サイン会、始まる前。
がやがやと騒がしいドアの外。実際はドアの外のもっと先が騒がしいのだろうけど。
それはつまりこの部屋の外には人がたくさんいるという事で。
やばい非常に逃げたい。
だがしかし、動けない。ぎゅうぎゅうに縛られた自分の縄をどうにかしようともがくが、一向に動けない。
そんな、午後三時すぎ。
「神原君」
「なんですか?」
和室のほんのりと井草の香りが漂う中で、あたしは何度目かの溜息をつく。
名前を呼ばれた彼はペットボトルの緑茶を片手でもてあそんでいた。
もはや溜息どころではなくなった吐息を零し、神原を睨む。お前の所為だぞ、これ。
「解いて」
「いやでーす」
両手両足の自由はない。この体の縄は彼が縛ったものである。追記するが彼にそんな趣味はない。あたしにも無い。
ただ、彼がこうする理由は確かにある。
今日はサイン会の日。あたしが先日書き上げた小説の発売日でもある。小説家をやっているあたしは、当然の義務だといわれんばかりに今日ここへつれてこられた。
もちろんこういうイベントをあたしが嫌がるのも彼は熟知の上である。
昨日までそんな予定かけらも聞いていなかったのに。これも全て隣に座るやつの策略だ。済ました顔して胡坐をかくこいつ。
あたしの担当編集者神原。とても意気地が悪い。現にあたしが嫌がる中このサイン会まで連れてきて、挙句縛り上げるのだから。許さんぜよ。神原。
「もう逃げないったら」
「はいはい」
さっきから何度この問答を繰り返しただろう。着物まで着せられて動きづらいったらない。多分、ここまで彼の策略に違いない。彼は返事はすれども解くつもりは毛頭無いようで。勘弁してくれ。
じんわりと汗ばんでくる全身に、顔の化粧が落ちかかっているような気がした。帯のあたりが蒸れて気持ち悪い。
「のど渇いた」
「はいどうぞ」
両手が自由じゃないとならないだろう行為を要求すれど、あたしの思惑は筒抜け。にこりと笑った彼は縄に触りもしなかった。
体の前で拘束された両手のなかに渡されたペットボトル。彼がそれを開けるのを見ながら、あたしはふと部屋を見回す。
神原が飲んでいるのを除いたら、これが最後の飲み物だ。となれば。
あたしはそれを口にあて、半分以上残っているお茶を飲み干せばいいのだ。ごふ、ごふと喉が変な音を立ててお茶を流していく。大分ぬるくなっているお茶は一気に飲めるほど美味しくはない。
それでもこの状況から脱するために、多少の犠牲を払うことは厭わない!
「がふぅ!」
それがたとえ、成人女性にあるまじき態度であっても。
「足りない」
「うそぉ!」
「買って来い」
「まじですか」
「大まじだ」
だから早くと急かし、慌てた彼も急いで立ち上がり靴を履き始めた。しめしめ。思惑通りに運びそうな状況に頬を緩める。
ここらへんにはなさそうな、少なくとも会場にはないだろうのミルクコーヒーを頼めば。あたしの作戦はばっちりなのである。
一人きりになった部屋。ばたんと閉じた扉と、その向うを走っていく神原の足音をしっかり聞く。すかさず手首の縄をはずそうと試みる。
体の前にあるのが幸いだった。目でしっかり見ながら手首の拘束をはずし始める。ちょっとばかし赤くなり始めている肌を気にしながら、丁寧に動かして。
何重にも撒かれたそれを、一本また一本ずつはずして緩くなったそれから一気に開放された。
あたしの勝利だ。
そう確信して足首の方に取り掛かる。両手が自由になった今、あたしに不可能なことはない。ばさばさと邪魔っ気な袖を避けながら、あたしは今完全に自由を手に入れた。
っしゃい! 密かにガッツポーズをして、いざ狭い楽屋から脱出する。廊下の左右を如才なく確認して、着物に併せた桐下駄を履いてからんころんと駆けた。
ちょっと目立つけど、このまま家に帰ろう。そして布団に直行だ!ふははは、と心の中で笑う。顔は至って真面目のはずだ。
外に出る扉はどこだろう。あまり騒がしくないところを選びながら進む。
ううん、同じような景色が続いているような気がする。だがあたしならできるはずだ。
さあ、この目の前の扉を開けてアイキャンフライ!
