるなら相談してくれれば良かったのに。なんなら俺が毎晩寝物語に話してやろうか」
「……ありがとう。でも、遠慮しておく。それで貴方の翌日の仕事に差し支えるようなことになったら、私には責任が取れないから」

 シンの話は脚色ばかり多そうだし、と付け加えれば、シンドバッドはただ笑うだけだった。

***

 太陽が漸く海の彼方へと消えていく。琥珀色が水面を煌めかせ、水平線の更に上の方では夜の色と混ざりあって得も言われぬ美景を作り出していた。
 この国へ来てからというもの、意味もなく空を眺めることが増えたように思うのは気のせいなどではなく、確かに随分と増えたのだろう。此処での平穏そのものの日々がそうさせているのだということは言うまでもない。ゆっくり、ゆっくり、頭の中を空っぽにしてぐるりと国の上空を一回りする。
 意味のないことをしている。
 意味のないことを、していられる。
 陽の沈みきらぬ内に。隠れることもなく。
 それは全て、このシンドリアという国を築き上げ、守り、栄えさせてきたシンドバッドのお陰に違いなかった。眼下では込み入った街並みをたくさんの人々が行き交い、風に乗って空までも届く明るい喧騒が聴こえる。悲鳴は一つも聞こえない。嘆きの声も聞こえなければ、荒れ果てた街も見えず、血の臭いもしない。
 不意に──本当に突然、心の底から、良い国だなと思った。この国をかつて私の家族のようだった人が造ったのだと思うと、改めて驚きと納得の入り交じった奇妙な気持ちになる。同時に、シンドバッドという存在が果てしなく遠く思えた。昼間に顔を会わせて話をしたばかりであるにも係わらず、遠い、未知の存在のようにも思えてしまう。毎日顔を付き合わせていたあの頃の思い出など、全て私が無意識に作り上げた幻だったのではないかと錯覚すらしてしまいそうだった。
 ──こんなことは幾ら考えても終わりがない。不毛だ。
 頭ではそう思っていても、ふとした瞬間に思考はいつも同じ終わりのない渦に落ちるのだから、我ながら仕様もない。
 いつしか水平線の琥珀色もすっかり夜の濃紫に飲み込まれていた。昼間よりも幾分か温くなった風が頬を撫で、伸びた髪をさらっていく。
 折角気分転換をしようと思って空まで来たというのに、結局思考は同じところに行き着くのだなと私は自嘲した。一体あと何度繰り返せば先に進めるのだろう。
 こうして考えているだけではきっといつまで経っても進めやしない。時間ばかりが過ぎ去って、心が擦りきれそうになるのみなのだ。
 私の中の答えがない。それは解っている。
 解っているから、だから、私は。

180901 
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