世界の広さに気付いてしまった


side UNKNOWN


 太陽が空の頂点に差し掛かる頃現れた南海生物は、シャルルカンによっていとも簡単に仕留められた。あちらこちらから歓声が沸き上がる。
 今宵は久方ぶりの、そして、エルハームがシンドリアに身を置くようになってから初めての謝肉宴である。

 最後の謝肉宴はいつであったか。それを正確に記憶している国民は少なかろうが、随分と前であることだけは誰もがわかっていた。宴がいつにも増して盛り上がりを見せているのはその為である。エルハームの歓迎と快気祝いと薬草師任命祝いとを兼ねていた宴はまだ記憶に新しく、あれからそう長い月日は経っていないが、シンドリア国民にとって謝肉宴ほど楽しいものもない。飲めや歌えや無礼講、初めて目にするエルハームが目を丸めるのも道理であった。
 アバレウツボの活け作りをとりわけ興味深そうに眺めているエルハームは、八人将の中でも古参の面子と共にいた。先の宴での一件があるからだろう。何かと率先してエルハームの手を引いていくピスティやヤムライハ、シャルルカンも、今回ばかりは古参連中に彼女を譲ることにしたらしかった。エルハームがこの大騒ぎにどこか気乗りしていないような様子であったのは宴が始まる前から見てとることが出来たし、古参の面子──すなわちジャーファルやヒナホホが近くにいれば、シンドバッドが悪酔いしたとしてもエルハームには害が無いように取り計らってくれると考えたのかもしれない。尤も後者二人は早々に酔いが回っていたようであったから、そこまで気を回していたのかどうか定かではないのだが。
 エルハームと彼らの程近い所には、当のシンドバッドの姿もある。
 若い女に囲まれたシンドバッドを、エルハームは何の感慨もないような表情で一瞥しただけだった。すぐに流れるように視線を外すと、踊り子や楽士たちに目をとめた。

「謝肉宴……でしたっけ。シンドリアにはこんな風習があったんですね」
「そうか、お前が来てからは初めてか! 凄い騒ぎだろ」
「ええ、とても。皆さん本当に楽しそうですね」

 豪快に笑ったヒナホホとは対照的に、エルハームが浮かべた笑みは柔らかい。珍しいその様子に、ヒナホホは目を細めた。

「元々の謝肉宴はイムチャックの文化なんだよ」
「そうなんですか」
「まあ、イムチャックでの謝肉宴はここのとは少し意味合いが違うんだが」
「どう違うんです?」

 すかさず問うたエルハームの目には純粋な好奇心が覗き、まるで幼子のようにも見えた。ヒナホホもそう感じたのだろう、目尻を下げ、朗らかに口を開く。

「シンドリアでは収穫祭として位置付けられてるだろ? だがイムチャックで謝肉宴といや、成人の儀なんだよ」
「成人の儀?」
「ああ。イムチャック族の男が成人として認められる為の……簡単に言うと度胸試しみたいなもんだな。アバレイッカクを討ち取りに行くんだ。そいつを仕留めることが出来て初めて成人として認められ、真名を授かる。謝肉宴ってのは、アバレイッカクを仕留めて帰って来た戦士に真名を与える場であると同時に、その獲物の恵みに感謝する儀式でもあるのさ」
「へぇ……! 知らなかったです」

 エルハームは素直に嘆息し、しかしすぐに首を傾げた。

「イムチャックって確か北方の国でしたよね。それなのに、アバレイッカクが出るのですか?」
「いつでも出るわけじゃねえ。年に数回だけ、産卵の為にイムチャック近辺の小島まで北上して来るんだ」
「ああ、成る程……」