もはや飛び出すを越して飛び立たん勢いで扉を開けた。ぶわりと体をすり抜けた風がとても気持ち良い。無事に出れたぞ。そう思ったのも束の間だった。
がんとなにかにぶつかる扉。ガラス製のあからさまに重たく低い音を出した。それがなにかだったらまだ良かったのだけれど。
「痛ったぁ……」
「え?」
勢いに乗って進んでいた足が止まる。振り袖が慣性の法則に従ってあたしの前に躍り出た。それを視界の端で確認して、あたしは振り向く。
扉がぶつかったそのなにか。無機質だったら良かったのに。それがそうじゃないからとても困るのだ。
あたしの数メートル後ろに居たのは、鮮やかな青い制服を着込んだ女子高生。ベンチに座ったまま動かない。
頭を抑えてるところを見ると、そこが痛むのだろう。ばたんと大きな音を響かせ閉じた扉。
うわぁ。血の気が引いた。
やばいぞ、女の子に怪我をさせたとなったら神原になんて言われるかわからない。
大慌てでその子に近寄る。
まずは安否の確認だ。
「大丈夫ですか?」
いやそりゃ痛いだろう。あんな重たいガラスの扉が勢いよくぶつかってきたのだから。
ベンチに腰掛けたままだった彼女はつやつやの黒髪を揺らしてあたしを見た。
表情こそはあまりないが、目は少し潤んでいる。
「一応、大丈夫です」
途切れ途切れに言って彼女は、自身で抑えてぐしゃぐしゃになった髪を手櫛でとかした。短い髪が整えられていく。
そんな感じで女の子が動いた所為か、彼女の膝から何かが落ちる。どうやら本の様だ。
なるほど。これを肘掛けに寄りかかるようにして読んでいたところに扉をぶつけてしまったのか。それは非常に不意打ちだ。
申し訳ないと思いながら、その分厚いハードカバーを拾い上げる。紐のしおりがぷらぷらと揺れる。挟める前に閉じて落下したから、どこから読むか迷うだろうなぁ。
まだ編み目が解けていない薄い紐。まだ新しい様だ。
「落ちましたよ」
「ありがとうございます」
本の裏表紙を上にしてそれを渡す。それを彼女が受け取った時に気付いた。この裏表紙、どこかで見たことあるぞ。異常なぐらい見覚えがある。
帯に書かれたコメントも、空で言えるぐらい覚えている。
またさらに血の気が引いた音がした。
桃色の表紙。見慣れた名前。何故本屋さんにカバーを掛けてもらわなかったのだ。いや、そんな事今はどうでも良い。
問題は今のあたしと彼女の関係だ。
無表情な少女の黒い目を見ながら、あたしは脳みそをフル稼働させる。あたしと彼女の関係は。
表面上ではただの初対面。さっきまではそれが本当だった。
しかし今はどうだろうか。彼女はまだ気付いていない。もしこの本を開いて一番最後のページに載ったその本の作者の顔写真を見なければ、このままずっと気付かないだろう。
「大丈夫かな……」
がっかりした声を少女が出した。表情こそわかりにくいが、本を落とした事にショックを受けているのだろう。
相当大切な本なのか丁寧に丁寧に本を払い、キズがないかを探している。
なんだか脇腹あたりがムズムズしてきた。叫んでどこかへ消えたい。けれども動くに動けない。もう冷や汗とかまったく止まらないし、心臓は耳元に引っ越して来た。
動けあたし動け、動くんだ。
「好きなんですか、その本」
何聞いてんだあたしの馬鹿。気付いたら口が動いていたのだ。
少女は怪訝な顔をして。すかさず「何でもないよ」と訂正を入れようとしたが、その前に彼女が口を開いた。
「ええ。これはまだ読みかけですけど」
この作家さんが好きなんです。
