8日目


「こいつらも妖精か?」
「知らんよ」

 テレビのスピーカーから流れる曲が、朝食をいつもより賑やかにしていた。画面の中では黄色いのとお兄さんお姉さんを中心に子ども達が踊り始めている。
 いちごジャムを塗りたくったトーストにかぶりついて、あたしは横目でラッパのような角笛のようななにかを持っている黄色いのを見た。
 名前はとんと思い出せない。

「妖精じゃないならSpooは何者なんだ?」
「発音良く呼ぶな」

 アーサーはマーガリンと砂糖をつけた甘いパンを口の中でもごもごさせながら首を傾げていた。もごもごしている筈なのに、すぷーの発音がキングスイングリッシュなのは何故。
 テレビ画面では風船が乱舞していた。子供たちが風船を狂ったように追いかけ回している。あたしはと言うと、テレビに夢中なアーサーに気をとられ、パンくずを乱舞させていた。

 パンくずをかき集め空になった皿へ乗せる。そのままシンクへ運びスポンジを手に取った。早々に終わらせて、ゆっくりしてしまおうと企んでいる。

「お、dinosaur girl」
「がんこちゃんな」

 水の音が煩かったのか食器の音が騒がしかったのか、テレビの音量が大きくなり、ざわざわ森のオープニングが流れる。彼のリモコン操作も慣れたものだ。
 蛇口のレバーを引いて水を止めれば、一層音が響いた。

「今日はなにもする事ないね」
「そうなのか?」

 自分でもわかるほどにやけながら頷いた。掃除洗濯はやった。打ち込みは今日はやらない。神原も来ない。買い物に行く予定もない。久々の朝からゆったりした日だ。愛しいニートの日。
 アーサーがこの世界に来てからは初めてかも。むしろアーサーが来たから忙しくなったと言っても間違いでは無いが。

「じゃあテレビでも見るか?」
「それもいいね」

 コップを食器棚に片付けて、棚を開けたついでにティーセットだけ出しておく。どうせ後で使うことになる。
 今日はレモンティーが飲みたい。ずっと前に冷凍した輪切りのレモンがあるが、使えるだろうか。

「目ぇかゆい」
「突然どしたの?」

 ごしごしと目をこするアーサーの手を掴み止める。その綺麗な目が充血するだなんて勿体無い。ていうか手白い。きめ細かっ。
 レモン果汁で誤魔化そうとしたからなのか、そうなのか。アレルギー反応みたいなもんなのか。

 掴んだ手が思ったよりゴツくて大きいので、驚いて手を放した。少し落ち着いたのか、目をしぱしぱと瞬かせながら、アーサーはテレビに目を戻す。

「あんなに糸が見えてるのになんで子供たちはわからないんだろうな」

 あれを子供たちは本物の恐竜だと思っているんだろ? と続けたのですかさず全国民が人形だって知っていると誤解を訂正した。なんの自信があってそんな勘違いをしているのだ。

 「あ」とアーサーが呟いて、彼の気に入っている番組のエンディングが流れた。後の番組にはあまり興味がないらしく、リモコンに手を伸ばしたアーサーはチャンネルと書かれたボタンを押し始める。
 平日昼間はバラエティばっかりで、名前も知らない芸能人たちがなにかぺらぺらと話を進めていた。似たような番組が、チカチカと切り替わっていく。

 不意に、『駄目よ!』とひときわ大きな音声が部屋に響いた。びくりと二人の肩が揺れる。
 ドラマなのか、映画なのか、今までの番組とは違うと感じたのか、アーサーの手が止まる。

「ドラマみたいだね」
「ふぅん」

 番組欄を見て、恋愛ドラマだと伝えると、アーサーがまた興味がなさそうに返事をした。途中からでは、話も何も分からない。
 「あ」とどちらかが小さく呟いた。もしかしたらアーサーだったかもしれないし、あたしだったかもしれない。呟いたときにはもう、画面の中の男女が、絡み合って。

