いたちごっこは終わりにしよう


 今日も今日とてシンドリアの空は青い。何もかもを照らし尽くそうとしているかのような太陽の下で、人々はいつにも増して活気に溢れている。
 ここのところ植物の調査よりも薬の調合の仕事が続き、連日屋内に篭りがちであった私にとって、この陽射しは些か刺激が強すぎた。ササンから遥々やってきた商船が昨日から停泊しているというので出て来たは良いものの、人々の熱と太陽の熱とにやられて、どろどろに溶けてしまいそうな錯覚さえある。
 しかしながら、これまで触れることのなかった異国の文化を目の前にして、どうして部屋に篭って居られるだろうか。次にいつササンの船がやって来るのやら私には知る由がないから、この機会を逃す事は出来なかった。
 先日の謝肉宴にて思い知った事であるけれども、私の知っている世界はあまりにも狭い。
 思えばこの国に訪れるまでに私が知ることが出来た文化といえば、自国パルテビアの他は今や東の帝国として名を馳せる煌国くらいのものであった。数にして、シンドバッドが建国以前に知り得た文化の半分どころか、三分の一にさえ満たないであろう。
 ──もしもそれが、私がシンドバッドの考えをどうにも解らない原因の一つであるならば。知らないものを知ることで、せめてあとほんの少し、解る事が出来るようになりはしないだろうか。真に理解することは出来なくとも、少しでも理解する為に何か出来る事があるとすれば、私の“世界”を、拡げる事なのではないだろうか。
 単なる知的好奇心の隣にそんな尤もらしい言葉を並べ立てて、あの夜以来渦巻いている己の戸惑いや引け目を誤魔化し、まるで誰かに言い訳をしているかのようだとも思う。けれども、今の私はそうすることでしか前に進めなかったし、性懲りもなく昔のままを望む我儘な私に出来るせめてもの罪滅ぼしのような気がしていた。理解できないことも応えられないことも、どうしたって後ろめたく感じられてしまうから、何かに没入していたいだけなのかもしれない。
 ひょっとすると、そんな事ばかり考えているせいで、太陽も人々も眩しすぎて溶けてしまいそうに思うのかもしれないと漸く思い至って、私はそっと息を吐き出した。この溜息と共に、縺れ拗れた色んな感情も空気に溶けて消えてしまえばどんなに良いか。相も変わらずはらの中に溜まってぐずぐずしているままである。
 市場を行き交う人々の中で自分だけが異質なような、そんな心地をどこか感じながら、ふと目についた異国の書物を手に取った。どんなインクを使っているのか、此処等のものとは違って見える。途端に沸き上がってくる好奇心に気がついた時、すぐ傍から声がかかった。

「エルハームさんじゃありませんか」

 すっかり顔見知りになった武器商人のサハルがそこに立っていた。彼女はいつもの凛とした雰囲気はそのままに、気の良い笑みを浮かべている。つられて私も頬を弛めた。

「こんにちは。調子は如何です?」
「お陰さまですこぶる良いですよ。エルハームさんこそ息災のようで何よりです。今日は非番でいらっしゃるのですね」
「ええ、そうなんです。サハルさんもお休みですか?」
「いえ、まぁこの通り商売の方は休んでおりますが、仕事ですよ。今日は仕入れに」

 シンドリアでは様々な国から難民を受け入れていることもあり、異国の武具にもそれなりの需要があるのだという。やはり手に馴染んだ形が一番扱いやすいのだろう。杖とてそうであるから、その感覚は私にも理解できた。
 ふと彼女が興味深げな表情に変わった。私の手元に目を留めている。

「エルハームさんは……書物ですか。付き合いの浅い私が言うのも何ですが、エルハームさんらしいですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。エルハーム様は魔導士としてだけでなく、薬草師としても素晴らしい方ですからね。やはり学識が高い方なのだろうと思いますよ」
「誉めてくださるのは嬉しいですが、全くそんなことはありませんよ。知らないことの方が遥かに多いんですから」
「何を仰いますか。たとえこの世の全てを知り尽くしていても、貴女はご謙遜なさるんでしょう」
「サハルさん、」

 嗜めるように名前を呼ぶと、彼女は悪戯っぽく笑って目を細めた。

「ふふ、すみません。少しからかってみたくなってしまって」
「……こうして貴女と気安く話ができる仲になれたことだけ素直に喜んでおきますね」
「あぁ、それは私も嬉しいです。……とはいえ、私のような学の無い者からすれば、やはり貴女は博識な方ですよ。何もかも知り尽くしていてもおかしかないと思いますね」
「やめてくださいよ、もう。知らないことだらけだから、今こうしてササンの品を見て回っているんじゃないですか」
「成る程。話に聞くのと実際に見るのとでは、やはり違いますものね」

 彼女の言葉に私は頷いた。
 全くもってその通りなのである。文字で読むのと話に聞くのとでも充分違うということを先日の宴の夜の会話で知ったけれども、この目で見るのとではもっと違う。
 こうして持ち込まれた品々を見ているだけでもそう感じるのだから、実際に国を訪れてみるとより顕著に感じるのだろうということは簡単に想像できた。
 しばらく二人で立ち話をしていたけれども、やがて彼女は店に仕入れる品を吟味するべく、手を振って去っていった。その様子や品々に興味はあれど、仕事の邪魔をするわけにもいくまい。私は私で、気の向くまま市場を見て回った。
 途中、スパルトス様の後ろ姿を見掛けた。そういえば彼の生まれはササンである。挨拶程度にしか言葉を交わしたことのない彼は、私の視線に気がついたのか不意にふりかえると控えめな会釈をした。私も会釈を返すと、再びスパルトス様の顔は見えなくなった。視線が交わらないのはいつものことであり、それにもササンの文化が関係しているらしい。いつしかそう小耳に挟んだことがあったと思い出す。
 シンドリアでありながら異国情緒の漂う市場を歩いていれば、書物の他にも食物やら嗜好品やら、気になる物はいくらでも目についた。
 特に気になった物だけを幾つか購入して王宮へと戻れば、廊下ではジャーファルさんとシンドバッドが押し問答をしていた。

「なぁジャーファル、頼むよ。今夜くらい……」
「そう言って飲み過ぎて毎度周囲に迷惑をかけるのは誰ですか!」
「でももう一週間も飲んでないんだぞ」
「まだ一週間ぽっちでしょうが」
「しかし、せっかくササンの酒が──あ、エル! エルもササンの酒飲みたいよな!?」
「しれっとエルハームさんを巻き込もうとするのはやめてください」

 どちらが臣下だかわからないようなやり取りに、少しだけ笑えた。相も変わらずはらの中には縺れた感情が居座っているけれども、今だけは見えない振りをしていられそうだった。

180901 
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