手折れた橘は朽ちて

 後漢王朝末期、中原からは少し外れたところにある揚州呉郡の地はそれなりの穏やかさを保っていた。しかし、州刺陳温が病に死すと乱世の余波が着実にこの中華の南に位置する片田舎とも呼べるような地にも訪れていたのだった。そんな土地の中にある呉県に本籍地を置く朱氏は周辺地域にはそれなりに名の知られた一族である。ある日、その朱氏宗家の屋敷に来訪者があった。

「初めまして、私は陸議。字は伯言と申します」
「朱旦、字は元暁と申す。陸、というと廬江太守殿に縁ある方だろうか」
「お察しの通り陸康は我が外祖父に当たります」
 陸氏は朱氏と同じく揚州呉郡呉県に本籍を置く一族で、漢室にも名の通った名士の一族である。揚州の中では、廬江郡の太守となっている陸康が最も高名だろう。その肯定に対して朱旦は内心唸った、廬江太守陸康と寿春を拠点とし揚州に勢力を伸ばしつつある袁術の仲が急速に険悪となっているという噂が流れてきている。この時機に陸氏の縁戚がこの地にやってくるとは、不穏なものを感じずにはいられない。
 その上、対面に座しているのはどうみても十を少し過ぎたばかりの少年である。確かに差し出してきた書状は正式なそれであったが、使者として出向くには些か幼すぎるように思われた。
「懸念は十分承知のつもりです。もしこの通りに行けば、袁術は舒に攻め入ってくることでしょう。そうすれば命数はこちらにはありません。宗家嫡子の陸績は私よりも年少ゆえ私が一族数名を託されこちらに落ち延びてきた次第です」
 こちらの疑念を的確に感じとり淀みなく受け答え、所作にも卒がない。その見目も声も紛れもない少年のものなのに、無遠慮な視線にも臆することのない胆力を持ち合わせていることには関心はするもののどこか年不相応だ。
 それに何よりもこれで一族の長だと言う。朱旦もまた、つい数年前に討死した父親に代わって家督を取ったばかりなのだ。このようなことがままあるのが乱世なのだろうが、そう切り捨ててしまえば何か大事なものを失うように思われる。この子どもに一体何がしてやれるだろう、といつの間にか考え始めていた。
「我が朱氏は弱小なれば、大したことはできぬ。されど力になれることがあれば助力いたそう」
「そう言っていただけるとありがたいです」

 目の前の聡い子どもはきっと、これを詮無い口約束のようなものだと思ったに違いない。例え本籍地であるとしても、この揚州の地は袁術の息のかかった地だ。彼らにとっては少し息の詰まる場所になるかもしれない。この小さな県の中で県令にもなれぬ朱氏の持つ力などたかが知れている。取り逃した陸氏の一門を保護したことが知れて果たしてこの家を守り抜けるかは賭けよりも絶望的な可能性を秘めている。しかし、朱旦は本気で言っていた。半ば子どもに対する云わば仁愛とかいう、このご時世吹けば飛ぶようなもの。半ばその恩を糧にして名を上げるための野心から。この子どもの器は見ればすぐにわかる、将来大器を為すそんな確信が朱旦にはあった。

***

「……お客様はもうお帰りに?」
 何か書きつけていた朱旦は顔を上げて声の主を認めると筆を止める。浮き足立った様子で居室に入ってくる女の手を慌てて取ると、軽やかな笑い声が耳元を撫でた。もうすぐ待ちに待った初めての子が生まれるというのに、彼女は元から危うげな足取りをさらに危なっかしく屋敷の中を歩き回るのだから気が気でない。かといって、家の中のことは全て彼女に任せているので口をはさむことなどできないのだが。
 椅子に座らせると何が楽しいのか、未だ笑い続ける彼女に呆れた視線を投げかければやっと声を止めた。彼女の良いところはこうして主人の機嫌を損ねるかどうかの境界をしっかりと理解していることだろう。もしくは、女は総じてこのような性質なのだろうか。二、三瞬きをした後に花の蕾が綻ぶように微笑むのがこちらの気を紛れさせるときによくする彼女の癖だった。

「皆噂しておりましたの、かわいらしいお客様がいらしたって」
 確かに聡明なだけでなく、見目もなかなかに良くできた子どもだった。美醜の感覚は人並みな己にもわかるほどには。しかし、女から見れば子どもなど皆かわいいものなのかもしれない。
「年の頃は、確か……十かそこらだったな」
「まあ、この子と仲良くしてくださるといいのだけど」
「男なら良い兄になってくれることだろう」
「本当、男の子がいいとしか言われませんのよ。女の子だって素敵ですわ」
 拗ねたように言う彼女の言いたいことも分かる。嫁いできた以上、家を継ぐべく子を産むのが債務だが女にとっては同性の子はかわいい事だろう。どちらでも、人並みに幸せになってくれればそれでいい。親としてはそれが一番の願いなのかもしれない。


 初平四年、雪の降る日。




序章 終


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