7日目
目を開けると、すぐ隣に真琴が居た。小鳥が鳴く涼しい朝、自分以外のぬくもりを含んだベッドの中で。俺と真琴が二人きりで眠っていた。
え、あ。
え?
頭の中を飛び交う疑問符。俺、え? いやないよな? まさかと思い、そっと布団を上げてみたが、ざんね良かった服は着ていた。
真琴は昨日の服のまま。俺は昨日の夜着替えた寝間着だった。まあつまり俺達はそういう事だった訳で。
そもそも、よく考えなくても昨日の状況でそんな事態になるわけないだろう! いやいや最初からわかってたけどな。期待なんかしてねぇぞ。
そこまでわかったは良い物の、どうしてこの状況に至ったかがさっぱりわからない。真琴は別として、なんで俺まで真琴のベッドで寝てるんだ?
随分と長い間。行き交う数々の憶測。もしかしたら時間が止まったのではないかと思わせる、そんな沈黙だった。
真琴の肩が上下しているのを見ると、それはただの気のせいだとわかったが。彼女の肩まで見る余裕はあれども、そんな余裕じゃ足りないのか体が動かない。
緊張からの物だとはすぐわかる。そうやって理解したお陰で取り戻した冷静さも、すぐに真琴の寝息に乗ってどこかに飛んでいった。
心臓が大きさを変えて体中を移動している。耳の中の血液が音をたてて流れているのがわかった。どうしたら良いのかわからず、視線があちらこちらと忙しい。
真琴の髪、まぶた、頬、耳、額、のどもと、唇。見れば見るほど、時間が経てば経つほど状況は悪化して。
女性の寝顔はこんなにも魅力的だったか。真琴はこんなにも色っぽかったか。顔が熱くなり、心拍数もさらに上がる。
そ、と髪を撫でれば、見かけによらずさらさらと指をすり抜けた。その最初の誘惑に勝てなかったのがいけないのか。
「真琴」
俺が今何を考えているのかもわからない。何をしようとしているのかもわからない。
ただ息をするのと同じように。
まばたきをするのと同じように。
目を閉じた真琴のその柔らかそうな唇に、キスを。
「なにやってんデスカ」
「おぎゃあああああ!」
「うっさいわボケェ!!」
朝の爽やかな空気が三人の大きな、というか叫んだ声で震えた。
ああよかった。本当に助かった。
朝にしては大げさなぐらいに真琴はこれ以上無いほど目を細め、眉間に深く深くしわを寄せていた。
神原が朝食を用意してくれ、食卓には美味しそうな朝食が並んでいた。もうすぐ仕事に行くらしいから、今スーツに着替えている所だ。
「頭痛い」
「悪かった」
ぶつけたという側頭部は大きく腫れていた。そのついでに昨日の事を説明した。聞いている方も話している方もあまり明るい表情ではなかったが、話題も明るくはなかったのでしょうがない。
まず、真琴が気絶した後の事。俺が侵入者をぼっこぼこにした事。その後神原を呼んで侵入者を警察に連れて行った事。
真琴の布団に俺が居たのは、俺が寝ぼけたからだという事。そして侵入者を抑える時に部屋が荒れてしまった事。
なるべく真琴が理解出来るように。それと一緒に納得もしてもらえるように。事細かく話しながら、決して余計な事を言わないよう気をつける。
あまり上手くは無かっただろう説明を、真琴は始終しかめっ面で聞いていた。
彼女に言えなかった事は一つ。それと別に嘘も一つあった。
「真琴、あの男に見覚えは?」
「ない、よ」
「嘘だろ」
だって俺は聞き覚えすらあったぞ。心の中だけで言う。これは隠し事の方。言えなかった事だった。とてもじゃないが、言えるはずがなかった。
一昨々日のあの電話の事。あのプリンの事。悪戯に言って彼女を怖がらせる訳にはいけないと、昨日までずっとそう思っていたのに。今はそれが正しかったのかわからない。あの時言っていれば、彼女は靴べらなんかで戦おうとはしなかったんじゃないだろうか。
