疼痛ラピスラズリ


これの続きです







約三ヶ月前の、九月某日。ひょんなことから成り行きでフドウと二人で温泉旅館に泊まった俺は、それから懊悩する日々が続いていた。
理由、というか。きっかけは見え透いている。あの時二人で入った部屋の露天風呂で、フドウからキスされたことだ。思い返してふと無意識に唇へ手をやっていたことに気づいて、誰が見ているわけでもないのに慌てて頭を振った。
フドウが何故あんなことをしたのか、あの時はとうとう聞けなかった。そのままズルズルと聞くタイミングを逃し、結局あの時芽生えた異物はすくすくと消化しきれない感情として肥えきってしまった。今思うとあの時無理やりにでも聞いておけば結果は違ったような気がするのだが、今になってその時の俺を責めても所詮は後の祭りというものだ。結果として今こうなってしまったのだから、可及的速やかにどうにかしてこれと折り合いをつけなければならなかった。
そもそも、フドウが何故あんなことをしたのかが全く読めないのが困るのだ。しかしそこは乙女座、普段から何を考えているのかわからない男だ。悪い奴じゃないのは間違いないにしろ。脳裏に過るのはあの美しい微笑みばかりで、あれをキスだと思ってやったのかすらわからなかった。
…何より問題なのは、俺がそれを拒絶しなかったこと。それを裏付けるように後からじわじわとした羞恥が襲ってきて、俺があの行為を内心で嬉しく思っていたのを自覚してしまったこと。無意識の態度に嘘はつけなかった。つまり俺はフドウのことをそういう意味でも好ましく思っているということだった。
はあ、と大きくため息をついてまた頭を抱える。あの不意のキスさえなければ、おそらく一生気付くことのなかった感情だというのに。まさかこんなことになるとは、三ヶ月前なんとなくでフドウを誘ってしまった自分を恨んだ。いやそもそもそういう萌芽があったからこそあの時誘ってしまったのかもしれないと、結局遣る瀬無い切なさは矛先を失って、そのまま今現在の俺に返ってくることになるのだが。