 激しいキスシーン。あっという間に情事が進んでいく。部屋のソファに押し倒されて、ああ、うわ、うわあ。
 昼ドラマはこんなことまでするのか。唖然としていると、アーサーが肩に力を入れたまま固まっているのが見えた。

 困っているのか、混乱しているのかは判断しかねたが、このまま事が進んでいくのを二人で見るのは非常に気まずい。
 どうしよう、どうしようと慌てて、宙で意味もなく揺らした両手でそっとアーサーの目を塞いだ。手を当てたと同時に、アーサーが「ひゃう!」と変な声を出して体ごと大きく跳ねた。しまった、声を掛ければよかった。

「な、ななななにすんだ!?」
「ほら、子供にはまだ早いっていうか!」

 アーサーが目を塞がれたまま、動揺を隠すことなく叫ぶ。同じくらいの大きさであたしもそれに返した。
 納得した様子ではない彼は「あー」とか「うー」とか唸り、ここからどう展開していくか考えあぐねている。そういうあたしも、手を放すタイミングを見失っていた。

「真琴、離してくれ」
「うぃ」

 相当びっくりしたのか未だにわなわなと震えているアーサーには適当に返事をして。すかさずリモコンでテレビを消した。
 まるで思春期の息子と母親の気分というか、そのものだった。なんでもない顔でスルーしたら良かった、なんて後の祭りってやつだった。
 テレビが今まで大きな音を出したままでいた所為か、沈黙が更に気まずい雰囲気を演出している。

「あのさ……」

 ぽつりとアーサーが言葉を転がす。俯いた所為で表情はわからない。
「なに?」
「わざとじゃないからな」

 彼も同じ気持ちだったのか、よくわからない言い訳を呟いた。普段なら「意味が分からん」と一蹴していたかもしれないが、今のあたしにそこまでの気力は無い。
 だいたい、アーサーが変な声を出すから悪いんだ。おまえは年頃の乙女か。

「お前、手が冷たいんだよ!」
「人の所為にしない!」

 そんなことを言って、あたしもさっきすべてをアーサーの所為にしていた気がする。あー、だって、だって冷え性なんだからしょうがないだろう。
 そんな事を口の中だけで呟きながら手を頬に当てると、なるほどびっくりするぐらい手が冷たかった。こんな、こんなに……あれ?
 これは本当に冷え症だっただろうか。

 気を紛らわせようと横になってはみるが、いまいち落ち着かない。ちらりと盗み見たアーサーは少し早く気を取り直したようで、寝心地の良いポジションを探すあたしをにやにや見ていた。
そのうち寝転がるあたしを上から覗き込んで、意地悪な顔を見せてくる。

「真琴といると調子が狂う」
「なに、今更」

 にやついた顔を隠そうともせず、アーサーが金髪を揺らす。細めた目が、前髪で隠れている。
 次は何を言ってくるのかと身構える。今のアーサーは顔と言葉が釣り合っていない。

「出会えたのが真琴で良かったな、って」

 ヒュ、と息を呑んだ。潤った形の良い唇、透き通って奥の奥まで覗けそうな瞳が目を引いた。盛り上がる頬は薄くピンクに染まっていて、まるで化粧でもしてしまったような。
 美しいと言うに相応しい。むしろそれ以上に美しいものが思いつかなくなってしまうぐらい。
 見上げるアーサーはサラサラと髪を揺らす。一本一本が意志でも持つように太陽を反射していた。
 あたしを見るために彼が俯いた為、いくつかの毛先があたしを見ている。ぎゅ、と喉の奥が締め付けられたような気がして、慌てて目を逸らそうとした。なにを、なにをこんなに格好付けて。

「う、うざったいわその前髪!」
「はっ? 何だ!?」

 あたしを覗き込んでいたアーサーが一気に身を引いた。すぐにあたしの腕の動きに気付いたようだが、それでもあたしの方が早かった。がしりと奴の長い前髪を掴んで、相手の動きを止める。
 掴めたのだ。なぜなら長いから。