それとも、武器が靴べらからさらに強力な物へと変わっただけなのか。
そうやって考えていたのは昨日の夜で。考えているだけだと頭が痛くなって、ぐるぐるしてきて。結局真琴の寝顔を見ながら寝た。
少し頭が麻痺していたのかもしれない。ただ、真琴が無事だった、と思ったところで力が抜けた感覚は覚えている。
「なんであの男は真琴の名前を呼んだ?」
「表札でも、見たんじゃない」
「なんで鍵の様子がおかしいだけであの判断をした?」
「防犯意識として、当然じゃん」
目が逸らされた。手がせわしなく動く。素人の俺が解るほど、嘘をついていた。
最初はなんだかわからなかった。ただ鍵が開いた音がしないのに扉が開いたな。と思った程度で。可能性としては彼女の家族や恋人、とかでも充分あり得るのに。ただ鍵が開けられていたという状況だけで彼女は侵入者と考えた。
まるでこれが初めてではなかったように。
真琴の名前を呼ぶ奴の声は電話の声と同じだった。敢えて言うなら、電話の時よりもやや上擦っていたと言うべきか。
しかし一言聞いただけで鳥肌がたつその声が。暗い中突然聞こえてぞっとした。全身の毛が逆立って。
瞬時に事を理解した。一週間の中で一番の素早い理解だったに違いない。
真琴が気付いていたかはわからないが、奴の右手にはナイフ。左手には何が握られてたか、それは口に出すのも思い出すのも腹立たしかった。
一日の起承転結をあらすじに纏めるよりも簡潔に。左手に握られていた白い小さな布。
両手に握られた物を目で確認したすぐ後に、俺はとっさに真琴を庇った。その時はここが自分の世界では無いことも忘れて。
俺は死んでも構わない。向こうの世界のイギリスが滅んでも良いなんて。そんな、あってはならない筈の言葉が浮かんで。
結局、俺はこうして健全で、大きな怪我もなく終えたからよかったと言えるが、果たしてこの事を真琴が聞いてよしとしてくれるかどうかはわからない。
「真琴、怪我ないか?」
「頭にたんこぶが」
「なら大丈夫だ」
実際、一着服をダメにしていた。見つからないよう、神原に預けているから、その服が彼女の目に触れることはないだろう。
気付かれないように今日は腕捲りもしない。それに加え気を使いいつも通り動かす。少し痛むが、彼女よりは全然だ。
もしこの傷が俺の腕じゃなく真琴の胸や腹、急所に出来ていたら。そう考えるだけで痛みが消えていく。
真琴を失う方が、今の俺は怖い。
「神原君はアーサーが呼んだんだ」
「ああ」
「神原、なんか言ってた?」
「……いや」
「そっか」と眉尻を下げたまま笑う真琴はどこかまだ泣きそうで。それが意味してるのは、俺が知らない事を神原が知ってるという事で。それに俺も泣きそうになった。
「真琴は、あいつの事知ってたんだな?」
「……ど、うしてそんな事言うのさ」
「あたし嘘つくの下手だから、はぐらかせて欲しかったな」そう言ってまた泣きそうなまま笑った。
真琴に隠し事をされただけのはずなのに、心臓が引き裂かれたような気分だった。彼女が一言喋る度に、胸が縄で締め付けられているようだった。
俺はただの居候で。真琴にとってはただの迷惑な厄介者でしか無い。それなのに、少しでも嘘をつかれたくなかった。胸の中で、誰かが泣いている。
「ごめん」
「ごめん」と誰にもなく呟いた。いや、きっとアーサーにちゃんと言いたかったんだろうけど。
何故かあたしの目の前で寝ているアーサーが、嘘をついてるあたしを嫌わないか凄く心配だった。
起こさないようにそっと頭を撫でて再び眠りに、つまりは二度寝しようと目を閉じた。
次に目を開けた、と言うか開けざるを得なかったんだけど、その時はアーサーの他にもう一人がいて。重たい体を起き上がらせるとそのもう一人があたしを見ていた。睨んでたの方が近かったけれど。
