じゃがいもの憂鬱
最近俺には気に掛けている人がいる。最近がいつごろかと聞かれると、俺はそれに答えられない。最近は最近でも、気付いたら気に掛けてしまっていたのだ。なのであやふやな最近の話。
それに加えて気に掛けると言っても、四六時中その人を考えている訳ではない。ただ声が聞こえるとすぐその人だと脳が判断したりするとかそう言うことであって。
俺がいつも菊さんに対してしている事とさして違いはないのだ。
だけどどうしても、菊さんとは違うような気がしてならない。またそれもあやふやなものなのだけれど。
「おはようございます唯人さん」
「おはようございます」
襖を開ければいつもと同じように菊さんが俺に挨拶して、俺も彼に同じく返す。よそわれたばかりの白米の前に座り、箸を手に取った。
最近朝はぼーっとしてしまう事が多くて、朝食は菊さんが一人で用意してくれている。申し訳ない。
「近頃、朝に弱いみたいですね」
にこりと漬け物に箸を付けた菊さんは笑う。その言葉はごもっともだから、俺は言い返す事はせずに出汁巻き卵を頬張った。
明日はちゃんと起きないと。せっかく目覚まし無しで起きるという偉業を成し遂げられるようになったのに。それになにより、朝ご飯を一人で作らせ続けるわけにはいかない。
「なにかお悩みでもあるんですか?」
「悩みって言うか」
解決口の無い考え事なんですよね。と言う声は尻すぼみになって消えた。ふわり。また言葉にならないような言葉が浮かんで沈む。
俺はなにを考えてるんだろ。
菊さんはにこりと笑って俺の手に彼のそれを重ねた。え、なんで?
そう思ったのはぼんやりで、いつもの事かとそれを受け入れた。冷え症なのか、彼の手は少しばかり俺のより冷たい。
「辛いときは、私が支えますよ」
「あ、えと」
目を細め柔らかく笑う菊さん。しかし彼に言えるはずがない。
菊さんじゃない他の男についてで悩んでいますなんて聞いた菊さんはどんな顔をするのだろうかと。
俺は菊さんを裏切るような事をしたくない。
ほわり。また微笑んだ彼の頬に手を当て、大丈夫ですよと告げる。白くてきめ細かい頬に指を這わせ、また俺も深く微笑むのだ。
「無理はしないで下さい」
「わかってますよ」
頬にあった手を上に移動させて、艶のある細い髪を指で鋤く。さらりさらりと黒髪が揺れた。
誰か来たみたいだ。そう思ったのは菊さんも同じの様で。彼が先に立ち上がった。
菊さんが開けたふすまの向こうでは、ぽち君がお出迎えするのかとてとてと駆けていた。愛くるしい。
俺まで出迎える必要は無いだろう。どうせ宅配便かなにかだ。時計を見ながら朝ご飯の続きを頬張る。白米の甘さをよく味わって。
どこか遠くでこんにちはと間延びした、とある声が聞こえた気がした。その声の持ち主を、俺の脳みそは瞬間的に察知して名前をはじき出す。菊さんではないこの声は。
沢庵に伸びていた箸が止まってしまった。なんで自分がこんな風になってしまうかはわからないけど、止まってしまったのだ。なかなか動けない。
「神原さんだ」
無意識のうちに呟いてしまったその名前。何故か口の中で転がったその名前が特別なものに思えて。
違和感だらけの自分の口に、沢庵を詰め込んだ。にしても、どうして彼がここに。
口の中でこりこりと良い音を出しながら、俺はどうしようかと狼狽えた。出迎えるタイミングは完璧に見逃してしまったし、でもここに居るのもなんだか落ち着かない。
どうしよう。思わず座り直した。
「あっ!」
廊下から声がした。菊さんが珍しく叫んだようで。それと同時にゴトリとなにか重たそうな音がしたけど、なにかわからない。
ただ彼の身に何かあったことは明白だ。
箸を放り投げて、俺は玄関へと足を急がせる。こんな家の中でなにかあるとは思えないけど、万が一の事を考えて。