「いたたたた! ちょ、離せよばかぁ!」
「捕まえた」

 うふふと笑えば、アーサーもあははと笑う。手を取り合う若い男女のように爽やかな笑顔だ。
 アーサーは足を開いて力を込めて、あたしが手を開くのを待っていた。しかし実に残念なことにあたしにはこの手から君の美しい金髪を放すつもりは、それこそ毛頭ない。

「は、な、せっ」
「やーだーねー!」

 さすがに引っこ抜いてしまうと笑えないから、掴んだまま引っ張らずに立ち上がる。目線の高さがアーサーより上になった。ははは、いい気分だなぁ。上機嫌になりながら、掴まなかった左手を彼の右腕に当てる。そしてそのまま洗面所へゆっくりと移動を始めた。

「角の床屋さんで刈るか、今切られるかどっちがいい?」
「髪の話だよな?!」

 後ろ歩きをしている所為で洗面所がいつもより遠い。別に理容室に行かせて三ミリで刈って貰ってきても良いのだけど。それすら似合いそうだから腹立つ。
 お母さんが切ってやろう。これでも昔から前髪は自分で切っているんだ。自信はある。自分を信じている。あたしは出来る。

「真琴が切るつもりなのか?」

 抵抗を諦め始めて中腰のまま、アーサー何故か不安そうだった。なにが不満なのだろうか。大丈夫、髪を切る用のハサミぐらいあるんだぞ。

「そこに失敗例があるじゃないか」
「どこ?」
「そこだ!」

 アーサーが指差したのはさっきから見ていたあたしの前髪。彼はこのあたしの前髪が失敗例だと言うらしい。
 不服ではあるが洗面所の鏡であたしと見つめ合う。どこもおかしくないじゃないか。多少眉より上でアシンメトリーな感じで切ってあるだけで。まぁ、いつも切った後に「アッ……」って言っていることは今言わなくても良いだろう。
 アーサーの前髪が長すぎるから違和感があるだけだ。鋏を洗面所の脇にある棚から取り出すと、それを開いたり閉じたりして。
 にこりと口角を上げて飽くまでも爽やかにアーサーを見た。

「やめ、やめろ!」

 そんな顔面蒼白の彼の背中には壁。目の前にはあたし。リビングへの逃げ道はあたしの背にある。
 チェックメイトとでも言おうか、果たしてこれは詰みなのだろうか。少なくともあたしにとっては詰みではない。彼にとってはピンチらしいが。

「自分で出来るから!」

 隙を見たのか勢いを付けて伸ばされた手を軽くよけた。もはや彼は必死である。何故そんなに怖がるのか実に不思議だ。ミステリーだ。ちょこっと切ってやるって言っているだけなのだが。

「いいって」
「あたしが良くない」

 問答を続けずすぐに行動へ移った。ざくりと結構大胆な音が耳に届く。手に感じた少し堅い感触が心地よくて、思わずにやりと笑ってしまう。
 その数秒後、鏡の中のアーサーとばっちり目があった。
 そしてそれから宝石のようにキラキラと光る金髪が洗面所の中にゆっくりと落ちていく。あとで掃除機をかけなければ。そんな風に思考を巡らせてから、もう一度鏡の中のアーサーと見つめ合ってみた。

「あら、綺麗なアシメ」
「ぎゃあああああ!!」

 狭い洗面所で、アーサーの叫び声が空気や家具を震えさせた。耳がびりびりして、思わず両手で抑える。びっくりした。
 うーん、ちょっとばかし切りすぎたのかなぁ。
 そう思ってしまったのは、以前の前髪が長すぎた所為なのか。はたまた今や一番短い所で、その太く凛々しい眉より二センチ短いのが原因なのか。長いところは殆ど切れてないのと同じで、さっきより数ミリ短いかどうかぐらい。
 彼の表情は、怒りを通り越して涙。