最初は何に関して怒られているのかさっぱりわからなかったが、昨日の事態を知ったらしく、神原はずっと咎めるようにあたしをじっと見ていた。
「お疲れ様でした」
アーサーの説明を受けた後、あたしはそう言った。打った所為で痛む頭をさすりながら。時折アーサーの腕に注目しながら、あたしはずっと話しを聞いた。
昨日あたしが気を失った後。アーサーがあの男と対峙して、追い払ったらしかった。その間がっつりばっちり気絶していた自分に落ち込んだ。しかもなんか落ちる直前変な声出した気がするし。
はぁ、とため息をついて一度中断した話の合間に顔を洗いに行く事にした。少しだけ。ほんの少しだけ一人になりたかった。そんな格好いい言葉を使っても、実際は怒られたくなくて逃げたこととなにも変わりは無かった。
「真琴さん」
後ろから声が掛かる。ばしゃあと水の音をたてて顔を上げると、鏡の中に映った神原と目があった。
「なに」といつもと変わらず返事をすると、鏡の中の彼の顔が変わった。不機嫌そうに眉が寄せられ、目は細くなる。童顔が似合わない表情になった。
「何かあったら言えと言ったでしょうが」
「あったから言ったでしょ」
アーサーが。しかも事後報告だけど。
とか密かに付け足して。濡れていた顔をタオルで拭き取った。ああすっきり。
そんなあたしとは裏腹、というかあたしがすっきりしたような顔をしたからか、神原はさらに不機嫌、不愉快そうになる。今にも舌打ちしそうだ。
「事後報告じゃ遅いです」
「あたしには何もなかった」
「アーサーに責任押しつけないで下さい」
「あたしに責任はない」
言い切ると神原はぐ、と言葉につまった。相変わらず言葉で責められるのはダメらしい。
最後に「悔しければ過去の気絶前のあたしを受け止めてみせろ」と無理難題の適当を言って、あたしは洗面所を出た。
その後彼は人をも殺しそうな、酷い顔をして帰ったに違いない。
自分は昔から嘘をつくのが下手くそだった。どれだけ頑張っても、息を吐くように嘘を吐いたりなんか出来なかった。人間としてはそれが普通で良い事なのだが、あたしとしてはなかなかに不便。
例えば、今とか。
「アーサーは気付いてるよね」
「知らない。真琴の口から聞きたい」
そんな事をはっきり言われても。言うしかないのか。神原は口で何とかできても、あたしよりずっと年上のアーサーは全然揺れない。
事実を聞くまで今の場所から動かなそうだ。なによりその綺麗なエメラルドの両目に見つめられて、あたしの気持ちの方が揺れそうで。
答えを言うにしても、悲しい事に2つの選択肢はどちらを選んでも死亡フラグ。そしてバッドエンド。リセットボタンは見つからない。どっかの森のもぐらが持って行ったのかも。
兎にも角にもあたしはアーサーにあの忌々しい記憶を語らなければならないと思うと。同情をしてくれと頼んでいるような気分になりそうで凄く嫌だった。
もっとも、アーサーがあたしに同情するかどうかなんてわからないけど。
「あたしが一人暮らしなのは知ってるよね」
「ああ、知ってる」
「もう六年一人暮らしなの」
「そうか」
そこで少し黙る。勿論言葉足らずな事はわかっているけど。でもいつものアーサーなら、わかってくれる。察しがよく気も利く彼だから。
但し、それも“いつも”はの話である。
アーサーはわざと相づちしか打たないのだ。あたしが答えやすい質問なんか一つも出さない。
真琴の口から聞きたいと言ったとおりに、あたしが過去の忌々しい出来事を語るのを待っている。
だからと言うわけではない。ただ話さなければあたし自身も辛くなりそうだから。ストレスの容量オーバー。ぐちゃぐちゃと出鱈目に混ざりそうになる頭の中。
あたしはただ言葉を選びながら話す事しか選択出来なかった。
「ストーカーだった」