「菊さん!」
「唯人さん……」
菊さんまであと五メートルと言うところで、俺の足は自然と止まってしまった。
倒れてしまったりしてはいないだろうかと考えていたが、それはまったく違ったのだ。
玄関に居たのは菊さんと神原さんの二人だけ。それにはなんの問題もない。ただ、彼らが抱きしめあっていると言うのが大問題なのだ。
バクリバクリと心臓が騒ぐ。今にもそれは破けてしまいそう。乾いた口は「え」とか「あ」とかの母音しか発しない。
「神原さん……どうして」
「あ、唯人君お早う」
へらりとなんも無かったかのように菊さんを腕の中に収めたまま笑う神原さん。俺の事なんか構わないと言わんばかりに、慌てる様子もない。
形が変わるんじゃないかと思うぐらい大きく膨らんでいた心臓が、しゅるしゅると萎んでいく。
どうしてだろう、破裂じゃなく小さく締め付けられて消えてしまいそうだ。
いつもは幸せになる笑顔が今はとても辛い。
「唯人さん違うんですこれは……」
「いいです、もう」
神原さんの腕の中で俺を呼ぶ菊さんも、まったく動揺しない神原さんも見たくなくて。俺は踵を返し廊下を逃げた。足音を大きく歩き、歩いてあるいて。
何してるんだろうとぴたりと止まった。
良い年してなんだ俺は。立ち止まった廊下で自問自答。答えは返ってこない。
胸に滞るもやもやを吐き出すつもりで深くため息をつく。
そういえばどうして俺さっき菊さんよりも先に神原さんを見たんだろう。俺は菊さんと……。
そう思った所で、背後からの声に邪魔された。
「唯人君、どしたの?」
「神原さん」
「美味しいじゃがいも持ってきたよ」
「そうですか」
言葉に詰まりながら振り向いた先には、予想通り神原が居て。また胸がきゅうと小さくなった。
逃げたいのに、話をしたい。この気持ちはなんだろう。
神原さんはどことなく眉尻を下げて、困っているようで。きっといきなり不機嫌になった俺を心配しているのだろう。
申し訳ないなと俺も困ってしまった。
「俺なんかしちゃったかな?」
「……いえ、なにも」
わかっているのかいないのか。手を伸ばせばふれられる距離に居る神原さんがもどかしい。いっそ突き放してくれれば良いのにそれはとても怖くて、そしてやっぱり彼はそんな事しないのだろうとわかりきっている。
矛盾しすぎた自分に嫌気が指した。
神原さんは俺の顔をじっと見て、なら良かったとへらり笑う。思わず息を飲んだ。
触れたい、と思ってしまった。
不純だ。しかも俺は男なのに。
今の感情を伝えたら、きっと軽蔑される。もう話して貰えなくなるかも。想像力ばかりが働いて、神原さんの目が見れなくなり俯いた。
「悩みがあるなら、聞くよ?」
さっきの菊さんと同じ言葉を囁かれた。心配、されている。菊さんとまったく同じ言葉なのに、どうしてか全然違う意味に聞こえてしまって。
俺の口は意志にそぐわず勝手に動き出す。
「神原さん、俺……」
「うん、なに?」
真っ直ぐ見た彼の目は、吸い込まれてしまいたいぐらい優しい目をしていた。
「す……き、でしぅ……」
そんな、はずが、無い。
ぼんやりと呟いた自分の声で目が覚めた。目覚ましを使わない朝、今日も天気がいい。ふわりと鼻をくすぐったのは、昨日作った肉じゃがの香り。多分残りを温めたのだろう。
それより今の出来事はなんだったのだろう。
ぼやぼやした頭でさっきまでの記憶を掘り出して。それが夢だったと言う事と、その状況を理解するのに少しばかり時間があった。
顔を真っ青にして駆け込んだ居間で、肉じゃがを見てさらに鳥肌をたたせるまでさらにもう少し。
夢は深層心理だなんて誰が言ったちょっと来い。
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