 エルハームが頷けば、ヒナホホも満足げに頷いた。
 謝肉宴を開かれると聞き、彼女が僅かに表情を強張らせたことを知っていた面々は、密かに胸を撫で下ろす。
 彼女はシンドリアの国民でも食客でもないとはいえど、王が特別視する存在であるのと同時に、今やシンドリアの発展に助力してくれている一人でもある。ごたごたの類いも落ち着き、八人将のそれぞれと友好関係が築かれつつある今、折角の謝肉宴で浮かない顔をされるのはやはり気にかかるものであるらしい。
 ジャーファルはちびちびと酒を飲むエルハームの顔色を伺った。少し前までは度重なる寝不足から酷く血色が悪かったのだが、近頃はきちんと眠れているのか随分良くなっている。今は多少酒が入っているが、やはり顔色は悪くない。
 それからもエルハームはあれこれと異国の文化や風習について質問をしては、その一つ一つにヒナホホやドラコーンが答えていった。魔導士の性なのだろうか、一度興味を持つと次から次へと疑問が出てくるらしい。
 やがてヒナホホが一際豪快に笑うと、エルハームははにかんで肩を竦めた。

「すみません、つい」
「いやいや、こっちこそ悪い。子どもみたいで微笑ましくてついな! 異文化に興味があるなら、八人将の他の連中にも聞いてみたらどうだ?」
「そう、ですね……機会があれば」
「そんなもんいつでも良いさ。お前に訊かれればあいつらは喜んで答えると思うぜ」
「そういう話なら俺も喜んで答えるぞ!」

 ふいに上機嫌なシンドバッドが口を挟み、エルハームが振り返る。ジャーファルは思わず緊張してその様子を見守った。なぜ自分が緊張なぞせねばならないのだと疑問に思うも、最早我関せずと放っておくことが出来ない程度には足を突っ込んでしまっている。
 振り返ったエルハームの瞳は驚く程凪いでいて、その声も平生と何ら変わりのない静かなものだった。

「お酒は程々にね」
「今日はまだそこまで飲んでないぞ」
「それなら良いけれど。二日酔いになっても、私、今回は薬作れないからね」
「そうなのか?」
「材料が揃ってないの」

 短く、けれども決して無愛想ではない声色でエルハームは答え、杯を傾ける。

「残念だ。お前の薬はよく効くのに」
「だから、程々にしてって言ってるでしょ」

「飲み過ぎなけりゃ良いだけの話だもんなぁ」とヒナホホがからからと笑った。「その通りです」とエルハームが頷く。

「そうは言っても、折角の謝肉宴だぞ?」
「今日は謝肉宴でも、明日になればまたやるべき事が山積みでしょう? それに私は、飲むなとは言ってない。明日に響かない程度になら、自由に飲めば良いと思うよ」
「……エルハームさんの言う通りですよ、シン。飲み過ぎて得する事なんて一つもないんですから、彼女の酔い醒ましを当てにしようとせず飲む量を自制して下さい」
「お前らに組まれると敵わないな……」

 シンドバッドが眉を下げて笑うと、エルハームも曖昧に笑い返した。

「それより、ひとを待たせたままにするのは良くないね」

 ちらりとエルハームが視線を向けた先には、綺麗に着飾った若い女たちがいる。彼女らはシンドバッドたちの会話に割り入る度胸こそ無いようだったが、先程からずっと彼らのやり取りを気にしているのが明白であった。

「……それもそうだな」

 頷いたシンドバッドの表情は、つい先刻のエルハームのそれとよく似ている。彼が「出来れば俺もエルと飲みたかったんだが……」と声をひそめると、エルハームは胡乱な目を向けた。

「よく言う」
「本心だよ」
「はいはい」
「冷たいなあ、俺が嫌いなのか?」
「またその話……」

 呆れたようにそう言った彼女の瞳は僅かに揺らぎ、けれどもたった一度の瞬きの後にはもう凪いでいて、臆することなくシンドバッドを正面から捉えた。

「私がシンを嫌いになることはない。……嫌えない。きっとそれだけは、ずっと変わらないよ」

 ──覚えておいて、と。そう言って、彼女は笑った。

180521 
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