「いつから」
「去年。ちょうどこの時期」
アーサーはまたしばらく黙る。あたしは小さく息を吐く。
彼が何を考えているか、まったくわからない。
ただでさえ自分の考えている事もわからないのから、当たり前と言えば当たり前だ。
らしくないと言われればそこまでだ。確かにあたしらしくない。出来ない事はしない。隠せない事は、隠さない。
どっかの誰かには負け惜しみだとか言われたが。そこがあたしのポリシーで性格でほんの少し高いプライドだ。
「真琴プリン好きか?」
いつもと変わらないトーンで。今日の紅茶はハーブティーだぞ。ミルク入れるか? とでも言うように。
突拍子もないことを言い出した。
「どしたの、急に」
「もし一昨々日、あいつから電話が来てて」
そのうえ玄関にプリンが届いていたと俺が言ったらどうする? とアーサーは聞いた。
目を細め、眉を顰め、そして不機嫌そうに口の形を歪めながら。アーサーはあたしをじっと見ていた。
知っていたのか、むしろ知らされたのか。意識しても手の汗が止まらない。揺れる視界を止められない。
今日一番に動揺してした。
今のあたしには、もし、の話ではなくてもうすでに起きた事実を今更話されているようにしか聞こえない。
うっかり訪れてしまった沈黙。聞こえてしまいそうだと怖がりながら唾を飲み込み、あたしはアーサーを見返した。
「それを隠してたアーサーをちょっと怒る」
「っ、なんで」
俺、と言おうとしただろう口を人差し指で抑えながら、あたしは続けて言った。
「それと右腕の怪我にもっと怒る」
「ま、待て、話が違う方向にいってる」
「関係無いとか言わせない」
全部あたしの所為だ。だからあたしが怒らなければいけない。
相変わらず身勝手だと誰かは言うだろうけど。
これをあたしが怒らず誰が怒れと言うのかと、そうあたしは思うのだ。
「あたしを庇って怪我をしたんでしょ」
「……知ってたのか?」
「お互い様」
アーサーが怪我をしても、あたしは病院に連れていけない。身分を証明できないから、あたしが不法入国者を匿った事になってしまう。
アーサーは予想外だった様で、あたしの言葉に答えようと、何か言葉を探している。少しの沈黙がふわりと浮いた。
彼は結局、額にほんのりと汗をかきながら「悪かった」とだけつぶやいた。
「あたしがなにを言いたいかわかる?」
またアーサーが言い淀む。ツンデレの所為ではっきり言えないのかはたまたわかっていないのか。わかりたくもないのか。
随分ととった間の後、アーサーは渋々といった風に口を開いた。
「……俺も真琴を心配したし、真琴も、同じだった」
「だからアーサーが怒ってる事にあたしも謝るよ」
だからもう同じ事はしないで。わしわし、とアーサーの頭を撫でた。むしろ掻き乱した。本来は年上にするべきじゃないんだろうけど、今日は、この時間だけは特別。
一応、見た目的にはあたしの方が年上だと言い訳をしておこう。
あたしはその後アーサーを怒った。そしてごめんなさいと謝らせた。もちろんあたしもこっぴどく叱られたし、ごめんと謝罪した。
二人はそれで元通り。結局お互い隠し事を隠しきれずに見破り見破られ。喧嘩のあとは随分すっきりしたものである。
少し遅くなってしまったお昼ご飯にはサンドイッチを二人で作って食べた。アーサーに具を挟むのをお願いすると目を輝かせてやってくれた。
ついでにミルクティーも淹れてもらい、大変優雅なアフタヌーンティーである。
「しかしてアーサー」
「どうした真琴」
「今は何時かね?」
ベランダから干したシーツとその間から見える空を2人で眺めながら。あたしは緑茶をずずず、と啜って聞いた。午前中のような、ピリピリと肌が裂けるような緊張感はもうなくなっていた。