「嘘だ悪夢だこれは。俺は信じない、信じないぞ。」
「ごめんって」

 洗面所のすみで小さく座り「信じない信じない」と呟き続けている。背中を擦り謝るが、なかなか彼に笑顔は戻らない。
 悪ふざけしすぎてしまった。ちょっとだけ。

「優しく! 今度は慎重にやるからさ」
「もういい、俺がやる!」

 目に涙を浮かべた彼はハサミをあたしから奪い取り、鏡の前に立った。改めて前髪を見たアシメ眉毛は、また目をうるうると潤ませる。可愛いとか言ったら怒られるだろうか。
 アーサーの後ろで鏡の彼を見ながら、あたしは密かに思っていた。ハサミの持ち方、違うような気がする。
 アーサーは「どこらへんで切ろうか」と恐る恐るといった風に前髪を掴んでいる。あたしがやった方が良いのじゃないだろうか。アーサーが抵抗しないで、あたしが落ち着いて、それならもしかしたら成功するかもしれなく無くもない。平たく言えば自信はあまりないのである。

「こっちがひどいからな」

 悪かったな。洗面所に静かに響いたのは、彼が前髪を慎重に切る音。鏡には真剣な顔をしているアーサーが写っている。普段からそんな顔をしていてれば格好いいのに。いや、偶にだから格好いいのかも。アーサーが実は格好良い顔をしているのを、あたしはすっかり忘れてしまっていた。

「あっ!」

 不意に声を出してしまった。それはアーサーの声と重なった。目の前をひらひらと落ちてきた絹糸みたいな髪を目で追う。床に落ちたそれを手に取り一瞥してから、近くのゴミ箱に入れた。
 それから顔を上げ、しゃがんだ体制からアーサーを見る。下から見るとやけに大きく見えた。それと同時に彼が別の人間みたいに思えた。

「もういっそ剃っちゃえば?」
「それも良いかもな」

 こっちを向いたアーサーの前髪は、あたしが一番短く切ったところを除いて一直線に揃って見えた。数学のルート記号を上下逆にした感じの。
 少し鼻声のような掠れた声で笑ったアーサーはあたしの目から見ても異常だったと思う。
 いったい何が悪かったのだろうか。
 強いて云えば全てが悪かった。強いて云えば全て悪くない。ならば何故アーサーの前髪は眉と平行線を描いているのだろうか。

「どうすればいいんだ……」
「神原にでもお願いしたら?」

 アーサーの緑色した綺麗な目がこっちを見た。その手があったか! アーサーの少し涙声が部屋に響く。光を反射してキラキラしているのは涙で潤んでいる所為だろうか。
 あたしはその目をじっと見つめ返して、奇麗だと呟く。彼の瞳には深い森が茂っていた。その中に入っていきたい。誘われているみたいだ。どこまでも、どこまでも。入り込んで進み込んで迷い込んでしまいたい。彼の瞳に映る世界は、一体どんな色をしているのだろう。まさかフィルムを通しているかのように緑色に染まっている訳じゃないだろうけど。だとしたらあたしの世界は真っ暗だ。
 そうじゃなくてもきっと、あたしの世界と彼の世界は全く違うのだろう。

「奇麗だね」
「あ?」

 聞き返したアーサーの顔を見つめる。うん。やっぱり奇麗だ。太陽の光を全部吸収したかのようにきらきら光る髪の色と、おんなじ色をした長い睫毛。その量と長さに羨ましいと思うけど、それは彼の目にあるから美しく見えるのだろう。奇跡。運命。必然的とでも言えるのだろうか。神さまがよほど気合いを入れて作ったに違いない。
 目の上に揃っている前髪が誘惑するように揺れる。昨日までは長かったそれの所為で、よくわからなかったけど。彼の魅力はその目だ。

「良くない事考えてるだろ」
「いでっ」

 ばか真琴。そう言った彼の声と同時に額に衝撃。
 思わず瞬きした後目に入ったのは、眉を下げて笑ったアーサーの顔だった。


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