そう言った彼女は確かに微笑んでいて。最初に見た仏頂面なんか夢だったんじゃないかと。
今ならあたし死んでも良い。
ぽかんと口を開けたまま、あたしが黙っていたら少女と目があった。ただ放心していただけのつもりだったが、それがいけなかった。
彼女はその好みの作家をあたしに教えようと、本を開いたのだ。
「この人です。如月真琴さん」
「あ、へぇ、女の人なんだぁ」
「そうですよ、今日サイン会があるみたいで」
「むぅーん」
指さされた自分の顔写真。知っているサイン会の予定。動揺しすぎて相槌が変になってしまった。
少女は写真のあたしを見ているので、間一髪気付かない。鈍い方なのか、はたまたあたしの写真写りが酷いだけか。
どちらにせよ、すぐ立ち去れば良かったのである。
「……え」
「なななななに?」
「…………え?」
また、今日何度目かの少女との見つめ合い。それはにらめっこに変わって、さっきの倍の時間見合う。
大きな目が更に大きくなった。
彼女の白い指が、写真とあたしをを行き来する。
「嘘……如月真琴さん?」
「……は、初めまして」
いったい、あたしが、何を、したと、言うのだ。
少女が口をぱくぱくと開け閉めして何かを伝えようとしてくる。うん。まぁ、言いたいことはわからないでもない。
しばらく目をきょろきょろさせ口を金魚の様に開けたり閉めたりしていた彼女は、最後の最後に鞄を漁り始めた。
少ししてサインペンを手に掴んだ彼女は、言葉よりも先に本とペンを突き出す。今度はあたしが目を丸くする番である。
「さ、サイン頂けますか」
「あたしで良ければ……」
「貴方以外に誰が居るんですか」
そういわれればそうだ。あたしは無意味にヘこへこしながら渡されたハードカバーを受け取る。
ああ、ついこないだ完成させた小説は、こうやって愛してもらえるんだなぁ。
キュ、ポンとサインペンのキャップをはずしながら、どうしてかしみじみと心が満たされてしまった。
そうだ、そういえば。
「貴方のお名前は?」
「さ、桜坂花蓮です」
可愛らしい名前だ。きっと綺麗な空の下で笑う姿が似合うのだろう。少し頬を赤くした少女改め花蓮ちゃんは、無表情ながらも嬉しそうにほころんでいた。
「花蓮ちゃんね」
ありがとう。そう言って書きなれたサインをゆっくり丁寧に書いて、優しく返す。大事にしてくれてありがとう。あたしはとても幸せだ。
しょうがない、花蓮ちゃんの為にもサイン会に出ますか。いや、むしろお詫びとして食事にでも誘おう。そうだそれがいい。
「ねぇ」
あたしが食事に誘おうとしたとき、どこか遠くで声がした。聞き覚えのありすぎるとある声。
足音まで聞こえてくるようだった。
しかし口は止めずに今夜食事に行きませんかと言い切る。だってチャンスは今しかない。だから花蓮ちゃんを誘った、そのはずだった。
大きくなった声がそれをさえぎる。
「真琴てめぇええええ!」
「げっ!」
「真琴さん危ない!」
迫る知り合い。揺れた世界。
まさかの一瞬の出来事。
怒り狂った表情の担当編集を、あっと言う間に花蓮ちゃんがひっくり返したのだ。沈黙する周囲。ころころと転がったミルクコーヒー。
「な、ナイス背負い投げ」
今夜だけでなく、この事件が編集社の酒の肴になるのは、あたしだけの所為じゃない。
そんな、とある少女との出会いの話。
それは、とあるサイン会での話。
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