隣のアーサーが手を後ろ側について首だけを曲げ時計を見る。「五時と少しだ」と柔らかい声が聞こえる。
「夕飯どうしようか」
「寿司食ってみてえ」
「わがまま言うな」
買いに行かなきゃダメじゃないか。面倒。ずずずとお茶を啜る。アーサーも湯飲みに口を付け傾ける。元の世界で飲み慣れていたのか様になっている。それでお寿司を食べていれば完璧にグルメ目当ての観光客だ。
ベリーグット、ワンダフル! とか言いながら。
「神原にお願いしようかな」
「でも神原怒ってたぞ」
「そうだった」
しばらく奴はあたしの家には来ないだろう。あれだけ怒ってたんだ、いや怒らせたんだししょうがない。
あーあ。夕飯どうしようかなー。
あたしは三角に縮こまっていた体を伸ばし、リビングの中でも日当たりの一番いい所で横になった。アーサーも羨ましかったのか同じように横になる。
そう思えばこの何日かはこうやってゴロゴロしてた事なんてなかった。天変地異が起きそうな程あたしにとっては衝撃の事実である。
実際、天変地異に近いものはアーサーに訪れているのだが。天変地異と言うか、意味よりも文字通りの言葉になった事ならあったが。
空が変わり、地は異なる。
彼がこの世界に現れた。
前触れもなく、突然に。ならば前触れなく突然居なくなるんだろうと思いながら。
「わっとどぅーゆーうぉんと、とぅーどぅー」
「I would like to eat sushi.」
「うわあうぜえ」
戯れに聞くと、随分としっかりした英語で答えられた。アメリカ英語ではない、列記としたキングスイングリッシュだ。差を見せつけ、いや聞かせられた。
まったく悔しい事である。しょうがないんだけど。
ふあ、と欠伸の途中に、呼び鈴が部屋に響く。部屋の中にしっかりと聞こえるように、何回も、何回も。音を言葉にしたら、ピンポーンと可愛らしく。ピンポーン、ピンポーン、ピンポン、ピンポン。……随分としつこい来客だ。
「誰か来たな」
「なんだろ、管理人かな」
ぐるりと視界を反転させて、体をうつ伏せにする。そして手の力で体を半分起こして。方向的には玄関を見た。実際はドアまでなんて見えないけど。
呼び鈴は今も一度鳴ってから三秒待ってまた鳴ってを延々と繰り返している。このしつこさは新聞勧誘でもこのマンションの管理人でもない。
「出ろよ」
「やだ面倒臭い」
「俺が出るか?」
「出るの?」
「……立つのめんどくせー」
「だよねー」とか適当な相づちを打って。あたしは手の力を抜きばたりと倒れた。
昨日の今日での再来はありえないし、むしろこれからの再来も無くなったから。最悪の事態ではない。
まぁ不審な人物ではあるけど、宗教勧誘とかだとイヤだから無視しよう。今日はもう、疲れてしまった。
「鍵閉めてたっけ?」
「俺に聞くなよ」
「無理やり入っては」
「来ないでしょ」と言い切る前に、丁度ピンポンの嵐が静まって過ぎ去ったらしい誰か。ちょっとした台風一過だな。 しかし、この静かな数秒はただの台風の目だったのだ。
ガチャリと扉が開く音に、二人の体がこわばる。アーサーが立ち上がって玄関に向かおうとしていた。
「こんにぃちはぁ」
「うへへ」となにやら気色の悪い笑いと共に。ドタドタと騒がしくリビングへ入ってきた何か。
細い紐で持ちやすく縛られた四角い小さな箱を持ち、スーツはだらしなく着崩され。その人物の顔は全体的に真っ赤だった。
「真琴ひゃーん、ちょっと聞いてくっさいよ」
視線はちゃんと焦点が合っているのかいないのか。隣のアーサーがぽかんとしている。
恐らく前回と違って、アーサーがシラフである時に奴を見るのは初めてなんだろう。
わからない人には紹介しよう。
彼の名前は神原琉平。あたしの仕事仲間であり、非常に酒癖が悪い残念な男である。
「二人分きゃってきましたひょ」
「そうかいありがとう帰れ」