___


人馬宮。いつものように鍛錬として小宇宙を高めていると、背後から声がかかった。
「星矢」
「…フドウ?」
どうやらアテナ神殿、あるいは教皇宮からの帰途であろう。ピクリと体が揺れてしまったが、少なくとも平静には装えた。…はずだ。俺の内心の動揺に気づいているのかいないのか、フドウに変化は見られない。
「何か…?」
「ああ、そろそろあなたの誕生日ではないかと」
「…えっ?…あ、ああ…」
俺は驚いてわずかに呆然とした。そういえばそうだった、という驚きとフドウが俺の誕生日を知っていたという驚き。後者に関しては、他の聖闘士からそのことを聞いたのだろうか。
「当日は、他の人間と過ごすでしょう。今日は空いていますか」
「空いてるが…」
「では、ついて来ていただけますか」
何だろう、と思いながら言われるままにフドウについていく。長い石段を下り、やがて処女宮に着くと、そのまま処女宮の奥へ進む。どうやら目的地はここにあるらしい。一瞬処女宮の脇にある私室へ通されるのかと思ったが、どうやらそっちでもないようだ。何も言わないフドウについていくと、やがて処女宮の壁沿い、大きく重そうな扉の前でフドウは止まった。これほどの扉、力を入れなくては簡単には開かなさそうに見えたが、存外それはフドウが押すと柔らかく開いた。扉の隙間から光が差し込む。そのままフドウは扉の先へ進む。
「ここは…」
広大な、花畑だった。あたりを見渡しても、およそ見切れぬほど花々が生い茂っている。フドウはやがて花畑の中心、大樹の根元で立ち止まる。横に並ぶと、ここが一番、フドウの小宇宙を強く感じた。俺は無意識にぞくりとして、肌が粟立つ感覚を覚える。
「貴方が何を喜ぶのか、皆目検討がつかず」
「…」
「こういった伝え方しかわかりませんでした」
フドウは花畑に目を移す。咲き誇る花々の一輪一輪から、仄かにではあるが確かに、フドウの小宇宙を感じた。
「…」
元はここは、更地だったはずだ。マルスによって破壊され、一度復興されてからも、先代の黄金聖闘士のアテナエクスクラメーションで破壊された沙羅双樹の園は戻らず、結局広大な敷地を持て余すまましかし過去の記憶として残すことにした、と聞き及んでいる。
それが今は、こうして目の前に蘇っていた。
広大な花畑からは、生命の息吹を感じる。力強く、静謐で、そしてどこか優しい、フドウの小宇宙が息衝いている。
「ありがとう、フドウ」
先代を知る者として。継いでいく者として。こうして失ったものが取り戻されるのは、至上の歓びであった。俺の裡に穏やかな幸福が広がっていく。
フドウは何も言わずに微笑んだ。表情こそ変わらないものの、いつもより感情的な微笑みに見えた。綻ぶ、ような。
「喜んでいただけたのなら、何よりです。…少し早いですが、おめでとう、星矢」
はにかんでフドウは告げた。きっと本人もこういうことには慣れてないんだろうなと感じさせた。それが何だか少しおかしくて、つい可愛いと思ってしまう。
「…なあ…お前はさ、俺のこと、どう思ってるんだ…?」
幸いにして二人きりだ、聞くなら今しかないと考えていたことがするりと口を衝いて出た。
「…そうですね、無くてはならない存在…でしょうか。」
「!」びくっと、恥ずかしいくらい動揺した。はしたなくも俺は、期待しているのだと。続きの言葉を待っていると、フドウは滑らかに告げる。
「あなたの聖闘士としての資質、そしてそれに付随するあなたが齎す士気は、他の人間には補えぬものです。ハービンジャーが教皇として聖域を取り纏め始めたとはいえ、まだまだあなたの存在はこの聖域、延いては聖闘士にとって不可欠な存在でしょう」
「…ああ…、そうじゃなくてだな…」
思わず拍子抜けして、がくりと項垂れる。いや、嬉しいのは嬉しいにしても、あらゆる認識の齟齬に気が抜ける。まあ、こいつらしいといえばらしいのだが。
「では、どのような」
「前に…俺にさ、…、キスしただろ…。」
一瞬だけ、フドウは、動きを止めた。それが動揺だったのか、それともそうではないのか、俺にはわからなかったが。「以前の…旅先で」
そう、と頷くとフドウは考え込んだ顔つきになる。「…そうですね…、あれは」
自分のごくりと唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。
「あの時の星矢が、何というか…まるで別人のように見えて」
「別人…?」
「いつも見ている星矢ではないような…そんな気分になって。触れたいと思うまま、口付けていました。気を悪くしましたか」
フドウ自身も意識していなかったように言葉を並べる。まるで他人事みたいに喋るのは、もうそのような気は起こらないからだろうか。
「嫌だったわけじゃない、が…。じゃあ、ただの気まぐれだったってことか…?」
想定していた一つの返答に、俺は内心がっくりとしながら、さらに質問する。気まぐれだったならばそれはそれで構わない。あれはただの間違いだったと、吹っ切れられるから。「気まぐれ、というよりは…私自身も無意識の行動でした。まさか私も、ああいう形で露呈してしまうとは思っていませんでしたが…」
フドウの返答に俺はン?と首を傾げながら続ける。「露呈…?」
「おそらく私は、あなたに執着しているのでしょう。私自身、これがどのような感情であるのか未だに理解していないのですが…少なくとも、私はあなたを特別視しているようです」
何でもないようにつらつらと述べるフドウの代わりに、俺の顔に熱が集まっていく。こいつ…わからん奴だとは思っていたが、ここまでだとは。
「お前今すごい口説き方してるぞ」
「してませんが」
「自覚もないのか…」
はあ、とわざわざ聞こえるように大きくため息をついてから、両手を広げる。踏み切らずにただ身を寄せたフドウを、俺の方から柔らかく両手で捕まえる。身長差があるから、胸に収まってしまうのが何だか悔しい。「…星矢?」
「嫌じゃないか?」
「…ええ」
つめたい金属の聖衣越しに、とくとくとフドウの心音が聞こえる。こうして触れているとこいつもここに生きているんだということを意識して、頭がじんわりとほどけていく。やがてお互いの熱が混ざり合って、隔てる聖衣にも温かさが灯っていく。これの意味を気づかせるために、あえて何も喋らずに少しそうしていた。恥ずかしい話だが、仕掛けた俺の方がどきどきしていたかもしれない。
「……ふつうさ、そういう時は好きって言うんだよ」
「…迷惑ではないのですか」
「だったら、ここまでしない」
一つづつ言い聞かせてゆく。躊躇ったように回された腕が、少しだけ力強くなった。
「俺が欲しい?」
「…まだわからない。これを愛と呼んで良いのかも」
「いいよ、ゆっくりで」
優しすぎるのだろうな、と思った。他人のことは祈れても、自分のために生きるということを考えたことがないのだろう。それが神の化身として生を受けた彼の本分であったとしても、俺は俺のわがままで、フドウに感情を教えてやりたかった。
宥めるように、触れ合わせるだけの甘やかしたキスを与えると、フドウは溜息をついてから、優しい口付けで応えた。



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