「うわ、酒くせっ神原」
あっひゃっひゃ、と何を考えているのかもわからない。大変迷惑な嵐である。ていうか大災害だ。
もしかして、こいつ退社した直後に飲み始めたってこと? そんなに嫌なことが……うん、心当たりは確かにある。
「古川さんが全然話しちぇくれないんすよぉお」
「古川さんて誰?」
「昨日会ったじゃないすぅか」
やる気なく寝そべっているあたしに合わせて四つん這いになって話し掛けてくる酔っ払い。一応聞いた事は頭の中に入ってはいるが、さしてちゃんと返そうなんて考えてない。
その事を察したらしい神原が「だから」と呂律が回ってないまま強調して続けた。
「寿司は旨いな」
「緑茶おかわりいる?」
「聞いてましか2人とも」
「はい、どうぞ」とアーサーの湯飲みに緑茶を注ぐ。神原の話は長すぎて、最初の方しか耳に入ってこなかった。そのうち飽きて、お土産に手を付けようと思ったら、これはまたちょうどよく寿司折だったのだ。
「お寿司久々に食べると倍おいしい」
「そら、俺が買って来たんれすから」
それでも神原は満足なのか、それとも気にならないのか、はたまた聞いてると思いこんでるのか。
回らない舌で古川さんって人の事でひたすらに愚痴を零していた。
そんなに酷い人なのか神原が過敏なのかは知らんが、あまり面白い話ではなかった。その人とうまくいきかけてたのに突然相手が冷たくなった感じの話の流れは理解。あーはいはい、わかってるわかってる。
てっきり、今朝の事でぐちぐちと怒られるかと思っていたのに。
「聞いてます真琴さん」
「きーてますー」
「もう嫌らんでしよぉ」
「神原今日は一段とうざいな」
だらん、と横になった神原。へにゃりと髪の毛が後に続いた。普段の欠片ほどしかない礼儀が完璧ログアウトだ。スーツにも皺がよる。
それを隣のアーサーが唖然と見ているが、実はいつもの事なんだからな。今は君が素面だからうざさが解るだろうけど、酔ってたらわからないんだろうな。
君がいつもお世話になってる弟さんとお兄さんに感謝なさい。
「飲まにゃにゃやってらんないですよ」
「それ以上酔っ払ったら人間やってらんなくなるよ」
あたしの名前を呼びながら這い寄って来る姿に「うざい」と一蹴して。あたしはまたお茶を一すする。
アーサーがとびっこを口に詰め込んだ。口の端についてるとびっこが所謂萌えポイント、または萌えントとも言う。とにかく可愛い。無邪気だ。これまた器用につけたもんである。
そんな事を思いながらあたしは口にいくらを放り込んだ。
「あ、無くなった」
「ちょっと待て。そのいくら俺のだったよな?」
「そう、君のだった」
「イットワズ」と口をもごもごさせながらにやりと笑って言えば「くそー」と呻かれた。いいじゃないかさっき玉子あげたんだから。同じ玉子同士でいいじゃないか。
「真琴さん、俺これからどうしましょう」
「なんとかなるよ」
「本当にですか?」
「来世ではなんとかなる」
「俺は今がいいんですぅうう!」と大声で叫ばれた。また隣の人に嫌味言われるじゃないか。大家さんに怒られたら全部こいつのせいだ。
アーサーが苦笑いしながら見守る中、神原は突然がばりと起き上がった。目が変に座っていて嫌な予感しかしない。
「俺真琴さんと結婚します! めんどくさい女だとは思うけど、浮気はしなさそうだし!」
「はぁ?!」
キーン、と耳の中でアーサーの声が右往左往する。音が止むとしばらくの沈黙。
思わず瞑ってた目をゆっくりと開ければポカンとしている神原と。神原以上に驚いているアーサーの姿だった。
「い、い、今のは違う! 違うんだって!神原が悪いんだ!」
「……なしたし」
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